アッシリア帝国形成の基礎となった都市で,前14世紀後半から前883年までの首都。主神アッシュールに由来する名称で,現代名はカルア・シルカQal'a Shirqa。イラク北部のモースル南方110km,ティグリス川西岸にある。19世紀の著名な発掘者たちは,いずれもこの遺跡を調査して,彫刻や楔形文字史料をえたが,都市の構造と歴史を明らかにするうえで重要な役割を果たしたのは,1903-14年に行われた,ドイツ人アンドレーErnst Walter Andraeの,メソポタミアにおける最初の本格的な層位的発掘であった。都市は,ティグリス川と支流の合流点をかなめに扇形をなし,城壁で囲まれ,支流ぞいにかなめの位置からシャムシアダドShamshi-Adad 1世(在位,前1813-前1781)が建設したアッシュール神殿,ジッグラト,古宮殿,神殿,6回以上の改築が確認された古い起源をもつイシュタル神殿,神殿,新宮殿と西へ並び,城壁と堀をへだてて,さらにその西に〈新年祭の家Bit Akitu〉がある。都市が拡大するとティグリス川ぞいに新市域がつくられたが,住居址や文献に記された38神殿の大部分はまだ発掘されていない。都市の起源はまだよくわからないが,すでに初期王朝時代にシュメール文明の影響下にティグリス川による交通の要所を占めていたことが知られ,エブラ出土の条約粘土板中にもその名が見える。アッシュールナシルパル2世が,アッシリア帝国の発展にともなって,前883年首都をカルフ(ニムルド)に移してからは,宗教的な中心であった。
執筆者:小野山 節
アッシリアの最高神。その起源,名前の語源,性格などについては定説がない。ウル第3王朝時代(前2112-前2004)以来,同名の都市アッシュールおよびその住民の神として文書に現れる。カッパドキア文書(前19世紀)から知られる小アジアのアッシリア商人植民地においては,最も重要な神と考えられていたが,アッシリアとその植民地以外では一地方神にすぎなかった。同神が後のアッシリア帝国の国家神へと変貌していく過程は,アッシリアの政治的発展の過程と並行する。まず前13世紀ころバビロニアの神々の王であったエンリル神と結びつき,次いで前9世紀ころバビロニアの至高神アヌの父であるアンシャルAnshar神と同一視されることによって,アッシュール神はあらゆる神々の上に立つ神となり,前8~前7世紀におけるアッシリアの帝国形成の神学的基盤ができ上がった。ちなみに,バビロニア創造神話《エヌマ・エリシュ》のアッシュール出土の断片では,マルドゥク神ではなくアッシュール神がその主人公となっている。配偶神はアッシュールまたはニネベのイシュタル女神であったが,アッシュール神がエンリル神と同一視されるようになってからは,その配偶神ニンリルNinlilも配偶神とされるようになった。造形表現では,翼をもった太陽円盤として描かれることが多い。
執筆者:中田 一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アッシリア帝国発祥の地、その首都。古くはアシュルAšurとよばれた。イラクのモスル南方110キロメートル、ティグリス川上流にあり、現在名はカルアト・シェルカートQalat Šergât。1821年に遺丘が発見され、1836年最初の発掘が行われて以来多くの学者が発掘を試みたが、最終的にはドイツ・オリエント学会が1903~1913年にわたって発掘を行い、その全貌(ぜんぼう)を明らかにした。市は新旧2市に分かれ、旧市の北東端に主神アッシュールを祀(まつ)るエ・シャルラとその本殿(諸国の大山の家)があった。後代の伝説によれば、ウシュピアがアッシュール神殿を造営し、キキアが市壁を建設したといわれる。市はおそらくシュメール人の屯田市から発達したと考えられ、アッカド王国のサルゴン王時代(前2350ころ)にはその属領となっていた。ウル第3王朝時代のアマル・シン王の時代にもその支配下にあって、ザーリクムが統治していたことが記録により知られる。紀元前15世紀にミタンニ王国の支配をアッシュール・ウバリト1世が排除し、前614年にメディア人によって破壊されるまでアッシリア人が主権を維持した。その間ニネベ、カルフなどへの遷都の際にも、市は宗教上の中心としてつねに重きをなした。市の主神はアッシュール神であるが、古くはシュメール人の最高神エンリルであったと考えられている。
