エーゲ海周辺地帯を主域として栄えた青銅器文明。キクラデス諸島,ギリシア本土の東部と南部,小アジアの西海岸からクレタ島やキプロス島をふくみ,前3000年(ないし前2800年)ころから前1200年ころにわたる。この文明は単一ではなく,また中心も範囲も変動するいくつかの文明からなるが,共通性をもつためエーゲ文明と一括される。上述した地域にはギリシア文明が続いて興るので〈前ギリシア(プレヘレニック)文明〉と呼ぶこともできるが,この文明はギリシア文明の前段階でも先駆でもなく,独自の性格をもつ。
19世紀末から始まるシュリーマンやA.J.エバンズなど多くの学者の調査と研究により,エーゲ文明の中には,トロイア,キクラデス,ヘラドス,ミノス(ミノア),ミュケナイの諸文明が区別される。なおテッサリアの発達した新石器文化も付随的にふれられる。
これら諸文明間の関係と変遷はだいたい下記の通りである。その開始年代は前3000,前2800,前2600年と諸説は一致せず,以降の年代についても細部には異説はさけられない。エーゲ文明の編年はA.J.エバンズが基礎をおいた。彼はミノス文明を前・中・後期に三分し,さらに各期をⅠ,Ⅱ,Ⅲに細分し,これに応じて他の諸文明にも3期分類法をあてた。だいたい今日でもそれが慣用されている。ただトロイアは層序によって9市に分ける。
この貧弱な地域に世界史的な海洋文明が成立発達した理由は,特殊な自然環境とそこに最適な産業とエーゲ海があったことによる。ギリシアも小アジア西岸地帯も背後の山脈や高地によって大陸内部から遮断されている。しかし,海岸線が発達し港に事欠かないため,エーゲ海に向かって開かれている。しかもこの海には多島海の名のように多くの島々が散在し,海路は陸路よりもいっそう物資の交換と文化の向上をうながす道である。日照日が多く雨の少ない瘦せ地にとって最も収益のあがるオリーブとブドウの栽培を盛んにすれば,その製品である油と酒を他の世界にまで輸出して富の蓄積ができる。この際の貿易の相手に先進文化をもつオリエントの富強地方をもったことは幸いだった。貿易と同時に技術や文化を学び,独自の高い文明をつくりあげ発展させることになった。オリーブは,今日のギリシアにとってもタバコとともに重要な輸出品となっている。
旧石器文化の跡は最近ギリシアでも発見されているが,やがて発達した新石器文化がテッサリアを中心に興った。それは一時はギリシア南部にまで広がるが,後期になるとテッサリア地方に後退する。ギリシアの中部から南部にかけて強力な青銅器文化が進出してきたからである。これがヘラドス文化であり,時間的に差はあるが,トロイア,キクラデス諸島,クレタが青銅器時代にはいる。だいたい前3000年から前2600年の間のことである。これら青銅器文化人は,おおむね小アジアおよびシリア,エジプト方面から渡来したと考えられる。いずれにせよ彼らはそれぞれの地域に定着しその地に応じた各文明を成長させることになる。
この青銅器時代で先頭をきるのはトロイアとキクラデスであった。トロイアは第1市から金属を知っており,第2市(前2500-前2200ころ)では早くもトロイア文明の頂点にあった。厳重な城壁をめぐらせた城内には宮殿らしい矩形プランの建物その他が建てられた。ことに多くの黄金製品をふくむみごとな財宝がシュリーマンにより発見され,世界の人びとを驚かせた。このような建造物と出土品は強力な支配者の存在を示す。その富強の原因は果樹栽培にあるよりも,この地が小アジアの西端という東西大陸とエーゲ海の主要通路をおさえる位置にあり,そのことによって得た通過物資への関税や組織的な交易にあるとみるべきであろう。第2市と同種の土器の分布は,ギリシア本土からエーゲ海の南にも及ぶが,その文化圏は対岸の小部分とレスボス島のテルミ,レムノス島のポリオクニの部落あたりにとどまるだろう。第2市の破壊後の第6市は規模は大きく栄えたが,すでにミュケナイの勢力圏にあった。
