ルネサンス時代を代表する画家、彫刻家、建築家、科学者。1452年にイタリア中部フィレンツェ近郊のビンチ村に公証人の子として生まれた。ダビンチはビンチ出身という意味。画家としては寡作。2017年に美術品として当時の史上最高額約4億5千万ドル(約500億円)で油絵が落札されたが、英紙が今年4月にダビンチの単独作品なのか疑義があると報じた。代表作は「モナリザ」「最後の晩餐」など。1519年5月2日にフランスで亡くなった。67歳だった。(トリノ共同)
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イタリア・ルネサンス期の画家、彫刻家、また科学者、技術者、哲学者。したがってルネサンスにおける典型的な「万能の人」(ウォーモ・ウニベルサーレ)と目されている。
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フィレンツェの近郊ビンチ村に、公証人ピエロと農家の娘カテリーナとの庶子として生まれる(4月15日)。幼少時についてはバザーリほかにより才能の多彩が記されている以外、あまり知られておらず、14、15歳のころフィレンツェに出て、画家、彫刻家であるアンドレア・デル・ベロッキオの工房に徒弟として入り、美術家としての道を歩み始める。1482年、30歳のとき、ミラノの支配者ルドビコ・スフォルツァ(通称イル・モロ)Ludovico Sforza, Il Moro(1452―1508)のもとに自薦状を提出してミラノに移る。自薦状には、あらゆる種類の土木工事、築城、兵器の設計ならびに製造に関し、自らの多方面の才能を数えたてたあとに、平和な時勢にあっては、絵画ならびに石造彫刻、鋳造彫刻の技にたけていることを付け加えている。47、48歳のころ、フランスのルイ12世軍ミラノ侵攻(1499年10月)を機に20年近く滞在したミラノを去り、マントバで公妃イサベラ・デステIsabella d'Este(1474―1539)の肖像を素描し(1500年2月)、ベネチアに立ち寄り(同年3月)、フィレンツェに戻る。1502年の夏から約8か月間、チェーザレ・ボルジャの軍事土木技師としてロマーニャ地方に従軍。ボルジャの失脚でフィレンツェに戻るが、1506年54歳のとき、ミラノ駐在のフランス総督シャルル・ダンボワーズCharles Ⅱ d'Amboise(1473―1511)の招きで再度ミラノに赴き、ルイ12世の宮廷画家兼技術家として6年余仕えた。さらに1513年、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチGiuliano di Lorenzo de' Medici(1479―1516)の招きでローマに移るが、1516年にはフランソア1世の招きでフランスへ行き、1517年にはアンボアーズ王城の近郊クルー城館に移り、比較的平穏な余生を送り、さまざまな研究を続けていたが、1519年5月2日、同地で忠実な弟子フランチェスコ・メルツィFrancesco Melzi(1491―1570)にみとられて67歳の生涯を閉じた。
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レオナルドの絵画作品で今日に残るものは数少ない。ベロッキオの工房にあった第一次フィレンツェ時代には、師および同門との協同作『キリストの洗礼』(フィレンツェ、ウフィツィ美術館)、『ジネブラ・デ・ベンチの肖像』(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)、2点の『受胎告知』(ウフィツィとルーブル美術館)、ともに未完の『三博士の礼拝』(ウフィツィ)と『聖ヒエロニムス』(バチカン美術館)がある。第一次のミラノ時代にはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂食堂の『最後の晩餐(ばんさん)』のほか、サン・フランチェスコ教会無原罪懐胎礼拝堂のための祭壇画『岩窟(がんくつ)の聖母』(現、ルーブル)、素描のみが現存する彫刻『スフォルツァ騎馬像』を制作している。第二次フィレンツェ滞在中には、ミケランジェロと競作になるはずであったパラッツォ・ベッキオ内の大壁画『アンギアリの戦い』(素描や模写のみ現存)を手がけ、その後はミラノ、フィレンツェ、ローマなどを遍歴の時期に『モナ・リザ』(ルーブル)を描き、弟子プレディスGiovanni A. de Predis(1455―1508)の『岩窟の聖母』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)を指導、晩年近くには『聖アンナと聖母子』『洗礼者聖ヨハネ』(ともにルーブル)を手がけている。
このほか、素描の段階に終わった彫刻『トリブルツィオ将軍騎馬像』その他を加えても、レオナルドの芸術上の遺作は非常に少ないが、美術史上に記した足跡はきわめて大きい。すなわち、絵画史のうえでは遠近法ならびに解剖学というクワットロチェント(15世紀)の精密な自然描写をさらに推し進めて、画面の統一構成ならびにスフマート(輪郭消失描法)による立体表現、明暗法を案出して、グラツィエ(優美)の表現を意図し、ルネサンス古典様式の典型とされる。彫刻では、残された多くの素描から判断すると、像は静止像でなく、人馬の躍動する姿を追求し、そのための構成上の手段が種々考えられたように見受けられるが、巨大なブロンズ作としては力学的に制作が困難で、前記2点とも完成していない。
