アケメネス朝(読み)アケメネスチョウ

デジタル大辞泉 「アケメネス朝」の意味・読み・例文・類語

アケメネス‐ちょう〔‐テウ〕【アケメネス朝】

《〈ギリシャAchaimenēs/〈ペルシアHakhamanish》前6世紀半ば、族長アケメネスを祖とし、キュロスが創始した、古代ペルシアの王朝ダリウス1世のときに全オリエントを支配。前330年、アレクサンドロス大王に征服されて滅亡。

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精選版 日本国語大辞典 「アケメネス朝」の意味・読み・例文・類語

アケメネス‐ちょう‥テウ【アケメネス朝】

  1. ( アケメネスは[ギリシア語] Akhaimenes [ペルシア語] Hakhamanish ) 古代ペルシアの王朝。アケメネスを祖として前七世紀頃おこり、前五五〇年メディアから独立してペルシア帝国を築く。ダレイオス一世の時、勢力はほぼ全オリエントに及ぶ。前三三一年アレクサンドロス大王に滅ぼされた。

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百科事典マイペディア 「アケメネス朝」の意味・わかりやすい解説

アケメネス朝【アケメネスちょう】

古代ペルシア帝国の王朝。ペルシア人の族長アケメネスAchaemenes(ギリシア名アカイメネス,ペルシア名ハカーマニシュ。前700年ころ)の孫キュロス2世が前6世紀半ばに帝国を創建して始祖となる。以後12代約230年間の治世ののち,前330年ダレイオス3世がアレクサンドロス大王に敗死して滅亡。
→関連項目アルタクセルクセス[2世]イランオクサス遺宝サルマート文化スーサパサルガダエハマダーンペルシア語ペルセポリス

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アケメネス朝」の意味・わかりやすい解説

アケメネス朝
アケメネスちょう
Achaemenian Dynasty; Achaemenidae

古代ペルシア帝国の王朝 (前 550~330) 。イラン高原南西部に南下,定着したペルシア人の首長,アケメネス (在位前 700頃~675頃) を始祖とする。前 550年キュロス2世はメディアを滅ぼして独立,次いで新バビロニアを征服し,その子カンビセス2世はエジプトを占領した。ダレイオス1世インド北西部まで含めて,西アジアのほとんど全域にわたる史上最初の大統一帝国を建設した。首都はスーサ,のちペルセポリスにおかれた。国王は最高神アフラ・マズダの意志によって即位したとする神権的性格をもち,「諸王の王」と自称した。中央集権体制をとり,全国二十余州にはサトラップ (州総督) のほか,国王に直属する軍司令官,徴税官,監督官をおいた。しかし異民族には寛容で,それぞれの固有の信仰,言語,風習とともに自治を認めた。農業と通商を経済的基礎とし,租税体系を確立した。道路網や駅伝制を整備し,金,銀の通貨を鋳造した。またアラム人を主とする商業資本や,ギリシア人を含む多数の異民族から成る傭兵隊が,帝国の経済,軍事上に重要な役割を演じた。ゾロアスター教が盛んになり,美術に独自の様式が生れた。イラン文明の基盤をつくったのみならず,シュメール以来の西アジア文化を集大成して一大文明圏を現出し,その影響は東は中国やインド,西はヨーロッパに及んだといわれる。しかしスキタイ遠征やギリシア遠征 (→ペルシア戦争 ) に失敗し,のちアレクサンドロス3世 (大王) の侵攻を受けて,前 330年滅亡した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アケメネス朝」の解説

