イギリスの中央銀行。現在は国有企業であるが,歴史的には,1694年,法律によって設置を規定された国策的な私有の株式発券銀行として発足した。対仏戦費の調達に苦慮する名誉革命政権(ホイッグ党政府)を財政的に支援するため,ウィリアム・パターソンの原案に基づいて資本金120万ポンドの出資を募り,その全額を国庫に貸し上げる代償として,出資者たちがイングランド銀行(正式名はThe Governor and Company of the Bank of England)という法人(株式会社)を設置する認可を受け,政府から年8%の利子(および4000ポンドの管理費)を受け取るほか,資本金と同額まで銀行券を発行して各種の銀行業務を始めたのであった。当初の株主は1268人で,株主総会で選出された正副総裁と24人の理事が重役団を構成した。初期の業務では対政府貸付けが圧倒的比重を占め,これを軸として国庫金の出納や国債業務をも営む〈政府の銀行〉へと成長する。対民間業務としては内外商業手形の割引が重要で,イングランド銀行は組織的に手形割引を始めた最初の大型銀行であった。この場合,イングランド銀行は〈貨幣不足〉を訴える商工業者の要請にこたえて,兌換(だかん)銀行券の大量発行(そうした信用創造)による利子率の大幅な引下げを実現した。財政の窮乏が民間資金を圧迫し高利貸の温床となっていたから,イングランド銀行による大規模低利貸上げ自体も,一般的な金利水準を引き下げる一因となったであろう。同行の創立によってイギリス(さしあたりロンドン)の手形割引歩合は急落し,4~5%(ときに3%)という低い金利水準が普通になる。旧来の高利貸,とくにゴールド・スミス(金匠)が〈憤怒の叫び〉をあげたのも当然であろう。イングランド銀行は,こうした金匠銀行業者や,トーリー党系の地主によって企画された土地銀行などの妨害をしりぞけ,名誉革命の経済的総決算として,ロンドンの近代的商人層やその背後にある広範な各地の商工業者層の営みを金融的に支援したのであり,重商主義的な産業保護育成の一環として,イギリスを産業革命に導く一因となった。
イングランド銀行の資本金は数次の増資を経て1816年に1455万3000ポンドとなり,今日に至っている。1709年,同行は唯一の株式発券銀行たる地位を認められ,その後1833年法でロンドンから65マイル以遠の地方では株式発券銀行が設立できることになったが,44年のピール銀行法によって最終的に発券銀行としての排他的独占権を獲得した。1826年には支店設置の権限が与えられ,33年の法律ではイングランド銀行券は法貨とされている。産業革命の展開とともに本格化した一連の銀行改革の頂点が上述のピール銀行法であるが,この法律は単一発券制度を確立したほか,イングランド銀行を発行部と銀行部に二分し,銀行券の発行を一般の銀行業務から分離して発行部に管理させ,金属準備に厳しく制約される発券のメカニズム(保証準備発行額直接制限制度)を強制した。証券を保証とする発券の限度を1400万ポンドにおさえ,それ以上の発券には金貨か金地金の裏付けを必要とする(ただし1/4までは銀でも可)という仕組みである。それは銀行券の過剰発行を防ごうとする通貨主義(通貨主義・銀行主義)の考えによるものであったが,あまりにも窮屈な規定であったから,恐慌期に兌換準備金が枯渇すると欠陥を暴露して再三法律は停止され,そのつど自由発行の権限が一時的に与えられねばならなかった。一方,銀行部による一般銀行業務については,ピール銀行法はまったく制限することなく,市中銀行との自由競争にまかせる建前であった。しかし,イングランド銀行は,銀行部の支払準備がイギリス金融組織全体の支払準備でもあるという,〈最終の貸手〉としての同行の特殊な地位と責務を自覚して,19世紀後半には割引政策(公定歩合政策)や準備率政策を活用するようになり,公開市場操作とあわせて,中央銀行としての金融調整を営んだ。第1次大戦後,カンリフ委員会の勧告に従って通貨・銀行券法(1928)が制定され,戦時に発行された政府紙幣を吸収するために5ポンド以下の小額イングランド銀行券が発行されることになった。同時に,保証発行限度が2億6000万ポンドに引き上げられ,かつこの限度は大蔵省の同意を得て伸縮しうるという屈伸制限制度に改められた。第2次大戦終戦時の保証発行額は13億5000万ポンドであった。