また建築上の仕事としては、これまた彼の設計になる建造物は実現されていないが、集中式の教会建築に特殊な興味を抱き、細部の力学的な構造を示す習作を数多く残している。さらに一種の都市工学に関する構想をもち、それによると、都市を二重構造にし、下の道路は生活物資の運搬に、上の道路は人の自由な歩行のために、また道路の幅に応じて建造物の高さを規制し、海か川に面した都市の設計を理想としていたことがわかる。
以上でほぼ推測されるように、今日に残されたレオナルドの芸術上の作品は意外に少なく、他方それらの完成品のもととなった素描・エスキスの類は膨大な量に上り、彼が寡作の人であったことを証明している。大別すると、素描・エスキス約500枚、手稿5000ページが、今日、イギリス、フランス、イタリア、スペインなどに分散して収蔵されている。素描は前記美術的な遺作のもととなった準備的な習作の類であり、エスキスは200枚に及ぶ解剖図のほか、機械工学、水力学、築城、飛翔(ひしょう)などに関する考案・くふうに満ちている。彼はつねづね手製の小冊子を持ち歩き、おりに触れての断想や観察を記入し、図と文節を交えて書きとどめている。左利きであったレオナルドは、それらの手稿に記入する際、文字を全部裏返しにして右から左に向けて綴(つづ)った。鏡に写すことによって初めて正常な書体になるので鏡字とよばれたが、これは研究の秘密が露見することを恐れたくふうではなく、もともと彼が左利きであったことによる。
この手稿類のなかから、絵画の理論と実技に関する部分を取り出して、弟子がレオナルドの『絵画論』1巻を編集したことは有名で、その原本は今日バチカンの教皇図書館に収蔵されている。
なお、レオナルドの同時代人による伝記に、パオロ・ジョビオPaolo Giovio(1483―1552)、アノーニモ・マリアベッキアーノAnonimo Magliabechianoらによる断片的なもの、およびジョルジョ・バザーリによる2種の伝記(初版および2版)がある。
[裾分一弘]
レオナルドは、その生涯に膨大な数の手稿を残した。それらの手稿には、絵画、彫刻、建築ばかりでなく、天文、気象、物理、数学、地理、地質、水力、解剖、生理、植物、動物、土木工事、河川の運河化、物をあげたり移動したりする装置、灌漑(かんがい)用排水装置、兵器、自動人形、飛行のための装置など多彩な分野のものが含まれている。
彼のそもそものスタートは絵画・彫刻であるが、その絵画・彫刻への関心を深めれば深めるほど、デッサンなどに精密さが要求され、おのずと観察力は鋭くなり、それが何事も徹底的に探究しなければ、事物に対する認識を深めることはできないとまで考えるに至ったのであろう。たとえば、人物を描くには人体に関する知識の必要性を感じ、その知識を修得するために解剖を必要とした。レオナルドは手稿のなかで次のように述べている。「正確かつ完全な知識を得んがため、私は10あまりの人体を解剖し、さまざまな肢体すべてを解き、そして毛細血管から出る目に見えない血のほかは、いささかの出血をもおこすことなくそれらの血管の周りにある肉を、ごく微細な切れ端に至るまですっかり取り除いてしまったのである。おまけに1個の死体だけではそんな長い時間に十分できなかったので、次から次へと数多くの死体によって継続する必要があった。こうしてやっと完全な認識に達したのであった」。
このような姿勢で自然を観察し、自然を認識していったのである。絵の手法を修練する過程でも、遠近法の原理を取り入れようとすれば、それに伴って数学の知識も必要になる。徹底して探究していくことによって、いろいろな分野に論及せざるをえなくなっていくのである。
鳥の飛び方についての研究では、重さと密度の関係、風圧が翼に及ぼす力の影響について実験し、力学運動について論じている。そして鳥とまったく同じ原理の器械をつくり、動力源に人間を使えば、人間が空を飛ぶことができるのではないかと考えるのである。空を飛ぶという夢を実現しようと、パラシュートやヘリコプターのようなものまで考案している。
レオナルドは、鋭い観察によって自然界に対する認識を深めたが、同時に機械技術にも大きな関心をもっており、自然界は力学的・機械的運動をしているのではないかと考えたのである。そして、そのようななかから生まれた彼の哲学は「知恵は経験の娘である」ということばに代表されるものである。「二度三度それを試験して、その試験が同一の結果を生ずるか否かを観察せよ」「ただ想像だけによって自然と人間との間の通訳者たらんと欲した芸術家達を信じるな」といい、「実験から開始して、それによって理論を検証すること」が、一般法則をたてるためには重要であると主張する。すなわち、自然界の法則性を明らかにしていくとは、自然を観察し、認識を深め、それを客観的な理論に発展させていくことであるとし、その理論を絶えず実践と統一的にとらえることの重要性を強調しているのである。
レオナルドは、手稿に書かれていることのすべてにわたって実験をしたり、実際にものをつくりあげたわけではないが、コペルニクスやガリレイが登場する以前に前述のような点を主張した。まさに近代科学を準備した「万能の人」というのも当然の評価であろう。
[雀部 晶]
