木食上人(読み)もくじきしょうにん

改訂新版 世界大百科事典 「木食上人」の意味・わかりやすい解説

木食上人 (もくじきしょうにん)

肉類五穀を食べず,木の実や草などを食料として修行することを木食といい,その修行を続ける高僧を木食上人といった。高野山の復興に尽くした安土桃山時代の応其(おうご)(木食応其)は,広く木食上人の名で知られるが,江戸時代前期には摂津の勝尾寺で苦行を続け霊験あらたかな僧として知られた以空(いくう),中期には京都五条坂の安祥院中興の祖となった養阿,江戸湯島の木食寺の開基として知られる義高,後期には特異な様式の仏像を彫刻して庶民教化に尽くした五行(木喰五行明満)があらわれるなど,木食上人として崇敬された高僧は少なくない。木食は苦修練行の一つで,それを行うことによって身を浄め,心を堅固にすることができるとされたが,経典儀軌の中に木食の典拠は見いだせない。

 中国では道教の修行者の中に,避穀長生の術として山中に隠棲して木の実を食し,穀類を口に入れない行者があった。世間から離れて山林で修行する仏教の僧の中には,道教の避穀の修行をとり入れる者があらわれ,《宋高僧伝》巻八の智封伝には,木食のことが記されている。日本でも,山岳修行がさかんになるにつれ,山中で穀断ち塩断ちの行を続ける聖(ひじり)が多くなったらしく,《今昔物語集》をはじめとする説話集には,木の実や草を食して修行を重ねた聖が人々の尊崇を受けた話や,偽の聖が穀断ちの行者といつわって,庶民を惑わした話が見える。やがて,修験道(しゆげんどう)がさかんになると,各地の修験霊場には人々の崇敬を集める木食上人があらわれ,そのまわりに半僧半俗の木食行者たちが集まるようになった。また,木食の行も,例えば湯殿山ではそばと飴(あめ)は食することを認めるというように,土地によってこまかな戒が定められるようになった。東北地方を中心に見られる即身仏信仰の中で,仏になる行者は長期間の木食行によって身心を浄めるとされたが,木食上人への崇敬は,修験系の信仰を通じて日本の各地に広まった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「木食上人」の意味・わかりやすい解説

木食上人【もくじきしょうにん】

出家した後,米,野菜を食せず,木の実,山菜のみを食して修行する僧の通称。特に有名なものに次の二人がある。(1)応其(おうご)〔1536-1608〕は戦国時代,真言宗の僧。近江(おうみ)の人。俗姓は藤原氏。37歳で高野(こうや)山に入る。1585年豊臣秀吉が高野山を討とうとしたとき,秀吉と折衝,討つことの非をねんごろにさとした。ために秀吉の帰依(きえ)を受け厚遇された。青巌(せいがん)寺,興山寺の創建者で,詩歌にひいでた。(2)五行(ごぎょう)〔1718-1810〕は江戸後期の遊行(ゆぎょう)造像僧。甲斐(かい)の人で,名は明満(みょうまん)。俗姓は伊藤氏。22歳で仏門に入り,45歳で〈木食戒〉を受け,終生それを守った。千体造仏を発願し,1773年から全国を回り,各地に特異な木造仏を残している。円空(えんくう)と並称されるが,丸みの多い曲線的表現と柔和な微笑が特徴。 ほかに以空(いくう),養阿(ようあ),義高(ぎこう)などがいる。
→関連項目鉈彫柳宗悦

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android