野中寺(読み)ヤチュウジ

デジタル大辞泉 「野中寺」の意味・読み・例文・類語

やちゅう‐じ【野中寺】

大阪府羽曳野市にある高野山真言宗の寺。山号は、青竜山聖徳太子の命により蘇我馬子創建と伝える。南北朝の兵火で焼失、寛文年間(1661~1673)に再建。丙寅年(666)の銘をもつ金銅弥勒半跏像がある。中の太子。のなかでら。

のなか‐でら【野中寺】

やちゅうじ(野中寺)

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精選版 日本国語大辞典 「野中寺」の意味・読み・例文・類語

やちゅう‐じ【野中寺】

大阪府羽曳野市にある高野山真言宗の寺。山号は青龍山。院号は徳蓮院。聖徳太子の命により蘇我馬子の建立(こんりゅう)と伝えられる。創建当時の伽藍は法隆寺式に似た配置で、その様式は野中寺式とよばれる。南北朝時代兵火で焼失したが、寛文元年(一六六一再興された。金銅彌勒半跏像(みろくはんかぞう)は頭部が大きく御物四十八体仏と同種で、天智天皇五年(六六六)の銘文で名高い。のなかでら。中の太子。

のなか‐でら【野中寺】

大阪府羽曳野市野々上にある高野山真言宗の寺、野中寺(やちゅうじ)のこと。山号は青龍山。聖徳太子の命による蘇我馬子の創建と伝えられ、当初の伽藍配置は法隆寺に似ていた。

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日本歴史地名大系 「野中寺」の解説

野中寺
やちゆうじ

[現在地名]羽曳野市野々上五丁目

隣接する藤井寺市のミサンザイ古墳の南方六〇〇―七〇〇メートルにあり、寺の南を古代の丹比たじひ道が通ったと推定される。青竜山と号し、高野山真言宗、本尊は薬師如来境内に法隆寺式伽藍配置の跡が残り、建立年代は奈良時代前期とされる。聖徳太子建立四八院の一で、太子を開基とし蘇我馬子の造立と伝える。俗に「中太子なかのたいし」とよばれ、叡福えいふく(現南河内郡太子町)の「上太子」、大聖勝軍たいせいしようぐん(現八尾市)の「下太子」とともに河内三太子の一。当寺の護持には、丹比郡野中のなか郷を本貫とする渡来系氏族船氏が当たっていたとも、同氏の氏寺ともいわれる。「日本後紀」延暦一八年(七九九)三月一三日条に「葛井、船、津、三氏墓地、在河内国丹比郡野中寺以南、名曰寺山」とあり、菅野真道が野中寺の南の寺山を三氏の墓地に請うている。また「日本霊異記」下巻第一八話には、丹治比たじひの経師が野中堂で法華経写経中に、雨を避けて堂に入ってきた女衆を邪淫し悪死する説話を収めるが、この「野中堂」は「今昔物語集」の同内容の説話にみえる野中寺のことと考えて間違いない。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「野中寺」の解説

野中寺
やちゅうじ

大阪府羽曳野(はびきの)市にある高野山真言宗の寺。青竜山徳連院と号し,俗に中の太子とよぶ。聖徳太子の創建といい,蘇我馬子(うまこ)の建立とも伝えるが,当地本拠とする船氏の氏寺(うじでら)と考えられる。はじめ法隆寺式伽藍配置であったが,たびたび火災にあい,現在礎石が残存する。近世には戒律道場として栄えた。旧伽藍跡は国史跡。金銅弥勒菩薩像・木造地蔵菩薩像は重文

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「野中寺」の意味・わかりやすい解説

野中寺
やちゅうじ

大阪府羽曳野市野々上にある高野山真言宗の寺。号は青竜山徳蓮院。聖徳太子の御願 46院の一つで,蘇我馬子の建立と伝えられる。古くは堂塔が完備していたが,のちに衰え,江戸時代に覚英慧猛などの僧が中興して戒を宣揚した。白鳳時代の弥勒菩薩半迦像を蔵し,境内地からは古建築の礎石と飛鳥式の瓦が発掘された。

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世界大百科事典(旧版)内の野中寺の言及

【漢氏】より

…西漢は,河内国丹比・古市2郡を中心に,近接して居住し,文・武生・蔵の首(おびと)姓,船・白猪(しらい)・津の史(ふひと)姓などの各氏にわかれたが,東漢ほどの勢力はなく,八色の姓でも,忌寸をあたえられたのは文(書)首など少数にとどまった。しかし,8~9世紀に津氏が菅野朝臣(あそん)を賜り,政界で活躍し,また在地では,西琳寺(さいりんじ),葛井寺(ふじいでら),野中寺(やちゆうじ)などの氏寺を経営した。東漢氏【平野 邦雄】。…

※「野中寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」