日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンリ(4世)」の意味・わかりやすい解説
アンリ(4世)
あんり
Henri Ⅳ
(1553―1610)
フランス国王(在位1589~1610)。ナバール国王(在位1572~1610)。アントアーヌ・ド・ブルボンとジャンヌ・ダルブレ(ナバール王妃)の子として、1553年12月13日ベアルンに生まれる。幼少のころからカルバン主義の教育を受け、第三次宗教戦争(ユグノー戦争)のとき新教徒軍の総帥として登場。サン・ジェルマンの和議(1570)によって旧教徒と新教徒との和解が成立し、1572年8月にアンリはフランス国王シャルル9世の妹マルグリットと結婚。その1週間後の8月24日の夜から翌朝にかけてサン・バルテルミーの虐殺事件が勃発(ぼっぱつ)し、アンリも宮廷に軟禁、カトリックへの改宗を余儀なくされた。その後脱出して新教に復帰し、国王アンリ3世の弟アランソン公が死去すると王位継承人としていわゆる「三アンリの戦い」を進め、アンリ3世が暗殺される(1589)と、ここにアンリ4世としてブルボン朝を創始した。しかし、サリカ法典が国王はカトリックであることと定めていたため、1593年サン・ドニ教会でカトリックにふたたび改宗し、翌1594年シャルトルで聖別式を受け、パリに入城した。30年以上にも及んだ宗教的戦乱に終止符を打つために、信仰の平和共存をうたった「ナントの王令」を公布(1598)して王国の統一を果たすとともに、内政の整備にはシュリの献身を得て、経済、財政の再建を図り、1604年にはポーレット法を制定して官職の売買と世襲制を認め、フランス官僚制の根幹を形づくった。対外的にはサボア公からブルゴーニュ南部地方を譲り受け、平和路線をとりつつもスペインの孤立化を画策した。1599年マルグリットとの結婚を破棄、翌1600年メディチ家のマリと再婚したが、「ベール・ガラン」(好色の王様)のあだ名にふさわしくガブリエル・デストレ、アンリエット・ダントレェグ、ジャックリーヌ・ド・ビュユ、シャルロット・デゼッサールという愛妾(あいしょう)たちがその名を残している。1610年5月14日パリで、カトリックの狂信者ラバイヤックRavaillacの剣によって落命。
[志垣嘉夫]