フランスの哲学者。旧、仏領インドシナに生まれ、リール大学に学び、第二次世界大戦中はレジスタンス運動に参加する。1978年までモンペリエ第三大学教授。
現象学に「生」という新たな次元を切り開いた点で決定的な意味をもつ現象学者である。「生」は現象学が主題としてきた多様な現象のうちの一つという相対的な性格のものではなく、何が現象するにしても、「現象する」という出来事が必ず前提しているという点で絶対的な性格をもつ。この絶対性において生を現象学的に捉えることがアンリの唯一の課題である。アンリはフッサール、ハイデッガーに代表される「古典的現象学」を、現象性を「可視性の地平」に限定するものとして総体的に批判するが、「存在論的一元論」と名づけられるこの傾向は現象学に始まったものではなく、視覚をモデルとする古代ギリシア以来の西洋哲学を拘束し続けてきたものだとされる。これに対して、「徹底化された還元」を遂行することにより、志向性や存在の開く「可視性」の地平の内部では決して「見えない生」が、志向性に先だって「現象する」さまをとらえることが可能になるのだとアンリは主張する。もはや視覚に拠らないこのような生の不可視の現象性は「情感性」として記述され、志向性を介さないその現象構造は「自己触発」として分析されるが、それは、「触発する自己」と「触発される自己」の間にいかなる差異も介入しないという点で、従来の「自己触発」概念とはまったく性格を異にするものである(『顕現の本質』L'essence de la manifestation(1963)、『身体の哲学と現象学』Philosophie et phénoménologie du corps(1965))。
アンリはこの構想を、さらにデカルト、カント、ショーペンハウアー、ニーチェ、フロイトのなかに不可視の生への接近を跡づける作業(『精神分析の系譜』Généalogie de la psychanalyse(1985))や、フッサールの時間性の分析を新たにたどり直すことでそこに志向性から身を隠す生のかすかな痕跡(こんせき)を探り出す作業(『実質的現象学』Phénoménologie matérielle(1990))として続行してゆく。他方で、このような「生の現象学」に基づいてアンリは、近代以降の科学技術に基礎を置く文明が生を隠蔽(いんぺい)し、忘却してきたのだとして糾弾する文明論(『野蛮』La barbarie(1987))や、不可視の生を可視化するものとしてカンディンスキーに代表される現代絵画を新たに評価し直す芸術論(『見えないものを見る』Voir l'invisible(1988))を展開している。そのほか『マルクス』Marx(1976)、『共産主義から資本主義へ』Du communisme au capitalisme(1990)など「生」の立場から、マルクス主義を論じた著作も残している。
晩年になるにしたがい、アンリは自己の根底でおこるこの「不可視の生」の現象性の構造をキリスト教、とりわけ『ヨハネによる福音書』にみられるイエス・キリストの受肉の出来事(「超越論的原―息子」とよばれる)の内に読み込んでゆくようになる。神とは生そのものであり、その生の本質は自己をあらわにすること、啓示にあるのであって、その神の自己顕現=啓示がイエス・キリストの受肉という根源的な出来事なのである(『我は真理なり』C'est moi la vérité(1996)、『受肉』Incarnation(2000)、『キリストの言葉』Paroles du Christ(2002))。
なおアンリは小説家としても活動した。とりわけ『目を閉じて愛』L'amour les yeux fermés(1976)はルノード賞を受賞している。そのほかの小説作品として、『若い士官』Le jeune officier(1954)、『王の息子』Le fils du roi(1981)、『不躾(ぶしつけ)な死体』Le cadavre indiscret(1996)がある。
[永井 晋 2015年5月19日]
『山形頼洋・望月太郎訳『野蛮――科学主義の独裁と文化の危機』(1990・法政大学出版局)』▽『山形頼洋他訳『精神分析の系譜――失われた始源』(1993・法政大学出版局)』▽『青木研二訳『見えないものを見る――カンディンスキー論』(1999・法政大学出版局)』▽『中敬夫・野村直正・吉永和加訳『実質的現象学――時間・方法・他者』(2000・法政大学出版局)』▽『中敬夫訳『身体の哲学と現象学――ビラン存在論についての試論』(2000・法政大学出版局)』▽『野村直正訳『共産主義から資本主義へ――破局の理論』(2001・法政大学出版局)』▽『Marx(1976, Gallimard, Paris)』▽『L'amour les yeux fermés(1976, Gallimard, Paris)』▽『Le fils du roi(1981, Gaillimard, Paris)』▽『C'est moi la vérité; pour une philosophie du christianisme(1996, Seuil, Paris)』▽『Paroles du Christ(2002, Seuil, Paris)』▽『Phénoménologie de la vie, Tome Ⅰ; De la phénoménologie(2003, PUF, Paris)』▽『Phénoménologie de la vie, Tome Ⅱ; De la subjectivité(2003, PUF, Paris)』
