日本大百科全書(ニッポニカ) 「イギリス美術」の意味・わかりやすい解説
イギリス美術
いぎりすびじゅつ
イギリス美術は、古代ローマの遺跡やそれ以前の先史時代を除くと、大略して、中世、近世、近代、現代の4期に分けられる。いずれもヨーロッパ大陸諸国と、1950年代後半以降はことにアメリカと絶えず不可分の関係を保ちつつ独自のものを生み出している。また一説に、大陸諸国の美術は建築やそれに付随した壁画、彫刻から出発したのに対し、イギリス美術は中世以来のミニアチュールやマニュスクリプト(手写本)の伝統を継承して始まるといわれるのもうなずけるふしがある。建築は、大陸のものと比べ、例外はあるにせよ、聖堂、城、館(やかた)、民家など、どことなく無骨で頑健で実質的なところがあり、換言すれば残酷でもあり、装飾性がなく、そこにまた独特な魅力がある。一方、ミニアチュールやマニュスクリプトは華麗なわりに素朴な親密感がある。その点、見方にもよるが、中世と現代とにもっとも魅力があり、近世では、いわゆる正統派は華麗さはあるものの、例外的作家や作品を除いて、見るべきものはあまりない。
[岡本謙次郎]
中世の美術
中世の建築ではダーラム大聖堂、カンタベリー大聖堂、そのほかイギリス風ロマネスクやゴシックの作例も少なくないが、同時に、小さな村にあるひなびたロマネスクの小教会などにも興味深いものがあり、各所に点在する廃城の遺構群も印象的である。工芸も、家具調度など、生活に密着し、有機的な構造をもっていて、無骨で荒さがあるが、その堅牢(けんろう)な構成に作者の生命が隅々まで通っている。こうした工芸の伝統は、産業革命による大量生産以前まで続くといってよいが、19世紀末のウィリアム・モリスの美術運動も、このあたりに着目してのことといってよかろう。ミニアチュールとしては、700年ごろアイルランドで制作された『ダロウの書』『ケルズの書』などが、ケルト系の縄目模様やキリスト教に対する異教的要素を取り入れた点で有名である。そのほか各地の博物館、図書館に収蔵されている数は膨大で、未調査のものも多い。13世紀ヘンリー3世(在位1216~1272)のころから、百年戦争を一つの契機として、14、15世紀に外国の芸術家たちが渡英し、多くの作品を制作しているが、パネル画としては『ウィルトン家の二翼祭壇画』(1380~1390)が国際ゴシック様式の一典型として著名である。
[岡本謙次郎]
近世の美術
ヘンリー8世(在位1509~1547)のとき多くの外国画家が渡英し優遇されたが、そのうちハンス・ホルバインはイギリスに定住した最初の一流画家といえる。この時期から肖像画がようやく興隆するが、イギリス人の画家としては、ホルバインの流れをくみつつ風土的なものを感じさせるミニアチュール画家ニコラス・ヒリヤードとその弟子アイザック・オリバーIsaac Oliver(1565?―1617)がいるくらいである。1629年、チャールズ1世在位中、ピーター・パウル・ルーベンスが外交使節としてロンドンにきたことはイギリス画壇に大きな刺激を与える。ついで1632年のファン・ダイクの渡英定住は、以後1世紀あまり、イギリスのアカデミックな肖像画に、ほとんど決定的な影響を与えることになる。18世紀の擬古典主義はロンドンを中心とする上流社交界と結び付き、また、絵画における後進性という意識は、目標としてその頂点を首都に集中する。画家はほとんどみなロンドンに集まった。ファン・ダイクの追随者でクロムウェル時代に活躍したサミュエル・クーパーSamuel Cooper(1609―1672)らから、ピーター・リーリーPeter Lely(1618―1680)、ゴッドフリー・ネラーGodfrey Kneller(1646―1723)らを経て、この系統からジョシュア・レノルズ以下のアカデミズムが生じ、南欧ことにイタリアにあこがれ、「荘重体」の歴史画や肖像画が流行する。
