白須賀(読み)シラスカ

デジタル大辞泉 「白須賀」の意味・読み・例文・類語

しらすか【白須賀】

静岡県西端、湖西市地名。もと東海道宿駅で、遠州灘を望む汐見坂がある。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「白須賀」の意味・読み・例文・類語

しらすか【白須賀】

静岡県南西端、湖西市の地名。江戸時代東海道五十三次新居二川の間にあった旧宿駅。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

百科事典マイペディア 「白須賀」の意味・わかりやすい解説

白須賀【しらすか】

遠江国敷智(ふち)郡の地名。浜名湖西岸に位置し,遠州灘に面している。中世からみえる地名で,近世には遠江国の最も西にあった東海道宿駅であった。現在は静岡県湖西(こさい)市の大字(おおあざ)。文永2年(1265年)成立の《続古今和歌集》に〈松かげのいりうみかけてしらすげのみなとふきこすあきのしほかぜ〉の歌が載るが,〈しらすげ〉は当地を指すと推定されている。1353年には上洛途中の足利尊氏が当地に到着している。1601年汐見(しおみ)坂の下に宿駅が指定されたが,1707年の宝永の大地震による津波の被害によって坂の上に移転した。《東海道宿村大概帳》によれば,宿内町並みは東西14町余,人口は隣接する三河国境の加宿(かしゅく)境宿(さかいじゅく)新田(現,湖西市)を含め2704人,家数は613軒で,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠(はたご)屋27軒があった。宿内の茶屋で売り出された猿ヶ番場(さるがばんば)の柏餅は,街道筋の名物として知られる。1889年白須賀町,1955年湖西町,1972年湖西市の各大字となり,現在に至る。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「白須賀」の意味・わかりやすい解説

白須賀 (しらすか)

遠江国(静岡県)の最も西に位置する東海道の宿駅。1601年(慶長6)汐見坂下に宿駅として指定されたが,1707年(宝永4)の大地震による津波の被害により,坂上の現在地へ移転し,西隣の境宿新田を加宿とした。境宿新田の西端には川幅2間ほどの境川が流れ,遠江・三河の国境となっている。汐見坂は眼下に太平洋が広がり,東海道では富士山の見える西方の限界に位置する景勝地で,中世から多くの文人・画家にその材料を提供している。白須賀宿は1843年(天保14)の調査によれば,人口が加宿と合わせると2704人で,宿の中心部に本陣・脇本陣が1軒ずつ,旅籠屋が27軒あった。東海道の隣宿の新居宿までは1里24町,二川宿へは1里17町の距離があり,また渥美半島の村々へ通ずる脇往還の起点となっていた。宿内の茶店で売り出した猿ヶ番場の柏餅は,街道筋の名物として旅人に好まれた。現在でも比較的宿場時代の町並みを残している。1955年湖西町となり,72年市制施行。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「白須賀」の意味・わかりやすい解説

白須賀
しらすか

静岡県湖西市(こさいし)の南西端の地区。旧白須賀町。遠州灘(えんしゅうなだ)に面し、海岸沿いに国道1号が通じ、国道42号が分岐、伊良湖(いらご)岬へ通じる。江戸時代には東海道五十三次の宿駅として繁栄した。白須賀宿は潮見坂下の海岸沿いにあったが、1707年(宝永4)の地震による津波で壊滅したため、現在の坂上に移された。東海道本線が遠く北を開通したため衰微したが、現在は自動車工場も進出。野菜、タバコ栽培、沿岸漁業を行う。

[川崎文昭]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「白須賀」の意味・わかりやすい解説

白須賀
しらすか

静岡県南西端,湖西市の集落。旧町名。 1955年近隣町村と合体して湖西町と改称,72年市制。旧東海道の宿場町。遠州灘にのぞみ,付近に砂丘とマツ林の潮見坂の景勝地があり,浜名湖県立自然公園に属する。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

事典・日本の観光資源 「白須賀」の解説

白須賀

(静岡県湖西市)
東海道五十三次」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報