『J・ワッサーマン解説、三神弘彦訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1968・美術出版社)』▽『下村寅太郎・田中英道解説『世界美術全集5 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1977・集英社)』▽『L・H・ハイデンライヒ著、生田圓訳『アート・イン・コンテクスト3 レオナルド/最後の晩餐』(1979・みすず書房)』▽『K・キール、C・ペドレッティ編、清水純一・萬年甫訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図』(1982・岩波書店)』▽『L・C・アラーノ解説、三神弘彦訳『レオナルド素描集成』(1984・みすず書房)』▽『C・ペドレッティ解説、裾分一弘他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの素描 自然の研究』(1985・岩波書店)』▽『C・ペドレッティ解説、裾分一弘他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ素描集1、2』(1985、1990・岩波書店)』▽『C・ペドレッティ解説、斎藤泰弘訳『レオナルド・ダ・ヴィンチおよびレオナルド派素描集――ウフィツィ美術館素描版画室蔵』(1986・岩波書店)』▽『C・ペドレッティ監修、P・トラティ・クーヒル解説、西山重徳訳『レオナルド・ダ・ヴィンチおよびレオナルド派素描集――在米コレクション』(1997・岩波書店)』▽『下村寅太郎著『思想学説全書8 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1974・勁草書房)』▽『G・ヴァザーリ著、裾分一弘訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝』(1974・岩崎美術社)』▽『K・クラーク著、加茂儀一訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1974/第2版、大河内賢治・丸山修吉訳・1981・法政大学出版局)』▽『ヴァレリー著、菅野昭正・佐藤正彰他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』(1975/増補版・1978・筑摩書房)』▽『西村暢夫他訳『レオナルド・ダ・ビンチの童話』(1975・小学館)』▽『裾分一弘・在里寛司著『レオナルドと絵画』(1977・岩崎美術社)』▽『岩井寛・森本岩太郎著『レオナルドと解剖』(1977・岩崎美術社)』▽『上平貢著『レオナルドと彫刻』(1977・岩崎美術社)』▽『M・ブリヨン他著、佐々木英也他訳『世界伝記双書5 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1983・小学館)』▽『裾分一弘著『レオナルド・ダ・ヴィンチ――手稿による自伝』(1983・中央公論美術出版)』▽『加茂儀一著『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝――自然探究と創造の生涯』(1984・小学館)』▽『加藤朝鳥訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論』改訂版(1996・北宋社)』▽『久保尋二著『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1999・平凡社)』▽『シャーウィン・B・ヌーランド著、菱川英一訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(2003・岩波書店)』▽『C・ペドレッティ著、日高健一郎訳『建築家レオナルド』新装版・全2巻(2006・学芸図書)』▽『杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』全2冊(岩波文庫)』▽『田中英道著『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』(講談社学術文庫)』
イタリア,ルネサンスの画家,彫刻家,建築家,科学者。
フィレンツェの公証人セル・ピエロ・ダ・ビンチの私生児としてフィレンツェ近郊のビンチVinciに生まれ,少年時代をアルノ川上流の自然の中に過ごす。自然界の現象への好奇心は生涯を通じてもっとも根本的なものであったが,それはこの時期に培われたものと思われる。また,S.フロイトやE.ノイマンなどの心理学者は,生後直ちに生母から引き離され複雑な家庭状況に育てられたことが,母性コンプレクスの原因となり,成長後の芸術表現,とくに女性像に深い影響を与えたと考えた。いずれにしても,聖母がきわめて多く描かれ,母性なるものが彼の重要な主題であったことは確かである。父親がレオナルドを,15歳のころフィレンツェのベロッキオの工房に入れたのは,すでに少年が動物や植物や人間などを鋭く観察し描きとどめる才能に秀でていたからであった。ベロッキオの工房は,絵画のみならず彫刻,建築,各種の工芸デザインや工学的技術を擁する多角的工房であったため,レオナルドはそこでそれらの基礎的知識をすべて習得し,1472年画家組合に加入したのちも76年まで同工房にとどまった。この間,最も早い日付のある作品,アルノ川の素描をはじめ,ベロッキオの《キリストの洗礼》(1472-73ころ)の天使と風景の一部,《受胎告知》(1473ころ)などを描く。76年に,ベロッキオの他の弟子をも含めて,レオナルドは同性愛の罪で市当局に密告されるという事件があった。これは実証されず無罪となったが,彼が生涯独身であり,恋愛をしたとされる女性もいないところから,また手稿中にみられる性への嫌悪とも呼ぶべき冷淡さから,さらにはサライという美しい弟子への偏愛から,しばしばレオナルドの特異な性的傾向が問題となってきた。しかし,現在のところは,彼の同性愛を実証するものは何もない。だが,彼が通常の異性観をもっていたわけではないことは,作品にあらわれた女性や男性の両義的な表現および手稿中の文章によって推察できる。この点は,レオナルドの人間観や芸術表現における基本的な問題点の一つである。