1946年,労働党内閣はイングランド銀行を国有化した。全株式は政府の所有に移され,旧株主には国債で補償された。理事会は若干縮小されて正副総裁と16人の理事で構成されることになり,正副総裁は国王の任命となった。法律上,大蔵省のイングランド銀行に対する権限と,同行の市中銀行に対する統制力も強化された。しかし,運用の実際はそれ以前と大差なかった。イングランド銀行は〈政府の銀行〉として,国庫金の出納,短期大蔵省証券の売出し・償還,国債業務(発行,登記,利払い)を営み,経済・金融政策上の助言を行うほか,法貨たる銀行券の印刷・発行・回収・廃棄や,1932年に設置された為替平衡基金の管理を担当する。また〈銀行の銀行〉として,100にのぼる諸国の中央銀行や,交換所加盟銀行を中心に約90の商業銀行(割引商会,引受商会や海外銀行を含む)の口座を保有している。バンク(the Bankといえばイングランド銀行をさす)はシティとの日常的な情報交換(対話と指導)に努めるほか,割引政策,準備率政策,公開市場操作など中央銀行としての信用規制を果たしている。ただし,為替平衡基金の設定(1932)以来,為替相場維持の責任は主として基金(したがって大蔵省)に移り,管理通貨制への移行とあいまって,イングランド銀行が金保有高の増減に対して神経過敏に硬直した対応を余儀なくされることは,ほとんどない。また金融市場の調節も政府短期証券の売出し調整,市場操作を主要手段とするようになり,これには大蔵省との協議が必要とされている。イングランド銀行は政府の片腕となり,その政策に順応する中央銀行という性格を強めていたのであり,国有化はこの道程での一里塚であった。同行の運営は正副総裁と4人の理事からなる専務理事会にゆだねられることが多く,そのもとで,約7000人の職員が,業務,国債,為替,情報,海外,文書,秘書,監査,経営診断,紙幣印刷の10局(および8支店)に配属されている。
執筆者:関口 尚志
本店は最初,1732-34年にG.サンプソンにより建設されたが,88年からJ.ソーンによって現在の建物が建てられた。窓を外に開かず堅固に防備し,天窓から採光する浅いドームを頂く室内の多くは,イギリス新古典主義の代表例。1930-40年にH.ベーカーによって大増築が行われ,ソーンの外観意匠はティボリ・コーナーと呼ばれる半円形の外角など以外,失われた。国内各地の支店にも,新古典主義建築の佳品が多い。
執筆者:鈴木 博之
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イギリスの中央銀行。その権威のゆえに「ザ・バンク」The Bankと尊称される。また、ロンドンの本店所在地にちなんで「スレッドニードル街の老婦人」The Old Lady of Threadneedle Streetの名がある。イングランド銀行券は、連合王国United Kingdomを通じての法貨legal tenderである。ただし、スコットランドと北アイルランドでは独自の発券銀行が存在し、それらの銀行券もイングランド銀行券と相並んで流通している。とはいえ、それらの保証準備発行額はごく限定されたもので、それを超える発券にはイングランド銀行券による100%準備が必要とされている。
[鈴木芳徳]
イングランド銀行は、1694年ウィリアム・パターソンWilliam Patterson(1658―1719)の建議により設立された。当時イギリスはフランスと交戦中で、その戦費を賄うため資本金120万ポンドを国王に貸し上げたのと引き換えに、イングランドとウェールズにおいて銀行券を発行する特権を賦与されたのである。18世紀初頭までは、政府の銀行、ロンドンの銀行という性格が強かったとはいえ、兌換(だかん)銀行券の発行による信用創造は、それまでの高利貸による金融独占を打破し、利子率の引下げを実現、産業資本の育成に貢献した。1826年の条令で支店の設置を認められ、1833年には同行の銀行券は法貨として特別の地位を与えられた。1844年、時の首相ピールの下で制定された「イングランド銀行条令」Bank Charter Act of 1844(通称「ピール銀行条令」Peel's Bank Act)によって発券の独占権が与えられて、名実ともにイギリスの中央銀行となった。同条令のもとで、発行部と銀行部の2部門に分かたれ、また1400万ポンドまでは証券を準備として、それ以上は金貨および地金銀を準備として発券する仕組みが整えられた。しかし同条令は、兌換準備確保には便利であっても、恐慌時や経済成長のための通貨供給という点では欠点を有し、事実、その後の1847年、1857年、1866年の恐慌の際には同条令は一時停止され、保証準備発行額の限定を拡大せざるをえなかった。こうして認識されるようになった同行の緊急時における「最後の貸し手」lender of last resortとしての役割を明確にしたのが、W・バジョットの名著『ロンバード街』Lombard Street(1873)である。
