(館野和己)
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奈良初期の政治家。天武(てんむ)天皇の孫。父は高市(たけち)皇子。母は『公卿補任(くぎょうぶにん)』に天智(てんじ)天皇女(むすめ)、御名部(みなべ)皇女とある。御名部皇女は元明(げんめい)天皇の同母姉である。妃は草壁(くさかべ)皇子女吉備(きび)内親王、夫人に藤原不比等(ふひと)女がある。709年(和銅2)従三位(じゅさんみ)宮内卿、翌年式部卿に転じ、716年(霊亀2)正三位、718年(養老2)大納言(だいなごん)に任じ、720年不比等が死ぬと、翌年従二位右大臣に任じ政権の首班となった。ただし不比等の死の直後、舎人(とねり)親王が知太政(だいじょう)官事、新田部(にいたべ)親王が知五衛および授刀舎人事に任ぜられていて、長屋王を牽制(けんせい)する形になっている。
724年(神亀1)左大臣に任ぜられた。同年聖武(しょうむ)天皇が生母藤原夫人宮子を大夫人と称せしめるよう勅を出したが、左大臣らは奏して、公式令(くしきりょう)には皇太夫人と称すべきことが定められている、勅と令とのいずれをとるべきか決められんことを請うた。ここに皇太夫人と号し、大御祖(おおみおや)とよむことに決定、前勅は撤回された。これは次の件と揆(き)を一にする性格をもつ。729年(天平1)王は左道を学び国家を傾けようとしていると讒言(ざんげん)され、問罪されて2月12日妃や王子とともに自殺した。その原因は光明夫人の皇后冊立に反対したためと推定される。すなわちその前年夭折(ようせつ)した光明所生の基(もとい)王とほとんど同時に生まれた県犬養(あがたいぬかい)夫人所生の安積(あさか)親王に対抗して、光明を皇位継承権をもちうる皇后の地位に立てようとする動きがあったのを、長屋王に反対されたのである。王は文雅を好み自邸作宝(さほ)楼に文人を集め、しばしば詩会を開いた。『懐風藻』に詩三編、『万葉集』に和歌五首が残る。仏教を崇敬し、袈裟(けさ)1000をつくり、唐の僧に施し贈った。
[横田健一]
奈良時代前期の皇親政治家。天武天皇の孫,高市皇子の第1子。母は天智天皇皇女の御名部皇女であるという。鈴鹿王の兄。《続日本紀》の伝によると吉備内親王(元明天皇と草壁皇子の子)との間に膳夫王,桑田王,葛木王,鉤取王がおり,同書天平宝字7年(763)10月丙戌条の藤原弟貞伝によると,藤原不比等の女某との間に安宿(あすかべ)王,黄文(きぶみ)王,山背王(藤原弟貞),教勝がいた。そのほか賀茂女王,円方女王も王の女である。718年(養老2)3月大納言に任じられた。翌々年に右大臣藤原不比等が没するや,721年正月の人事異動で右大臣に昇り,さらに724年(神亀1)2月,聖武天皇の即位と同日,左大臣となった。同年3月,聖武生母の藤原宮子の称号について言上し,大夫人,皇太夫人のいずれをとるべきか問うている。このこともあって光明立后を画策する藤原氏から,その反対の中心人物と目され,陰謀がしくまれた。729年2月10日,王がひそかに左道を学び,国家を傾けんとしているという密告があり,ただちに王に対する訊問が行われた。そして2月12日には早くも自尽を命ぜられている。このとき吉備内親王とその子たちは自殺したが,藤原不比等の女某とその子たちは死を命ぜられなかった。王と吉備内親王の遺骸は生馬山(生駒山)に葬られた。王の佐保宅(作宝楼,作宝宮)ではしばしば詩宴が催され,その作品が多く《懐風藻》におさめられている。また《万葉集》にも王の歌がある。王は写経にも熱心で,長屋王願経として知られる和銅経,神亀経(ともに大般若経)の一部分が現存している。《日本霊異記》には逆に沙弥に乱暴し,その応報で陰謀にまきこまれ,王の骨がたたりを及ぼしたとの説話がみえる。
執筆者:栄原 永遠男
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?~729.2.12
天武天皇の孫で,高市(たけち)皇子の子。母は天智天皇の子で元明天皇の姉御名部(みなべ)皇女か。文武天皇の同母妹吉備内親王を正妻とし,親王に準じる高い待遇をうけた。元明天皇の信頼あつく,720年(養老4)の藤原不比等(ふひと)の死後は政権の中核となり,右大臣ついで左大臣に任じられ,良田百万町の開墾計画(722),三世一身の法の制定(723)などの諸政策を実施した。しかし724年(神亀元)の聖武天皇の即位後は,藤原武智麻呂(むちまろ)ら不比等4子の勢力が強まり,729年(天平元)謀反の罪で妻子とともに自殺に追いこまれた(長屋王の変)。漢詩文をよくし,自邸でしばしば詩宴を催したほか,仏教の信仰もあつかった。王の邸宅跡からは多くの木簡が出土している。