しかし、その前にウィリアム・ホガースをあげねばなるまい。アカデミックな肖像画が上流社交界と結び付いたとすれば、対照的に、庶民的なアングロ・サクソンの血統を代表するのはホガースである。イギリス人らしい絵をかいた最初の画家で、『えび売りの娘』など近代絵画かと思われるほど生気に満ちているが、当時の主流から思えば特異な存在で、まことに世俗的な力強さで風刺画を多産し、これを版画にして普及させている。デモクラチックな自由な精神が民衆への愛情と結び付き、痛烈な風刺は倫理観とユーモアに支えられている。これは、スウィフト、フィールディングなどの散文芸術の発生と不可分に結び付くものである。彼の風刺的要素はトマス・ローランドソンThomas Rowlandson(1756―1827)そのほかの戯画やさまざまな風刺画へと、かなり変形されながらつながって現代に至っている。
1768年ロイヤル・アカデミーが設立され、レノルズはその会長となり、その後二十数年画壇の最高権威となり、アカデミックなイギリス絵画の樹立者として、その影響は大きかった。レノルズと同時代で最大のライバルだったトマス・ゲーンズバラは、肖像画をかく一方、風景画を好んでかき、リチャード・ウィルソンとともにイギリス風景画の創始者としての意義のほうがいっそう重要かもしれない。これ以後イギリスはわずか半世紀間に肖像画の黄金時代を現出し、ビクトリア時代(1819~1901)まで多くの画家が輩出するが、この派は、例外的作家を除いて、その当時の世間的隆盛はともかくとして、芸術としては急激に下降線をたどるといえよう。これにかわって風景画が上昇する。
[岡本謙次郎]
近代の美術
19世紀イギリス絵画といえば、すぐ風景画を思い起こさせるが、この世紀前半にロマン主義的風潮と結び付いて、ジョン・コンスタブル、J・M・W・ターナーを頂点とする、その隆盛期を迎える。一般に、肖像画はロンドンを中心とする都会の芸術であったのに反し、風景画はもともと地方に分散していた。これは単に題材による相違というより、文化全体にかかわる問題であろう。風景画が、啓蒙(けいもう)的合理主義への批判として生まれたロマン主義、ナショナリズム、自然主義と結び付くのも当然であろう。また大陸の風景画、ことにオランダの風景画に多くの影響を受けながら、かなりの相違を示すのも理解される。風景画のうち、水彩画の果たした役割も大きい。大陸諸国にもむろんあったが、ルネサンス後期以後、水彩画がイギリスほど重要な役割を果たした所はあるまい。水彩風景画には、18世紀以来諸地方に分散して、目だたない仕事をしていた名所図絵派風の流れと、カズンズ父子Alexander Cozens(?―1786)、John Robert Cozens(1752―1799)を中心とする文人画風の流れとがあり、それが、トマス・ガーティンやターナーを通って統合され、一つの伝統を形成する。
いま一つ、イギリス民族の底を流れる力にウィリアム・ブレイクの系統がある。詩人、画家、神秘思想家であるブレイクは、おそらく詩人としては若いころ頂点に達し、晩年になるにつれ画家として大成したと思われる。『ヨブ記』およびダンテの『神曲』の挿絵は最晩年の傑作だが、後者は未完成である。彼の提出した問題は現代に鋭く迫っていると思われる。19世紀後半、ビクトリア時代は、産業の発展に伴い、複雑な時代相を呈するが、美術の一般的風潮としては、中産市民階級の、いわゆる「健全」な趣味に適合して、アカデミーの類型や教訓的あるいは逸話風な物語絵が支配的であった。
この風潮を予想し反発するかのように、1846年ごろからイギリス美術史上特異な意義をもつラファエル前派の運動が起こる。初めは明確な芸術運動ではなく、若い3人の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ジョン・エバレット・ミレイ、ホルマン・ハントの友情による統合から出発し、のちに数名が加わったが、この集団活動は数年しか続かなかった。しかし、のちにロセッティはウィリアム・モリスと知り合い、総合的に美術を生活と結び付けようとする運動が起こる。かならずしも成功したとはいえないが、大量生産への批判として、中世以来の手作りによる有機的構成に着目した実験の意義は大きい。一方、このころ、印象主義の影響を受けた人々がアカデミーに反発し、1886年「新イギリス美術クラブ」が結成される。この時期はまた世紀末の唯美主義などと重なり合う。