78年ころ独立して仕事を引き受け始めた記録があるが,現存するものはいずれも未完の《三博士の参拝》(1481),《聖ヒエロニムス》(1482)などである。この両作品においてすでに,レオナルドを古典期の巨匠たらしめた特色,すなわち幾何学的な形体を基本とした画面構成と,人間をも含めた対象の外的形質の鋭敏な把握・描写と,現象の根本にある内面(人間ならば心的状態,風景ならば水流や重力,光の反射や反映など)の原理への洞察とが現れている。またこのころ,生涯つづく科学的・芸術的省察と観察を書きとどめた手稿の執筆が始まっている。
81年ミラノ公ルドビコ・スフォルツァの宮廷付画家,彫刻家,工学技術家としてミラノに移り,99年まで同地にあって,芸術制作のみならず,軍事,土木,治水,都市計画,宮廷のイベント企画等々にたずさわり,〈万能の天才〉としての力を縦横に発揮した。またこの時期に,解剖学,動物・植物学,数学,光学,機械工学,水力学に関するノートを書き,これに関する多数の素描を残した。ミラノ行きの主要な理由は先代の君主フランチェスコ・スフォルツァの記念騎馬像の建立であったが,これは多くの習作スケッチのみが残り,着工されずに終わった。現存する絵画作品のうち代表的なものは,《岩窟の聖母》(1483-86)と《最後の晩餐》(サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ修道院の食堂壁画。1495-97)である。これらはフィレンツェでの修業時代の探究の結実であり,遠近法,人体比例,シンメトリー,幾何学的構成などの古典主義の原理が完成されたばかりでなく,それらの形象によって表現される内容とその表現方法の結びつきの完璧さにおいて,イタリア・ルネサンスの最高の成果とされる。つまり,ここにおいて形象が完全に意味を担うことができたということができる。その表現は,15世紀に主流をなした外的現象を正確に叙述する絵画とは異なるもので,これ以後の画家に測り知れない影響を与えることとなった。
したがって,99年スフォルツァの没落によってフィレンツェにもどった直後,サンティッシマ・アヌンツィアータ教会の祭壇用の《聖母子と聖アンナ》のカルトン(下図)は,このようなミラノでのレオナルドの芸術をフィレンツェにはじめて知らせた事件として,バザーリが記録するものとなった。ミケランジェロ,ラファエロをはじめ,多くのトスカナの画家が,レオナルドの芸術のもつ新しい特質から霊感を受けた。1502年の10ヵ月間,チェーザレ・ボルジアの軍事上の技術者として教皇領の各地を回り,運河開削のプランニングや都市計画等を行った。また,軍事目的で作られた地図は近代地図学の始原となった。
03年フィレンツェにもどり,パラッツォ・ベッキオ(市庁舎)の大広間の壁面に《アンギアリの戦》を依頼され,対壁のミケランジェロとの競作となったが,これはいずれも未完で,レオナルドの壁画の主要場面はルーベンスの模写のみで知られる。またミケランジェロの《カッシナの戦》の素描も散逸し,A.サンガロの版画によって知られるが,この幻の二大壁画は,この直後芸術界をにぎわせた〈パラゴーネparagone(絵画・彫刻優劣比較論争)〉の火付け役となった。すなわち,レオナルドが騎馬戦の阿鼻叫喚(あびきようかん)のアトモスフィアと激動のモメントを絵画的に把握したのに対し,ミケランジェロは水浴する兵士の休息という人体を主とした彫刻的表現の範をたてたからである。またこの両作はマニエリスムの発生に多大の刺激を与えた。同じころ,《モナ・リザ》および失われた《レダ》を描いた(《モナ・リザ》には異説あり)。この《モナ・リザ》についてバザーリは,フィレンツェ市民の妻ジョコンダの肖像であると注解したが,今日に至るまでそのモデルは特定されていない。それは信ずべき記録が残らないためと,この人物像の表現するものが,単なる肖像画を超えた,なんらかの深遠な意味を伝えていると直観されるためであり,現在では具体的人物の肖像説と,なんらかの思想の象徴説との両者が論議中である。しかし,多くの学者はこの絵の背景が,レオナルドの中心関心事たる大地と水の地質学的情景を描いている点について一致しており,背景をなす宇宙(マクロコスモス)と中心たる人間(ミクロコスモス)の理念上のかかわりがここに意味されていると考えてよいとしている。また《レダ》は明らかに母性と大地の豊饒についてのアレゴリーと考えられる。
