アーガイル(読み)アーガイル[はく・こうけ](英語表記)argyle

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アーガイル」の意味・わかりやすい解説

アーガイル(伯・公家)
アーガイル[はく・こうけ]
Argyll, Earls and Dukes of

スコットランド貴族家柄。2代カンベル侯コリン・カンベル (1493没) が,1457年アーガイル伯家を興したのに始り,代々カンベル家に継承されてスコットランドの名門となった。8代伯アーチボルド (1607~61) はアーガイル侯になったが,刑死したため,侯爵位は彼だけで終った。その子のアーガイル伯 (9代) アーチボルド (29~85) もモンマス (公)反乱に加わって処刑され,伯爵位もとだえたが,その子アーチボルド (51頃~1703) はグレンコーの虐殺の当事者の一人として悪名が高いにもかかわらず,1701年公爵に叙せられた。その子の2代公ジョン (1680~1743) はイングランドとスコットランドの合同 (07) の実現や,ハノーバー朝の成立 (14) に貢献し,「十五年の反乱」の鎮圧に貢献した。その弟の3代公アーチボルド (1682~1761) は R.ウォルポールのスコットランド政策の顧問をつとめた。その後も公爵位は代々継承され,10代公アーチボルド (1903没) にいたった。

アーガイル(侯)
アーガイル[こう]
Argyll, Archibald Campbell, 8th Earl and 1st Marquess of

[生]1607
[没]1661.5.27. エディンバラ
スコットランドの貴族。 1638年父の死により8代アーガイル伯となる。長老派盟約者たちの指導者としてイングランド王チャールズ1世と W.ロードの国教強制に反対し,39年からの主教戦争には軍を率いてイングランドに侵入。 41年講和後,侯爵に昇格清教徒革命にもスコットランド軍を率いて議会軍援助におもむき,46年国王の投降後はスコットランドの政権を握った。しかし国王処刑を機に O.クロムウェルらに批判的になり,皇太子チャールズ (のちのチャールズ2世 ) 支持に転向して,50年彼を亡命先から迎え,イングランドと開戦したが敗れ,52年降伏。以後共和国政府と妥協し,59年国会議員に選ばれた。そのため王政復古後,反逆罪をもって裁かれ,処刑された。

アーガイル(伯)
アーガイル[はく]
Argyll, Archibald Campbell, 9th Earl of

[生]1629.2.26. ダルキース
[没]1685.6.30. エディンバラ
スコットランドの貴族。初代アーガイル侯の長男。 1648年から大陸に遊び,50年帰国して皇太子チャールズ (→チャールズ2世 ) の近衛隊長になり,イングランドと戦ったがダンバーの戦いで敗れた。その後もスコットランドで国王派として活躍し,王政復古とともにチャールズ2世の宮廷に登用され,63年伯爵,64年スコットランド枢密顧問官。 81年主教制度護持のためのスコットランド審査法に反対して裁判にかけられ,死刑を宣告されたがオランダ逃亡,この地でモンマス (公)接触,彼の反乱計画に加担。 85年5月スコットランドに戻り,モンマス公に呼応して挙兵したが失敗し,逮捕,処刑された。

アーガイル
argyle

格子柄一種ダイヤ(斜め格子)形の多色模様で,靴下セーターなどの編み込み模様に多く使用される。語源はスコットランド西部のアーガイル地方の名に由来する。

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