アケメネス朝(アケメネスちょう)
Achaemenes

前550~前330

古代オリエントのほとんど全域を支配したペルシア人の王朝。始祖はアケメネス。キュロス2世が前550年メディアを滅ぼし,独立。前546年サルディスを占領しアナトリアを併合,前538年にはバビロンを占領した。カンビュセス2世は前525年エジプトを征服した。帝国の反乱を鎮定したダレイオス1世ベヒストゥーン碑文をのこし,帝国を約20の州に分けサトラップ(知事)を置き,さらに駅伝制を定めた。彼はスーサペルセポリスの都を造営した。クセルクセス1世ペルシア戦争を行ったが,ギリシアの支配には成功しなかった。以後宮廷内の内訌のため勢力は衰え,アレクサンドロス大王にイッソス,ガウガメラ(アルベラ近郊)で敗れ,滅亡した。諸王はアフラ・マズダーを信仰した。

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改訂新版 世界大百科事典 「アケメネス朝」の意味・わかりやすい解説

アケメネス朝 (アケメネスちょう)
Achaemenes

ペルシア帝国を支配した王家。前700年ごろ,ペルシア人の族長アケメネス(ギリシア語名アカイメネス,古代ペルシア語名ハカーマニシュ)にさかのぼる。当時ペルシア人はイラン高原を南下しつつあり,第2代テイスペスの時にペルシア(現,ファールス州)に定着したと考えられる。キュロス2世のバビロン出土碑文によれば,テイスペス以来アンシャン王を称している。アンシャンは同地方の古名である。第5代キュロス2世はペルシア帝国を創設して,その初代の王となった。カンビュセス2世の死後,権力をめぐる争いがおこり,王統は傍系のダレイオス1世に移った。約200年にわたる帝国支配ののち,アレクサンドロス大王によって滅ぼされた。アケメネス朝に対する回想はその後も長くイラン民族のあいだに保持され,アケメネス朝とのつながりがしばしば後代の支配者によって強調された。
ペルシア帝国
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旺文社世界史事典 三訂版 「アケメネス朝」の解説

アケメネス朝
アケメネスちょう
Achaemenes

前550〜前330
オリエントを統一したペルシア帝国の王朝
パールス(現ファールス)におこり,アケメネスは王朝の始祖の名。初めメディアに服属していたが,キュロス2世(在位前559〜前529)のとき,メディア・リディア・新バビロニア王国を滅ぼし,次王カンビュセス2世はエジプトを征服し,ダレイオス1世の時期には,東はインダス川,西はエーゲ海に至る大帝国を現出した。全オリエント世界を統治し,サトラップ制度を確立,“王の目,王の耳”による監察を行い,駅伝制を設けて交通制度を整え,古代オリエント的中央集権国家を完成した。領内諸民族に対しては寛容で,軍役と貢納義務を果たせば宗教・文化・制度などを尊重した。ダレイオス1世とクセルクセス1世との2代にわたり,ギリシアを攻撃し,ペルシア戦争を起こしたが失敗した。その後も繁栄を続けたが,ダレイオス3世のときにアレクサンドロス大王と戦い,イッソスの戦いとアルベラの戦いで敗れ,前330年滅亡した。

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世界大百科事典(旧版)内のアケメネス朝の言及

【バビロニア】より

…その歴史は,厳密にはバビロンによるメソポタミア南部の統一をもって始まるとみるべきであろうが,以下の記述では,サルゴンによるアッカド帝国の建設によりメソポタミア南部が初めて政治的に統合された時をもってその出発点とし,アレクサンドロス大王による征服までを扱う。なお,以下に掲げるアケメネス朝以前の諸王の治世年代はすべてA.レオ・オッペンハイム《古代メソポタミア》(改訂版,1977)に付されているJ.A.ブリンクマンの年代表に従う。
[アッカド帝国時代]
 サルゴン(在位,前2334‐前2279。…

【ペルシア帝国】より

…前6世紀後半に古代オリエント世界の統一を完成し,その後およそ2世紀にわたって中央アジアからエジプトに至る広域支配を続けた帝国の称。アケメネス朝ペルシア(アケメネス朝)ともいう。
[歴史]
 ペルシア人はメディア人とともに西イラン族に属し,前1000年ころイラン高原に到来した。…

※「アケメネス朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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