06年から13年まで再度ミラノにあり,フランス王ルイ12世に招かれ,ミラノの統治者シャルル・ダンボアーズのために,彼の宮殿,サンタ・マリア・アラ・フォンターナの設計,トリブルツィオの記念騎馬像のためのプランニングなどを行った。またミラノとコモ湖を結ぶアッダ川の運河開削にたずさわり,これに関連して水力学の研究ノートと水の習作スケッチを数多く残した。さらに水の研究と並行して,人体解剖の研究も進展させている。これは,彼が大地の水を人体の血液と重ね合わせて考えていたことを示すノートからも知られるように,両者が相互に深く関連しあう関心事であったためである。この時期に《聖アンナと聖母子》を制作している。13年レオ10世の即位とともに,その甥ジュリオ・デ・メディチ枢機卿の保護を求めてローマに赴くが,15年同枢機卿が死に,ラファエロ,ミケランジェロの名声に押されてもっぱら孤独な科学的・工学的研究に集中。この時期の絵画作品は《洗礼者ヨハネ》である。
17年,フランソア1世の招きに応じてフランスへ移り,アンボアーズ近くのクルー城に居所を与えられ,王母の居城ロモランタンの設計をするほかは研究ノートの製作に没頭し,同地で没した。
愛弟子メルツィFrancesco Melzi(1493-1570ころ)に残された膨大な手稿のうち,きわめて多くが今日では散逸・紛失した。最も大きいものに,《アトランティコ手稿》(ミラノ,アンブロジアーナ図書館),貴重な素描(ノートを含む)のコレクションである《ウィンザー手稿》があり,このほか《解剖手稿》《マドリード手稿》《トリブルツィオ手稿》《絵画論》などがある。これらの,主として科学的な研究と省察を含む手稿の関心方向の広さとその集中の深さ,製作期間の長さは,彼の生涯を通じて一貫していたものが,これらの〈研究〉そのものであったことを知らせる。今日に残る芸術作品の真意を理解するには,彼の膨大なノートの研究が必要であり,彼の研究の生きた証明である芸術作品を解析することなしには,その精神の全容を明らかにすることもできない。旧来は,科学的または工学的関心によってレオナルドの手稿のみを重んずる専門家と,作品を孤立させて扱う専門家との分離があり,レオナルドの全体像を把握することが困難であったが,現在では,レオナルドを15世紀末のフィレンツェ思想史のコンテキストの中に位置付けて,新プラトン主義とアリストテレス主義の混在の中からレオナルドの思想が成長したとする見解が主流となっている。その結果,四大元素論を基本とするアントロポモルフィクな世界説・宇宙説を基底として万象の根本原理とその法則の探究に情熱を傾け,画家としてそれらを記録し,思想家としてこれを省察しようとしたレオナルドの業績の全容が明らかになりつつある。晩年の〈大洪水〉の素描シリーズは,現実の事象の観察から,しだいに,元素の結合としての世界がカタストロフィーを迎えるとの宇宙論の象徴的表現へと向かうレオナルドの思想と表現(芸術)とが不可分なものであることを証明する作例である。
執筆者:若桑 みどり
レオナルド・ダ・ビンチは画家として最も著名である。もちろん《モナ・リザ》をはじめとする,彼のこの面での偉業になんらの異論もない。しかしレオナルド自身において,画家であることが最も重要なことであったかどうかは疑問である。彼の残したおびただしい手稿が発見・編集され--とくに1974年に出版された《マドリード手稿》と80年に刊行が完結した《アトランティコ手稿》により--ようやく彼の営為の全貌が明らかとなってきた今日において,レオナルドの最も大きな関心事が,力学,光学,天文学,水力学,測地学やさまざまな機械装置の設計など,科学や技術や自然研究にあったことがわかるのである。1万ページに達する手稿のうち,その4分の3はこうした問題をとり扱っており,絵画に関するものは残りの4分の1ほどである。今後はこうした自然探究者としてのレオナルドに研究の重心が移り,絵画はその一部として位置づけられるであろう。
レオナルドの手稿に見られる多彩な科学思想は,まず最初は近代科学の萌芽を示す驚くべく先駆的創見として称賛された。たとえば〈慣性の原理〉〈力の平行四辺形〉〈落体の法則〉〈槓杆(さおばかり)の原理〉〈斜面の原理〉〈重心〉や〈能率〉の概念などである。しかしその後中世科学史の研究が進展するに従って,レオナルドにより表現されているこれらの原理や概念は,P.M.M.デュエムが《レオナルド・ダ・ビンチ研究》3巻(1906-13)で明らかにしたように,すでに13世紀から14世紀にかけてヨルダヌスやビュリダンやザクセンのアルベルトやパルマのブラシウスBlasius(1345ころ-1416)により先取りされ定式化されていたものであり,アリストテレス,エウクレイデス(ユークリッド),アルキメデスのようなギリシア科学の遺産ともども,こうした中世科学の成果を,どのような経路でレオナルドが手に入れたかという事情も,今日ではしだいに明らかとなってきた。しかしだからといって,レオナルドを〈近代科学の先駆者〉から〈中世科学の剽窃者〉(デュエム)におとしめることがはたして正しいだろうか。レオナルドは中世のスコラ学者のように単に理論だけを観念的に問題にしたのではなく,まさに〈経験の弟子〉として,実際に自然を観察し,ものに触れ,測定し,機械をつくったのであり,そのことによって彼の科学思想は技術と結びつく実証的実際的な性格をもっている。彼は単なる頭の人ではなく,目の人であり,手の人である。このことは彼の解剖学の研究や植物の素描に最もよく現れている。これはデュエムの挙げている中世の先駆者にはみられない,レオナルドのまったく新しい特質である。