フランス国王(在位1589~1610)。ナバール国王(在位1572~1610)。アントアーヌ・ド・ブルボンとジャンヌ・ダルブレ(ナバール王妃)の子として、1553年12月13日ベアルンに生まれる。幼少のころからカルバン主義の教育を受け、第三次宗教戦争(ユグノー戦争)のとき新教徒軍の総帥として登場。サン・ジェルマンの和議(1570)によって旧教徒と新教徒との和解が成立し、1572年8月にアンリはフランス国王シャルル9世の妹マルグリットと結婚。その1週間後の8月24日の夜から翌朝にかけてサン・バルテルミーの虐殺事件が勃発(ぼっぱつ)し、アンリも宮廷に軟禁、カトリックへの改宗を余儀なくされた。その後脱出して新教に復帰し、国王アンリ3世の弟アランソン公が死去すると王位継承人としていわゆる「三アンリの戦い」を進め、アンリ3世が暗殺される(1589)と、ここにアンリ4世としてブルボン朝を創始した。しかし、サリカ法典が国王はカトリックであることと定めていたため、1593年サン・ドニ教会でカトリックにふたたび改宗し、翌1594年シャルトルで聖別式を受け、パリに入城した。30年以上にも及んだ宗教的戦乱に終止符を打つために、信仰の平和共存をうたった「ナントの王令」を公布(1598)して王国の統一を果たすとともに、内政の整備にはシュリの献身を得て、経済、財政の再建を図り、1604年にはポーレット法を制定して官職の売買と世襲制を認め、フランス官僚制の根幹を形づくった。対外的にはサボア公からブルゴーニュ南部地方を譲り受け、平和路線をとりつつもスペインの孤立化を画策した。1599年マルグリットとの結婚を破棄、翌1600年メディチ家のマリと再婚したが、「ベール・ガラン」(好色の王様)のあだ名にふさわしくガブリエル・デストレ、アンリエット・ダントレェグ、ジャックリーヌ・ド・ビュユ、シャルロット・デゼッサールという愛妾(あいしょう)たちがその名を残している。1610年5月14日パリで、カトリックの狂信者ラバイヤックRavaillacの剣によって落命。
[志垣嘉夫]
フランス国王(在位1547~1559)。フランソア1世の第2子。王太子フランソアの病死により王位継承人となった。父王の対外政策のかなめであったイタリア戦争を続行し、ハプスブルク家の勢力打破に努めたが、財政危機にみまわれ、また国内のプロテスタントに対する弾圧の強化を優先させるため、1559年ハプスブルク家とカトー・カンブレジの和約を結んだ。この結果、フランスはイタリアにおける請求権をすべて放棄し、2世紀ぶりにイギリスから奪還したカレーの町と3司教管区(トゥール、メス、ベルダン)を領有するに至った。この和約を記念して同年開かれた騎馬試合で近衛(このえ)隊長の槍(やり)の一撃を顔面に受けて死亡した。
なお、1533年メディチ家(フランスではメディシス)のカトリーヌと結婚したが、10人の子宝に恵まれ、うち3人は相次いでフランス国王となった。20歳も年上のディアヌ・ド・ポアチエを愛妾(あいしょう)とし、「ルネサンスの不道徳」と非難された。
[志垣嘉夫]
フランス国王(在位1574~1589)。アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの第3子。ユグノー戦争(1562~1598)に参加、1569年、ジャルナックとモンコントゥルの戦いで新教徒軍を破った。1573年にポーランド国王に選ばれたが、シャルル9世の急死によりフランス王位を継承。宗教戦争を超えたところでフランスの統一を願うポリティーク派の意見に傾き、新教徒には寛容王令を公布して一定の譲歩を示した。王弟アランソン公の死後、王位の推定相続人となった新教徒のアンリ4世および、リーグ(旧教同盟)のギーズ公アンリと、いわゆる「三アンリの戦い」guerre des trois Henriを進めたが、パリ攻囲のとき狂信的なカトリック僧によって暗殺された。母后カトリーヌがもっとも期待した国王で、文筆の才にも恵まれていたが、美男の小姓を愛する倒錯した性におぼれ、フランスの統一を達成できなかった。彼の死によってバロア朝は断絶し、王位はブルボン家に移った。
[志垣嘉夫]
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1908.7.5 -
フランスの王族。
エーヌ県生まれ。
フランス王ルイ・フィリップの曾孫で少年時代をモロッコで過ごし、後にパリに住むが王位の子孫のため国内永住が出来ず、王政復古を唱える。第二次世界大戦中は名を変え外人部隊に参加する。1950年法律が改正され帰国が認められる。
1874 - 1958
飛行家。
1908年ボアザン兄弟の作った複葉機に補助翼をつけヨーロッパ最初の旋回飛行に成功し、ついで1Km飛行にも成功する。’09年独自設計のアンリ・ファルマンⅢ型の初飛行にも成功する。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
…王家につらなる親王家として,3世紀にわたり政界に重きをなした。初代のコンデ親王ルイLouis,Prince de Condéおよび第2代のアンリ1世Henri Iは,16世紀後半宗教戦争の過程で,カトリック勢力を代表するギーズ家に対抗し,新教派の指導者として活躍した。王族であったことから,少数派の新教徒に大義名分を与える象徴的存在としての役割を果たしたともいえる。…
…16世紀後半のフランスで,宗教戦争(ユグノー戦争)末期に結成された過激派カトリックの同盟。新旧両派の武力抗争が続く中で,国王の周辺に,王権の強化による平和の回復を目指す穏健派カトリックを中心とした第三の党派〈ポリティーク派Politiques〉が形成され,宗教的寛容の傾向を示し始めたのに対し,異端の撲滅を主張する正統派カトリックが,1576年北フランスのペロンヌにおいて宣言を発し結成した同盟で,ギーズ公アンリを首領と仰いだ。その後,アンリ3世の懐柔策により一時活動が中断されるが,84年王弟フランソアの死により,プロテスタントのアンリ・ド・ナバール(のちのアンリ4世)が王位につく可能性が生ずると,これに徹底的に反対し,同年末のジョアンビル協定によりスペインの財政的・軍事的支援をえて,全国的にプロテスタントに対する武力弾圧に乗り出した。…
※「アンリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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