[岡本謙次郎]
20世紀の美術
20世紀のイギリス美術を見渡すと、芸術家が集まり主義(イズム)が宣言されるというよりも、むしろ自然で緩やかな結合が、批評家によってスクール(派)やグループと名づけられることが多い。また地理的にヨーロッパ大陸と海を隔てていることもあって、20世紀前半のイギリス美術が、単線的で発展史的な美術史の叙述から疎外されたことは必然の結果であった。しかしいってみればそこでは、国外の芸術運動を独自に吸収しながらより個人的な表現が確立されていたのであり、その有効性を証明するかのように1960年代以降、現代美術界におけるイギリスの地位は高くなっていった。
[保坂健二朗]
第一次世界大戦まで
1910年前後、ウォルター・シッカートWalter Sickert(1860―1942)などのカムデン・タウン・グループCamden Town Groupは、ポスト印象派post-impressionism(従来後期印象派と表記されていたもの)的な色彩によって都市風景や労働者階級の日常を描いていた。それと時をほぼ同じくして開かれた、批評家ロジャー・フライによる二つの展覧会、1910年の「マネとポスト印象派」展と、1912年の「第2回ポスト印象派」展は美術史上あまりにも名高い。後者に含まれていたダンカン・グラントDuncan Grant(1885―1978)とバネッサ・ベルVanessa Bell(1879―1961)は、1913年、フライとともに、オメガ・ワークショップ(オメガ制作工房)Omega Workshopを結成する。理念としてはモリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に近いこの工房は、しかし非伝統的で抽象的なモダン・デザインによる室内空間を目ざしていたのであって、伝統的要素がいまだ強く残っていたイギリスに新たな空間をもたらしたのである。また彼らに加えて、クライブ・ベルClive Bell(1881―1964)やバージニア・ウルフなど多くの芸術家や文学者たちが集まるブルームズベリー・グループもあった。1914年には、機械文明を賛美するイタリア未来派(未来主義)の強い影響下、パーシー・ウィンダム・ルイスPercy Windham Lewis(1882―1957)が中心となって設立したボーティシズムVorticism(渦巻主義)の機関誌、『旋風』Blastが発刊された(2号まで続く)。情念を含めたエネルギーの渦巻を表現するべきだとしたこの運動は、第一次世界大戦もあってさほど長く続かなかったものの、彫刻家ジェイコブ・エプスタインや画家デビッド・ボンバーグDavid Bomberg(1890―1957)などの造形作家だけでなく、エズラ・パウンドやT・S・エリオットなど文学方面の参加もあり、20世紀イギリスにおいて横断的な「主義」が実行された希有(けう)な例である。
[保坂健二朗]
第一次世界大戦後から第二次世界大戦まで
ポール・ナッシュは、第一次世界大戦後の荒廃した風景をシュルレアリスム的で預言的な風景画に昇華させた。またボンバーグはボーティシズムの様式をすでに捨て即物的な絵具の扱いで実在の対象をからめとろうとしており、その手法は彼の生徒であったレオン・コソフLeon Kossoff(1926―2019)やフランク・アウエルバハFrank Auerbach(1931― )に大きな影響を与えた。1933年、国際的な隆盛をみせていた構成主義に並行して、ヘンリー・ムーア、ベン・ニコルソン、バーバラ・ヘップワース、ナッシュなどにより、ユニット・ワンUnit Oneが結成された。なお彼らが滞在していたセント・アイブスSt. Ivesは、芸術家コロニーとして知られている。しかし1940年代に入っても、主流はビクター・パスモアVictor Pasmore(1908―1998)の抒情(じょじょう)的抽象や、田園風景に精神性を付与した新ロマン主義とよばれる動向であった。
[保坂健二朗]
第二次世界大戦後から1950年代
