改訂新版 世界大百科事典 「アイヌ語地名」の意味・わかりやすい解説
アイヌ語地名 (アイヌごちめい)
アイヌ語で付けられた地名。アイヌ語地名の存在はそこにアイヌが暮らしていたことを物語る。北海道,サハリン(樺太)南半,クリル(千島)列島はアイヌ語地名で占められていた。カムチャツカ半島南端にもあるらしい。早くから日本語の地名が付けられた北海道渡島(おしま)半島南部にもアイヌ語の地名は残っているし,本州東北地方北半にも多い。現在の北海道のアイヌ語地名には次のタイプがある。(1)カタカナで表したタイプ 本来のアイヌ語とはかなり違っているが,道東や山奥の支流などに多いようである。(2)漢字の音をあてはめたタイプ 札幌,十勝など大地名をはじめ,よく知られている地名の大部分がこれにあたる。(3)意味を日本語訳して漢字で表記したタイプ 鷹栖,長沼などがある。サハリンでは北海道と同様に変化したが,たとえばポロナイスクのようにアイヌ語ポロナイにロシア語語尾が付いた形になっているものもある。東北地方では日本語との接触が古くからあったためか,北海道とは異なった変化をしている地名も多い。
アイヌ語地名の語義を解釈すること(地名解)は,19世紀初めの秦檍麻呂(はたあわきまろ)《東蝦夷地名考》や上原熊次郎《蝦夷地名考幷里程記》から始まった。それは江戸幕府が蝦夷地を直轄し,地理の調査が行われた成果の一つであった。幕末になると,蝦夷地を渉猟した松浦武四郎の日誌類に多くの地名解が書かれ,1859年(安政6)には同《東西蝦夷山川地理取調図》に北海道のアイヌ語地名が詳細に書き入れられて公刊された。しかし,北蝦夷(サハリン)のものは,幕府に公刊が許可されなかった。1891年(明治24)に永田方正《北海道蝦夷語地名解》が出版され,松浦・永田の著作がアイヌ語地名研究の基本的資料となった。第2次世界大戦後は山田秀三が知里真志保とともにアイヌ語地名を探究し,知里没後も研究を続けてアイヌ語地名学の基礎をつくり,後学の徒に委ねた。知里真志保《アイヌ語入門》,《山田秀三著作集》がある。
アイヌ語地名のほとんどは地形や地勢,狩猟採集の場などを示す言葉で成り立っており,人名や数詞は使われない。とくに川を示す言葉のペッやナイが付いた地名が多く,江戸時代から別や内という漢字で表されたり,川や沢と日本語訳されている。川はアイヌの生活のよりどころであり交通路でもあることが,川の名の多さと名の意味に表れている。ペッとナイの違いについて,北千島ではぺッしかなく,樺太ではナイだけだが古くはペッもあって,ペッは本来のアイヌ語,ナイは新しく入った外来語であるという知里の説がある。山田秀三はそれを受けて道内の分布を調べた結果,江戸時代に西蝦夷地と呼ばれた日本海側がナイの地帯だったとしている。このようにアイヌ語地名は北方史の史料にもなる。東北地方にアイヌ語の地名があることは,江戸時代に菅江真澄が民俗学的な関心をもって日記として書いているが,アイヌ語学に基づいた研究は金田一京助に始まる。山田が東北地方のアイヌ語地名の分布を調べると,アイヌ語地名が残存する状況の濃淡は古代の大和勢力の浸透とほぼ一致していた。これも歴史史料となる一例である。
また,地名に付く〈前〉〈後ろ〉や磁石とは異なる方角の表現からは,アイヌの方向感覚を知ることもできるし,動植物の名からは狩猟採集生活を偲ぶことができる。特徴のもうひとつには,名詞や名詞の修飾語だけではなく動詞を含むことがあげられる。たとえば,現在の千歳市にある蘭越(らんこし)はランコ(桂の木が)・ウス(群生する)・イ(所)がもとであり,羽幌(はぼろ)川下流に流れ込む支流の計那詩(けなし)川は,もとの名がパンケ(下流側の)・ケナシ(川沿いの林)・パ(の上手)・オマ(にある)・ナイ(川)で,現ペンケ(上流側の)ケナシパオマナイと対になっている川である。このような表現は,アイヌが自分たちの生活する世界を,言葉を省略せず,反対に飾ることもせずに表現するという精神の現れであるかもしれないし,地名が場所の説明であることを示しているともいえる。また動詞のほかに助詞も多用されている。したがって,地名の語構成を見るときや語義を明らかにするには,アイヌ語の文法にかなった解釈をすることが必要である。
21世紀になって,北海道ではアイヌ語地名を〈北海道遺産〉として広めることとした。アイヌ語地名に関心を持つ人は少なくなく,地名の意味をアイヌ文化に即して理解することも一般的になってきた。しかし,アイヌ語地名はもともとアイヌの暮しのなかで意味のあった自然に対する認識が,日本人にとって未知の土地の把握のために記録され,固定化されたものなのである。
→アイヌ語 →地名
執筆者:児島 恭子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報