しかしまた逆にそれだからといって,レオナルドを単純に〈近代科学の祖〉であるとみることも,実のところ正しくない。たしかにレオナルドは自然を観察し,機械のデザインを行い,地球を全体として一つの機械であるとみなした。けれどもレオナルドのそれは〈生ける機械〉であり,デカルト以後の機械論におけるような〈死せる機械〉ではない。自然は地,水,火,空気の四大元素の互いにせめぎ合う有機体であり,この四大元素からなる人間の身体と同じく生きている。人体の血管に血が流れているように,大地の肉体は限りない水脈で満たされているのである。ここでは大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)は疑いもなく照応している。《鳥の飛翔》においても,鳥は一個の機械であるが,それは生命を吹きこまれた機械なのである。〈有機的な機械〉--この矛盾した表現で表すほかないものが,レオナルドの独自な自然観である。水力学の対象となる水の流れも,気象学の対象となる空気の動きも,力学の対象となる大砲から飛び出す砲弾すらもが生きている。たとえばレオナルドが最も注目した水の流れが,あたかも植物のごとく,髪の毛のごとく描かれているのも,それが同じ生命をもつ有機体の一部だからにほかならない。このことは彼の力の概念によって知ることができる。〈力とは精神的な性能,不可視の能力以外のものではない。それは偶有的な暴力によってつくり出され,感性的物体から非感性的物体へと注入され,もってその物体に生命に似たものを注ぎ込む。こうした生命は不思議な作用をする。それはいっさいの被造物を強制して場所と形態を変えさせつつ,自己の破滅に向かって驀進し,その原因を介してさまざまに変化してゆく〉(《アトランティコ手稿》folio 302v.)。これは近代科学の力の概念でなく,ルネサンスに特有な有機的生命力である。人間も動物も植物も,鉱物すらもこうした有機的生命力の流れの中にあり,世界は全体として,それをつくり上げる四大元素の内在的力の自己運動によって,最終的な終末へと向かってゆく。それが彼の晩年において描かれる〈大洪水〉のイメージ(《ウィンザー手稿》)なのである。レオナルドは世界のこの黙示録的終焉を信じ,それをある種の諦観をもって受け容れていたように思われる。いわゆる〈モナ・リザの微笑〉は,筆者の意見では,この終末の秘密を知るものの微笑であり,背景をなしている岩山と水と一体にとらえられねばならない。すでに《聖アンナ》の微笑は,キリストの死やその後の世界の運命を見通しているものの微笑であり,《モナ・リザ》のそれと連なる。《洗礼者ヨハネ》にいたれば,背景は暗黒となり,ついに終末は到来したのである。天をさす指はそのことを示している。
かくしてレオナルドにとって,芸術も科学も技術も自然観も一体のものであった。そこでは科学は芸術であり,芸術は科学であり,この両者を離しては考えられない。この芸術と科学の一体性において,観念的にではなく,具象的に,世界が何であり,人間が何であるかを,彼は生涯探究し続けた。この営みにおいて彼の文化史上の意義は,言葉の最も原初的な意味においてユニークである。レオナルドの前にレオナルドが存在しないように,レオナルドの後にもレオナルドはいない。
執筆者:伊東 俊太郎
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…ティツィアーノの《聖愛と俗愛》(1515ころ)には永遠の幸福と一時的な幸福(チェーザレ・リーパ),キリスト教的な高次の精神と低次の精神,新プラトン主義的な存在の2種のあり方(パノフスキー)など,種々のアレゴリーが指摘される。レオナルド・ダ・ビンチの《白貂を抱く婦人の肖像》のように,誇り高い白貂の性質によってモデルの〈純潔〉をたたえるなど,肖像画の中にモデルの理想とする徳性を寓意化することも少なくなかった。ミケランジェロによるメディチ家の2君主の墓廟の構想には,下部から上部にかけて冥界,地上世界が,また〈旧の四つの時〉〈四季〉〈人生の四段階〉などの時のアレゴリーがあるといわれる。…
…歴代の諸王が滞在したゴシック様式の城館(15世紀末)は,1560年フランソア2世を新教徒側にひき入れようとして失敗に帰した〈アンボアーズの陰謀〉の舞台として名高い。城内の聖ユベール礼拝堂には,近くのクロ・リュセの館で亡くなったレオナルド・ダ・ビンチの墓がある。【稲生 永】。…
…ジョットと彼らとの間に相違を見いだすことは図像学的には困難だが,何にもまして空間の合理的構成に大きな差を指摘できよう。ジョット以後,15世紀のマサッチョ,ピエロ・デラ・フランチェスカ,レオナルド・ダ・ビンチまで,ルネサンスの画家は幾何学的遠近法,解剖学,人体比例法を科学的に研究し,現実的空間の客観的再現に努力した。これは,現実を正確に把握することを意味し,常にコムーネにおける他と我との均衡を重んずる市民的世界像の造形的表れであり,この点でポリス世界から生じたギリシアの古典主義と照応している。…
…人間の視覚を一定点として,ここから見られる視覚を幾何学的に決定するという理念は,視覚の科学についての関心から出たと同時に,人間中心の,秩序ある世界観が根底にあったと考えられる(2世紀のガレノスは,人間の眼は球面であることから,曲面遠近法の理念を示した。レオナルド・ダ・ビンチもまた視錐は曲面で切るべきだという考えをもっていた。実際の作品に曲面遠近法を用いたと推測されるJ.フーケのような画家もいるが,まだこの点については定説がない)。…
