ホールデーン(読み)ほーるでーん(英語表記)Richard Burdon Haldane, 1st Viscount Haldane of Cloan

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホールデーン」の意味・わかりやすい解説

ホールデーン
Haldane, John Burdon Sanderson

[生]1892.11.5. オックスフォード
[没]1964.12.1. インド,ブバネスワル
イギリスの遺伝学者,生理学者,科学啓蒙家。父ジョン・スコット・ホールデーン (1860~1936) は高名な生理学者で,オックスフォード大学教授。8歳より父について生理学研究の手ほどきを受ける。オックスフォード大学に学び,第1次世界大戦には連隊将校として従軍。除隊後オックスフォード大学ニューカレッジのフェローとなり,ケンブリッジ大学講師を務めた (1923~32) 。フレデリック・G.ホプキンズの研究室に属し,生化学研究に従事。酵素の行なう化学反応が熱力学の法則に従うことを明らかにし,また同一の酵素が動植物界に広く分布することを示した。遺伝学においても数々の業績を上げた。自然選択によって種の進化が起こる機構に関して数学的理論を打ち立て,進化の問題を集団遺伝学の手法で取り扱う道を開いた (1924) 。他方ジャーナリスト,科学啓蒙家としての活動も盛んで,多数の著作を残した。特に『ダエダルス-科学と未来』 Daedalus (1924) は,将来の科学の発展の見通しについて論じたもので,体外受精の構想も述べられていて,大きな反響を呼び,科学ジャーナリストとしての名声を高めた。また,アレクサンドル・I.オパーリンとは別個に生命の起原に関する理論を立てた。有機物質の複雑化が進行した末に生命が誕生したという大筋で両者の説は共通するが,紫外線による光化学反応がこの過程の推進力となったと考えた点にホールデーン説の特徴がある。その後,ユニバーシティ・カレッジ教授に就任 (1933) 。イギリス共産党機関紙『デーリー・ワーカー』主筆となり (1940) ,共産党に入党する (1942) が,のちルイセンコ説によるソビエト連邦遺伝学界の弾圧をみて共産主義失望。 1957年,イギリスとフランスによるスエズ侵攻に抗議してイギリスを去り,インドに移住。カルカッタ国立統計学研究所所員 (1957) ,インド国立生物学研究所部長 (1961) ,オリッサ州立遺伝学・生物統計学研究所初代所長 (1962) を歴任し,インドにおける遺伝学研究の基礎をつくった。

ホールデーン
Haldane, Duncan

[生]1951.9.14. ロンドン
イギリス生まれのアメリカ合衆国物理学者。フルネーム Frederick Duncan Michael Haldane。1978年ケンブリッジ大学で博士号取得。フランスのグルノーブルにあるラウエ=ランジュバン研究所,南カリフォルニア大学,AT&Tベル研究所(→ベル研究所)を経て,1986年カリフォルニア大学サンディエゴ校教授になり,1993年以降プリンストン大学教授。1983年,トポロジー位相幾何学)の考え方を利用して,一次元に無限個の磁石が並んだ系の性質が,その磁石の大きさ(スピンは 1/2が単位となる)が半奇数であるか整数であるかでまったく異なると理論的に予想した(ホールデーン予想)。スピンの大きさが 1/2変わるだけで,系の性質が大きく変わるのは相転移によるものと考えられ,多くの物理学者を驚かせた。2016年,磁石や電気伝導などでマクロな物質が示す特殊な状態である相転移の起こる仕組みを数学の一分野である幾何学で解明してみせたとして,幾何学的な相転移の最初の例である KT転移を示したデービッド・サウレス,マイケル・コステリッツとともにノーベル物理学賞(→ノーベル賞)を授与された。

ホールデーン
Haldane, Richard Burdon, 1st Viscount Haldane

[生]1856.7.30. エディンバラ
[没]1928.8.19. パースシャー,クローン
イギリスの政治家。 1885年以来自由党下院議員。南アフリカ戦争を支持。 1905年陸相。参謀本部創設をはじめとする軍制改革を実行し,その成果は第1次世界大戦で示された。 11年子爵。 12年大法官。のち 24年労働党内閣でも大法官をつとめた。ドイツ哲学にも造詣が深い。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホールデーン」の意味・わかりやすい解説

ホールデーン
ほーるでーん
Richard Burdon Haldane, 1st Viscount Haldane of Cloan
(1856―1928)

イギリスの政治家、哲学者。1885年自由党員として下院議員となり、1911年に子爵に叙せられて上院に移るまで下院にあった。最大の業績は1905~1912年まで陸相として軍制の大改革を行ったことである。1912~1915年には大法官を務めた。1912年にドイツに派遣され英独建艦競争中止を提起したが、不成功に終わった。第一次世界大戦中は親独派とみなされて用いられず、戦後は左派に転じて、1924年の第一次労働党内閣成立のとき、ふたたび大法官となった。

[石井摩耶子]

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