第二次世界大戦後もやはり、労働者階級の日常的風景である台所を描いたことで名づけられた、ジョン・ブラッツビーJohn Bratsby(1928―1992)らのキッチン・シンク・スクールKitchen Sink Schoolや、コソフ、アウエルバハ、ルシアン・フロイトLucian Freud(1922―2011)、ロナルド・B・キタイRonald B. Kitaj(1932―2007)などをもってよばれるロンドン派London Schoolなど、具象的表現が力をもっていた。抽象表現主義全盛ともいえる時代にあって彼らの精神的支えとなったのは、宗教的題材を積極的にとりあげ、またトリプティックtriptych(三幅対)など伝統的絵画形式を用いていたフランシス・ベーコンやグレアム・サザランドの絵画がすでに獲得していた評価である。
1950年代後半、リチャード・ハミルトンRichard Hamilton(1922―2011)やパオロッツィなどのインディペンデント・グループIndependent Groupは、マス・メディアに氾濫(はんらん)するイメージを否定することなく、むしろ物質文化の時代を反映するものだとして作品内に引用した。ポップ・アートと名づけられた、アメリカ的消費文化を肯定するこの動向は、やがてニューヨークへと移りそこで絶頂期を迎える。それまで広告向けとみなされてきたシルクスクリーンの技法が芸術作品に積極的に用いられたポップ・アートの系譜に、デビッド・ホックニーを置くことができるだろう。
[保坂健二朗]
1960年代以降
1960年代以降、芸術が規範として到達すべき地点がそれまでのフランス中心のヨーロッパからアメリカにとってかわられ多様な動向が噴出するなか、イギリス美術の存在はむしろ大きくなっていった。たとえばマイケル・ボールドウィンMichael Baldwin(1945― )などが1968年に設立したグループ、アート・アンド・ランゲージArt & Languageや画家ブリジット・ライリーなどは、それぞれコンセプチュアル・アート、オプ・アートという今日まで続くジャンルの主導的立場としてあげることができよう。しかしそれらでさえも、ムーア、ヘップワース、ケネス・アーミテージKenneth Armitage(1916―2002)、リン・チャドウィックに続く世代の立体表現がもちえた影響力にはかなわない。アンソニー・カロによる台座のない構成的な彫刻は、フォーマリズムFormalism、つまりアメリカの批評家クレメント・グリーンバーグが唱道した、視覚性を徹底すると同時に形式formに固有な要素を純化させる主義を代表する作品である。一方それに続く世代は、カロの無機的であまりにも審美的な彫刻に反発し、それまでとはまったく異なる形式による(そうよぶのはためらわれるような)彫刻を制作することになる。自らの身体を「生きている彫刻」として提示した2人組の作家ギルバート・アンド・ジョージや、自然の中に自らの行為の痕跡(こんせき)を残し、またそれを写真に収めたランド・アートLand Artのハミッシュ・フルトンやリチャード・ロング、そして非伝統的な手法と素材を用い、予測不可能な偶然の変化を含む制作プロセスを作品の主要な要素としてとらえるプロセス・アートprocess artの黎明(れいめい)期に大きく寄与したバリー・フラナガンなどが代表的である。さらにその後に続くのが、さまざまな素材を集め非人称的で工業的な手法により構築するリチャード・ディーコンRichard Deacon(1949― )や、プラスチックの破片や廃材を用い、その断片性と詩情をもって彫刻に新たな意味を加えようとしたトニー・クラッグTony Cragg(1949― )とビル・ウッドローBill Woodrow(1948― )などで、彼らの作品はときに、ニュー・ブリティッシュ・スカラプチュアnew British sculptureと包括的によばれる。