…また内部階段は,空間を縦に貫通する手段として,なかでもらせん階段が建築家の知的関心を集め,上昇感を表現するためのさまざまなくふうが凝らされた。レオナルド・ダ・ビンチの創案になるという,互いにからまりあって上昇する二重らせんの階段も現れたが,しかし,まだ建築の内部空間とは切り離された孤立した部分として扱われており,外部階段の場合のような空間の結節点となることは少なかった。そうした中では,ミケランジェロの設計になるラウレンツィア図書館の階段は,外部階段のもつ儀式的性格を大胆に建築内部にもち込み,同時に空間のはげしい動きを表現した希有な例である。…
… 人体をみずからの手で解剖し,よく観察したのは解剖学者でなく画家であった。ベロッキオ,レオナルド・ダ・ビンチ,ミケランジェロらのルネサンス画家がそれである。なかでもレオナルド・ダ・ビンチの解剖は詳細にわたり,しかも生理学的な考察を加えたが,残念ながら彼の描いた精巧な図は人の眼にふれず学問的に用いられることもなかった。…
…いっぽう中世ヨーロッパのめぼしい都市には,ほとんどの市庁舎や教会の塔に大がかりな機械時計がそなえつけられ,その時計にはかならず〈ジャクマールjaquemart〉と呼ばれる自動人形が出てきて鐘を打ち,さらに聖人の像が窓にあらわれ,等身大の美女が舞踏したり,男女の人形が行列したりする。ルネサンスの天才レオナルド・ダ・ビンチが自動仕掛けの人工ライオンをつくったという話があるが,近世ヨーロッパでは自動装置の人工庭園をつくることが流行し,やがて17世紀には機械時計や精密工芸の成長を背景に,自動仕掛けの〈鳴く鳥〉や〈ダンス人形〉をつくる実験がはじまり,18世紀になるとフランスの機械技術者ボーカンソンやスイスの機械人形師ジャケ・ドローズ父子が登場する。ボーカンソンの精巧な音楽人形やジャケ・ドローズの歯車仕掛けで字や絵をかく自動人形は,当時の人々を驚嘆させ,いっぽうその自動機械の存在は哲学者デカルトやラ・メトリーに人間機械論を着想させた。…
…これを百科全書的知の組織図としてみるとき,学芸や知のシンボルとしての系統樹が生ずる。レオナルド・ダ・ビンチがミラノのスフォルツァ城に描いた,根と枝におおわれた〈アッセの間(中心軸の間)〉は,彼がこれらの象徴を体得していたことを示している。
[現代的想像力の中の木]
木は,自然界についての人間の想像力をつねにかき立ててきた。…
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[飛行への挑戦]
航空のルーツとして,ギリシア神話のダイダロス,イカロス父子の物語がよくあげられるが,このほかにも,古代の神話,絵画,彫刻などに,人間の空へのあこがれを表したものはたくさん残っている。人間の飛行の可能性を初めて科学的に追究したのはレオナルド・ダ・ビンチで,羽ばたき機,ヘリコプター,グライダーなどの考案を発表した。しかし,産業革命以前で,機械的動力をまったく利用できない時代では,成功するはずもなく,模型による飛行実験すら行われなかった。…
…青銅の玉ころ,テーパーころなどが木の溝の中をころがるものであった。後にレオナルド・ダ・ビンチもころがり軸受に関するいくつかのアイデアをかき残しているが,広く用いられるようになるのは,産業革命の時代に入って機械類の性能向上が強く要請されるようになってからのことである。そして,このころから各国で専業メーカーによるころがり軸受の大量生産が行われるようになり,これとともに規格化も進み,近代的な意味でのころがり軸受はこのころ始まったといえる。…
…口味覚【黒田 敬之】
[舌の文化史]
弁論を技術(アルス)の女王とみたキケロは,肺から口の裏に1本の動脈が走っていて心に発した言葉を声にかえ,舌が歯や口腔をたたいて明りょうな音声の流れにすると考えた(《神の本性について》)。またレオナルド・ダ・ビンチは脳底からの神経が舌全体に分布するとし,舌には24の筋が6群となって舌を多様に働かすと考えた(《手記》)。人間の舌と言語との連想は緊密で,ギリシア語glōssa,ラテン語lingua,英語tongue,ドイツ語Zungeその他多くの言葉に舌と言語の両意がある。…
…しかし,畜力や人力によらず,前述の定義に述べたように,車両に備えた人工の動力によって車輪を駆動して走る自走車の萌芽はずっと遅く,はるかにのちの15世紀のルネサンス時代になる。1480年ころレオナルド・ダ・ビンチは,ぜんまい仕掛の自走車やおもりをつり下げた牽引式の自走車のスケッチ画を残している。その後17世紀に入ると,ニュートンも蒸気を噴射してその反動で走る自走車を構想したといわれており,また1668年ころにはベルギー人のイエズス会宣教師F.フェルビーストが,蒸気を羽根車に吹きつけて動力を発生する衝動式蒸気タービンの模型自走車を製作している。…
…鉱山業,織工業などの生産手段には機械が導入される。レオナルド・ダ・ビンチは絵画,彫刻,建築などあらゆる方面に天才を発揮し,透視法,航空術,解剖学など科学技術についても先駆的な考えを示す。M.ルターが宗教改革を開始したのは1517年であった。…
…〈空気に消えてゆく煙のように〉(レオナルド・ダ・ビンチ),画面の明るい部分からごく暗い部分まで,境界線なしに,徐々に変化する諧調をいう。〈煙〉を意味するイタリア語のフーモfumoに由来し,〈煙のかかった〉の意。…