1914年、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)直後、イギリス政府は金を条件付き輸出禁制品として実質的に金本位を停止し、カレンシー・ノートcurrency noteとよばれる政府紙幣を発行したが、大戦後の通貨・外国為替(かわせ)制度を検討するために1918年に設けられたカンリフ委員会Cunliffe Committeeの勧告により、1925年に金本位法を公布し、旧平価による金地金本位制を採用、1928年にはカレンシー・ノートを銀行券に合併した。しかし大恐慌により1931年には金本位を離脱、同時に外国為替管理令を制定、翌1932年には為替平衡勘定Exchange Equalization Accountを創設、1939年には金と外貨準備のほとんど全部を発行部からこの勘定に移し、管理通貨制度への移行は決定的となった。1946年労働党内閣の下で国有化され、全株式は政府の所有となったが、実際上の運営にはなんらの変化も生じていない。
こうしてイングランド銀行は、「発券銀行」であるとともに、国庫金の出納、国債業務などを担う「政府の銀行」であり、さらに民間商業銀行等の口座をもつ「銀行の銀行」としての役割を担うに至っている。
また、各国の中央銀行についてみると、ドイツではブンデスバンクDeutsche Bundesbank、中国では中国人民銀行がある。アメリカ合衆国では「連邦準備制度」Federal Reserve Systemが中央銀行の役割を担い、全国に12の連邦準備銀行Federal Reserve Bankがある。ヨーロッパ連合(EU)としては、ヨーロッパ中央銀行European Central Bank(ECB)がある。
[鈴木芳徳]
1997年、イングランド銀行は金融政策の独立性を確保した。にもかかわらず、2007年、救済融資に踏み込まざるをえない事態が生じるに至った。当時、旧住宅金融組合building societyに由来するイギリスの銀行、ノーザン・ロックNorthern Rock(融資残高で第5位)は、短期金融市場で資金を調達し、これを住宅ローンとして提供していたが、資金繰りが悪化し、イングランド銀行に救済融資を求めざるをえなくなったのである。
[鈴木芳徳]
『J・H・クラパム著、英国金融史研究会訳『イングランド銀行』全2巻(1970・ダイヤモンド社)』▽『R・S・セイヤーズ著、西川元彦監訳、日本銀行金融史研究会訳『イングランド銀行 1891~1944年』全2巻(1979・東洋経済新報社)』▽『リチャード・ロバーツ、デーヴィッド・カイナストン編、浜田康行・宮島茂紀・小平良一訳『イングランド銀行の300年――マネー・パワー・影響』(1996・東洋経済新報社)』
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イギリスの中央銀行。ウィリアム3世の対フランスの戦費を賄うために,1694年ホイッグ党系の政治家,実業家によって設立され,対政府貸付け,国債業務によって急成長。1833年その銀行券が法定貨幣とされ,44年にはピールの銀行法によって発券銀行としての独占権が認められたが,その独占権はスコットランドには及ばなかった。以後ロンドンの「シティ」が「世界の銀行」としての地位を固めるにつれて,世界経済の中枢としての役割を担った。1946年国有化された。
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…しかし,トラッテは裏書による譲渡が不可能であり,それができるようになったのは17世紀になってからのことである。中世の銀行の支払仲介機能は手形の引受けに限られており,手形の役割が飛躍的に高められるためにはイングランド銀行の設立をまたねばならなかった。
[近代ヨーロッパの銀行]