イギリスには、テートなどの美術館はもちろん、ホワイトチャペル・アート・ギャラリーやICA(Institute of Contemporary Art)など、同時代美術をサポートする非営利の展示スペースが多い一方で、概して展覧会のもつ経済的意義が大きい。1988年、当時まだ学生であったデミアン・ハーストの企画によって行われた「フリーズFreeze」展が象徴的だったのは、その内容もさることながら、台頭してきた新たな産業資本の出資により、再開発された地域であるロンドンのイースト・エンドで行われたからである。こうした芸術と新興資本の関係がより緊密な形で顕示されたのが、一企業の同時代美術コレクションによって構成され、ロイヤル・アカデミーという権威的場所で行われた「センセーションSensation」展(1997)であった。ちなみにこの展覧会にも含まれていたハーストは、1995年にターナー賞Tuner Prizeを受賞しているが、この賞はイギリスにおける同時代美術を対象として、1984年にテート美術館によって創設されたもので、美術の世界的動向を占う役割さえ帯びている。彫刻家レイチェル・ホワイトリードRachel Whiteread(1963― )や映像作品で知られるダグラス・ゴードンもその受賞者で、後者の出身地グラスゴーはチャールズ・レニ・マッキントッシュの建築群で知られていたが、20世紀の末にはロンドンと並ぶ同時代美術の発信地となった。こうして世界的規模での隆盛をイギリス美術はみせているが、その担い手たちをヤング・ブリティッシュ・アーティストとよぶこともある。
[保坂健二朗]
建築
20世紀の建築では、造形的なコンクリート建築を設計したグループであるテクトンTectonや、構造技術家オーウェン・ウィリアムズOwen Williams(1890―1969)に始まり、CIAM(シアム)崩壊後の国際的建築グループの一つ、チーム・テンTeam Ⅹのメンバーであったスミッソン夫妻、ハイテックなリチャード・ロジャーズやノーマン・フォスターがあげられる。さらにポスト・モダン的な古典主義のジェームズ・スターリングの活動や、実現不可能なプロジェクトを次々と発表したピーター・クックPeter Cook(1936― )やロン・ヘロンRon Herron(1930―1994)らによるアーキグラムの活動など、建築の解体が叫ばれて以降は、むしろ発言力を増している。また、長らく伝統的様式のリバイバルが大勢を占めてきたインテリア・デザインでは、1960年代以降ポップ・カルチャー的な使い捨て家具や、伝統的規範に反抗するようなサイケデリックな色彩が登場して一変した。その一方で、環境問題の登場とほぼ同時に現代版カントリー・コテージ風デザインを流行させたローラ・アシュレイLaura Ashley(1925―1985)や、さまざまなデザインから個人の嗜好(しこう)にあわせて選択可能なセレクト・ショップの手法を確立したテレンス・コンランTerence Conran(1931―2020)など、創造的とはいいがたいが消費的浸透力をもつ活動が注目されている。
[保坂健二朗]
『ロイストン・ランダウ著、鈴木博之訳『イギリス建築の新傾向』(1974・鹿島出版会)』▽『主婦の友社編・刊『エクラン世界の美術12 イギリスA 王室の秘宝と大英博物館』『エクラン世界の美術13 イギリスB ナショナル・ギャラリーと名画名宝のコレクション』(ともに1981)』▽『『原色世界の美術8 イギリス1 大英博物館』『原色世界の美術9 イギリス2 ナショナル・ギャラリーほか』(ともに1987・小学館)』▽『エミール・カウフマン著、白井秀和訳『理性の時代の建築 イギリス イタリア編』(1993・中央公論美術出版)』▽『『世界美術大全集20 ロマン主義』『世界美術大全集22 印象派時代』『世界美術大全集23 後期印象派時代』(ともに1993・小学館)』▽『サイモン・ウィルソン著、湊典子他訳『テイトギャラリーAn illustrated companion日本語版』(1996・ミュージアム図書)』▽『『世界美術大全集24 世紀末と象徴主義』(1996・小学館)』▽『『ロンドン・周辺の美術館とスコットランドの古城美術館』(1997・美術出版社)』▽『サイモン・ウィルソン著、多田稔訳『イギリス美術史』(2001・岩崎美術社)』▽『ローランス・デ・カール著、高階秀爾監修、村上尚子訳『ラファエル前派 ヴィクトリア時代の幻視者たち』(2001・創元社)』▽『高橋裕子著『イギリス美術』(岩波新書)』