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…そのほか,もちろん賓客に対するもてなしとしての宴会もある。8世紀には,唐,新羅,渤海の使節が来訪すれば,朝堂院において天皇出御のもとに宴が開かれるのが例であったし,《懐風藻》で知られるように,長屋王は自邸に新羅使節を招いて詩賦の宴を催している。年初に行われる二宮(中宮と東宮)大饗,大臣大饗などは,年中行事としての宴ではあるが,直属の臣下あるいは一族の高官を招いて開く宴であるから,一面では賓客に対するもてなしとしての性格をもっており,3夜連続して行うのを通例とする結婚の宴は,通過儀礼にともなう宴であると同時に,賓客へのもてなしの宴でもあって,後に述べる三日厨(みつかくりや)に通ずるところがある。…
…729年(天平1),藤原氏によって長屋王を打倒するためにしくまれた政治的陰謀事件。727年(神亀4)閏9月,聖武天皇と夫人藤原光明子との間に某王(基王とも)が誕生した。…
…その間,首(おびと)皇子(母は藤原宮子)が14歳で立太子,また元正天皇(元明天皇の娘)が皇太子の成長を待つ間,しばらく女帝として即位したが,不比等は三千代との間に生まれた安宿(あすかべ)媛(光明子)を皇太子妃とし,さらにみずからが中心となって養老律令の撰定に着手した。 しかしその藤原不比等が720年に死去すると,直ちに《日本書紀》撰進の大任を果たしたばかりの舎人(とねり)親王が知太政官事に,新田部(にいたべ)親王が知五衛及授刀舎人事に就任,また翌年には長屋王(父は高市皇子)が右大臣に昇進して,天武系皇親が新政権の中核となり,政局は大きく転換した。時も時,元明太上天皇が病死,また多治比三宅麻呂と穂積老が謀反誣告と乗輿指斥の罪で配流される事件が起こって不穏な情勢となったが,間もなく724年(神亀1)には首皇子が聖武天皇として即位し,ついで安宿媛との間にはじめて皇子(基王とも伝える)が誕生,直ちに立太子された。…
…
[奈良時代]
文武天皇が宮子の生んだ首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を残して早世すると,不比等は後妻の県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の生んだ光明子を首の夫人として皇室との姻戚関係を維持しながら,武智麻呂(むちまろ),房前(ふささき),宇合(うまかい),麻呂(まろ)の4子を次々と朝廷に送りこみ,717年に右大臣で朝廷の首班となると房前を参議に加え,大臣以下参議以上の公卿には有力諸氏から1人ずつという慣例を破り,720年に不比等が没した後は,武智麻呂が中納言となって公卿に加わった。だが首班は左大臣長屋(ながや)王となり,王は即位した聖武天皇の皇后に光明子が夫人から昇格することに反対したので,729年(天平1)武智麻呂ら4兄弟は長屋王を反乱の罪名で自殺させ(長屋王の変),光明子を臣下の出身としては最初の皇后とした。しかし737年には疫病のために4兄弟がみな病死して県犬養三千代の前夫の子の橘諸兄(たちばなのもろえ)が朝廷の首班となり,また740年に宇合の子の広嗣が北九州で反乱を起こしたので(藤原広嗣の乱),藤原一族はしばらく塞(ひつそく)した。…
…697年(文武1)8月,文武天皇の夫人となり,701年(大宝1)12月に首(おびと)皇子(聖武天皇)を生んだ。724年(神亀1)2月,聖武天皇の即位によって大夫人の号が与えられたが,長屋王が令の規定とのかかわりを問うたので同年3月にこれを改め,文字で記す場合には皇太夫人,言葉であらわす場合には大御祖(おおみおや)と称することとなった。また皇太后でもあったが,749年(天平勝宝1)7月の孝謙天皇の即位により,太皇太后となった。…
※「長屋王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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