ヨーロッパ近代の銀行史は1694年のイングランド銀行の設立をもって始まる。…
…それはやがて券面額が数種の一定金額に統一され,かつ小額化されたので,発券銀行自体の信用とともに,しだいに流通範囲を広げ,現在の銀行券の体裁をととのえていった。その後,イングランド銀行が設立され(1694),1844年ピール銀行法によって銀行の発券機能は同行に集中され,イングランド銀行券に強制通用力が与えられた。こうして現在のように銀行組織は中央銀行と預金銀行に分化することになった。…
… 1666年のロンドン大火でシティはその大部分が被災したが急速に復興,イギリスがオランダとの戦争に勝って世界商業の実権を握っていくにつれて,貿易の決済,金融のセンターとなっていく。とくに94年に国債発行を主要な業務としてイングランド銀行が設立され,東インド会社,のちの南海会社とともに国債の大量発行を引き受けるようになると,いっそうその傾向が強まる。産業革命期以後イギリスが〈世界の工場〉となるにつれて,シティでは貿易金融を担ったマーチャント・バンカー(マーチャント・バンク)の活躍が目だつようになる。…
…こうして振替銀行の設立は主として隔地間の取引の決済や送金を処理するために促されたものであり,1609年設立のアムステルダム銀行のフロリン券florin banco,19年設立のハンブルク銀行のマルク券mark bancoは以上の信用券の代表的なものである。さらに下って17世紀中期以後,イギリスにおいてもロンドンの金匠(ゴールドスミス)が自己に預託された金銀に対して預託者に交付した預証(ゴールドスミス・ノートgoldsmith’s note)が第三者間に授受されて実際上銀行券の役割をはたし,またこれが先駆となって94年にはイングランド銀行が設立され,同銀行の銀行券が一般に流通するようになった。しかも最初は法貨としての資格をもたなかった。…
…また,日本のように全国一律ではない。1830年まではイングランド銀行は諸聖人の祭日などに年約40日近く休業していたが,世界経済に占めるイギリスの比重が増すにつれて,休業日の数が徐々に減少し,71年の法律で銀行休業日が制定された。以来,曲折を経て,現在では1971年の〈銀行業務および商取引に関する法律〉の定めるところによっている。…
…今日の世界各国には,それぞれの金融組織の中核として金融調節を行い,金融政策の運営を担当する単一の銀行,すなわち中央銀行が存在している。具体的には,アメリカの連邦準備制度,イギリスのイングランド銀行,フランスのフランス銀行,ドイツのドイツ連邦銀行(ブンデスバンク),そして日本の日本銀行などである。 現存する中央銀行のなかで最も古いのはスウェーデン国立銀行(1668設立)であるが,今日みられるような典型的な中央銀行制度の確立過程において最も大きな貢献をしたのはイングランド銀行(1694設立)であった。…
…オーバーストーン卿(S.J.ロイド),R.トレンズ,G.W.ノーマンら)は次のように説く。銀行券の過剰発行こそが恐慌の原因であるから,発行権をイングランド銀行に集中し,しかも発行量を同銀行の金(きん)保有量にともなって増減させることが肝要である。そうすれば,金本位制の自動調整メカニズム(たとえば金保有量増→銀行券増発により一時的に生ずる物価上昇も,これに続く輸出減・輸入増→為替相場下落→金流出→金保有量減によって中和される。…
… 近代における発券制度は19世紀にイギリスで確立された。それ以前,イギリスにおいてはイングランド銀行のほか多数の地方銀行がそれぞれに銀行券を発行しており,発行限度額や兌換(だかん)準備については各銀行の独自の判断に任されていた。しかし,1830年代の恐慌時に多額の金が国外に流出し,イングランド銀行の金準備が不足するに至り,発券制度のあり方について検討の気運が高まり,通貨主義と銀行主義(〈通貨主義・銀行主義〉の項参照)の両者の立場の間で激しい議論が起こった。…
…1844年7月制定のイングランド銀行特許(更新)法Bank Charter Actのことで,時の首相R.ピールにちなんでピール銀行法と通称されている。ピール銀行条令ともいわれる。…
※「イングランド銀行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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