[吉川 守]
アッシリア帝国で厚い尊崇を受けていた有力な神。アッシリアおよび後のシリアの名はこの名に発する。アッシリア帝国では、各都市ごとにアッシュール神を祀(まつ)る神殿が建てられ、この神名を含む名をもつ皇帝も多かった(アッシュール・バニパル=アッシュール・バーン・アプリ、アッシュール・ウバリトなど)。シュメール系統の神ではなく、西セム人に起源する神と考えられ、西セム人の男神アシェラー、女神アシェラタともつながりがあると思われる。アッシュール神は、古くはシュメール系男神エンリルと対等であったが、のちエンリルを駆逐し、またしばしば女神イシュタルと同じ神殿に祀られている。
[矢島文夫]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…アッシリアの最高神。その起源,名前の語源,性格などについては定説がない。ウル第3王朝時代(前2112‐前2004)以来,同名の都市アッシュールおよびその住民の神として文書に現れる。カッパドキア文書(前19世紀)から知られる小アジアのアッシリア商人植民地においては,最も重要な神と考えられていたが,アッシリアとその植民地以外では一地方神にすぎなかった。同神が後のアッシリア帝国の国家神へと変貌していく過程は,アッシリアの政治的発展の過程と並行する。…
…アッシリアの最高神。その起源,名前の語源,性格などについては定説がない。ウル第3王朝時代(前2112‐前2004)以来,同名の都市アッシュールおよびその住民の神として文書に現れる。カッパドキア文書(前19世紀)から知られる小アジアのアッシリア商人植民地においては,最も重要な神と考えられていたが,アッシリアとその植民地以外では一地方神にすぎなかった。同神が後のアッシリア帝国の国家神へと変貌していく過程は,アッシリアの政治的発展の過程と並行する。…
…前5千年紀には,ハッスナ,ハラフ,サーマッラーの三つの文化圏が確認されている。前3千年紀の前サルゴン期には,膠着語を話す,均質的とはいえないがフルリ人と親縁関係にある定着原住民スバル人の上に東セム系遊牧民が支配的要素として加わり,今やメソポタミアの発展の先頭に立つシュメール文化の影響の下に,都市アッシュールが建設された。アッカド王国時代にはサルゴン王らによって征服され,マニシュトゥシュ王がニネベに神殿を造営している。…
…アッシリアの美術は,メソポタミア美術最後の,最も発達した段階を示すものである。アッシリアはメソポタミア北部の都市アッシュールを本拠とし,前2千年紀末から,盛衰を繰り返しながらも,その軍事力,政治力を強め,しだいにメソポタミア南部のバビロニア地方に支配を及ぼしていった。前1千年紀には,その軍事力にまかせてメソポタミアのほぼ全域に君臨する帝国を形成する。…
…またユーフラテス中流域ではマリが交易中継地として繁栄し,マリからは前18世紀ジムリリム時代の文書が多数発見されている。バビロニアに北接する地域では,アッシリア人の都市アッシュールが前19世紀から前18世紀にかけてのシャムシアダド1世時代に有力となった。アッシリア人は早くからメソポタミアと小アジア間の通商を行い,カイセリ付近のキュルテペ(カニシュ)などには商業植民地を建設している。…
…アッシリア帝国形成の基礎となった都市で,前14世紀後半から前883年までの首都。主神アッシュールに由来する名称で,現代名はカルア・シルカQal’a Shirqa。イラク北部のモースル南方110km,ティグリス川西岸にある。…
…在位,前668‐前627年。正しくは,アッシュール・バーニ・アプリAššur‐bani‐apli(〈アッシュール神は嗣子の創造者〉の意)。父王エサルハドンによって前672年に皇太子に定められ,前668年即位。…
※「アッシュール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新