…ただし,これらの文献に見られる図は本文に対する説明図であって,当時の実際の機械製作において,なんらかの図が使用されていたか否かはまったく不明であり,事物の形態を図によって表示することが,その事物をより明確に示しうるという意識の発生を推定しうるのみである。 中世に至り,以前のような絵画図の段階から大きく前進を見せることになったのは,レオナルド・ダ・ビンチの遺稿においてであり,彼は,図示により,表現が単純化され,普遍化されるということを明らかに意識していたといえよう。例えば彼が用いたねじの略図のごときは,ほぼ現代の初頭のそれに匹敵する。…
…現存例では,ラファエロの《アテネの学堂》が名高い。また構成案のための下絵には,レオナルド・ダ・ビンチの《聖アンナと聖母子》のように,タブローに等しい価値を有し,後世に大きな影響を与えた例もある。(4)シーミレsimile(イタリア語) イタリアの初期ルネサンス期にのみ行われた素描で,〈類型〉の意味をもつ用語。…
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[近世以降のヨーロッパ]
近世初期のヨーロッパには巨匠たちの同性愛が目だっている。レオナルド・ダ・ビンチは若いころにも同性愛のかどで告訴されたことがあったが,名を成して後も弟子の美少年たちとつき合い,そのうちの一人フランチェスコ・メルツィを相続人にしている。ミケランジェロは男色者としての好みを作品の中に色濃く投影した。…
…とくに当時の芸術家たちは,古代の神々やイエス・キリストとその使徒らの容貌を,その性格やたどった運命にかなうように描く必要から,人相学を研究した。ポンポニウス・ガウリクスPomponius Gauricusの《彫刻論》は人相学も論じ,グロテスクな横顔の素描を描いたレオナルド・ダ・ビンチも人相学に興味を示し,鼻の形に注目している。また,A.デューラーは多血質,胆汁質,粘液質,憂鬱(ゆううつ)質などのいわゆる四性論にもとづいた人相学に凝って多くの作品を描いている。…
…数学教師としてイタリア諸都市の宮廷,ペルージア大学などで教えた。1497年,ミラノ公ルドビーコ・スフォルツァの宮廷に招かれ,そこでレオナルド・ダ・ビンチと知り合い,99年にはフィレンツェへともに旅したことは有名である。その後,ピサ大学,ボローニャ大学で講義をしている。…
…生理学的構造とその形体化が,美術家に科学者のような興味を抱かせたのである。その優れた例はレオナルド・ダ・ビンチに見られる。そこでは身ぶりや顔面の表情による心理や性格の表現もそれと関連して研究された。…
… ルネサンスに入ると,再びウィトルウィウスを基礎とする比例理論が建築の中心課題となり,ここでもまたピタゴラスの理論が重要な手がかりとされたが,しかし人体的比例の堅持と,それに加えて透視図法的な,一定の視点からの三次元的比例が主たる関心事となった。L.B.アルベルティ,フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ,レオナルド・ダ・ビンチといった当時の代表的比例理論家たちは,音楽用語を用いて建築の比例を論じ,調和級数によって空間の奥行きの比例を決定しようとしていた。16世紀以降は,さらに新プラトン主義の影響による数の神秘主義が加わり,きわめて知的な古典主義的比例の体系が確立されていく。…
…15世紀後半のフィレンツェで最も繁盛した工房の一つを経営し,多数の弟子とともにメディチ家をはじめとする顧客のためにあらゆる種類の美術品を制作。彼の作と断定できるきわめて少数の絵画の一点《キリストの洗礼》は,晩年の弟子レオナルド・ダ・ビンチが画中の一天使を描いたとされる。彫刻ではブロンズを得意とし,卓越した技巧に裏づけされた,軽快な写実性と洗練された優雅さを兼ね備えた作風を示す。…
…彼は,15世紀の芸術家が単に自然を模倣しこれを整理する理法を知ったのに反し,16世紀の芸術家は〈マニエラを知る〉ことによって〈自然〉を超えた〈優美〉をもつにいたった,と述べ,ここでマニエラは,〈自然〉に対して,人間の〈イデア(理念)〉を付加する高度の芸術的手法と考えられるようになった。バザーリとその同時代の理論書では,ミケランジェロとレオナルド・ダ・ビンチ,ラファエロの〈手法〉を知ることにより高度の理想美が実現できると考えられたが,これは,芸術表現において初めて,意識的に〈様式〉の自覚が行われたことを意味し,古代ギリシア以来のミメーシス(模倣)の理論に対する一つの変革であった。 しかし,17世紀のバロック古典主義,バロック自然主義のいずれもが,16世紀の主知的様式主義を芸術の堕落として敵視し,とくに美術理論家G.P.ベローリは,このマニエラを自然から離れた虚偽の人為的な芸術であり,芸術のデカダンスであると非難したため,新古典主義が主導権を握った17~18世紀を通じて,マニエラとマニエリスムの双方が著しく価値をおとしめられ,19世紀にいたるまで,マニエラは〈型にはまった同型反復〉,マニエリストは〈巨匠の模倣をする,創造性を欠く追従者〉として位置づけられた。…
…レオナルド・ダ・ビンチの代表作。イタリア盛期ルネサンス様式の一頂点をなすばかりでなく,西洋古典絵画のシンボルともみなされる。…
※「レオナルド=ダ=ビンチ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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