キクラデス諸島に定住者がみられるのは青銅器時代からである。メロス,アモルゴス,パロス,シュロス,ナクソスなど中部の島々が主である。どの島も小さいから,海上貿易に活躍してアッティカには植民地をもつほどだった。特有な遺物としては特産の大理石を使った壺類があり,また石偶は独特であって広く輸出された。この石偶には大小の差があるが,おもに女性で,前方で腕を組む立像が典型的であり,あやしく愛らしい。また〈フライ鍋〉とよばれて把手のある皿状の土器は,背面に渦巻文などとともに舟や魚を刻んで,航海民の趣向をうかがわせる。この文化圏には統括的な勢力は起こらず,中期キクラデス時代には南に興ったクレタの,後期にはミュケナイの勢力圏にはいる。
ギリシア本土の初期・中期ヘラドス文化の重要な住居址は中部のオルコメノス,エウトリシス,ペロポネソス半島のティリュンス,ミュケナイ,レルナなどに残る。文化的には,まだ農牧主体の低い段階にあるが,特色ある土器をもつ。釉薬に似た光輝をもつ〈原釉(ウルフィルニス)〉土器と,光輝のない赤色や黄褐色で彩文した〈鈍彩(マット)〉土器である。ところが前1900年ころにまったく別系統の土器が現れる。オルコメノスの伝説上の王名にちなみミニュアス土器と呼ばれ,陶用ろくろ製のものである。この新土器とギリシア人の祖の出現との関連には議論の余地があるとしても,時期はほぼ同じである。ともあれ,非インド・ヨーロッパ語系だったエーゲ世界はこの時期にギリシア語化がはじまるとの説が強い。そして新来民は先在文化を吸収して成長し,後期ヘラドス文化はミュケナイ文明になる。
クレタ島にも新石器文化の遺跡があるが,青銅の使用を知る多くの移住者をむかえると,急に開発される。この島はこれまでの青銅器文化の中心域よりははるかに広大で,まとまった地形である。高い山脈が横に走るとはいえ,かなりの平野部分があり,また東地中海のほぼ中央に位置する。これらの好条件のもとにオリーブとブドウの栽培はようやく本格的な産業になり,当時はまだ豊富だった木材やすぐれた工芸品を輸出し,相手のオリエントから原料を輸入して,東地中海貿易を独占することになる。まず島の東部に港町が現れ,清新な写実的工芸品を残している。しかしまだ地方分立の時期だった。前2000年ころに中部のクノッソス,ファイストス,マリアに現れる複雑な構成をもつ宮殿は,統一時代に入った証拠である。繁栄の途上に諸宮殿が同時に天災のために崩壊すると,直ちにより華麗に再建される。前1700年ころから始まるこの新宮殿時代は,クレタ文明と国力との絶頂期だ。3宮殿は依然文化と経済の中心ではあるが,クノッソスの王が全島を統一する。島内には幹線道路が通じ,東部や中部の諸港は活気をおび,ザクロスの宮殿には海軍司令の王族が住んだであろう。キクラデス諸島は王の治下にあり,エジプト王国とは公式に交際をもった。王は神性ではあったが,同時に通商王であり,また最高の司祭でもあった。クレタ文明をミノス文明とも呼ぶのは,伝説上の王ミノスにちなむ。クレタ人の信仰は豊穣生産の女神が主で,自然崇拝が行われ,双刃の斧(ラブリス)と聖なる角がしきりに見られる。
この頃の建築,壁画,陶器,工芸品は,エジプトなどに学ぶところが多いが,それとは全く別な特性をもつ,質の高い創造物だった。宮殿は中庭をかこむ多数の小室の集りであり,数階建てからなる。威圧的であるよりも軽快で華やかな建物だった。壁画には宮廷生活や花鳥,海生動物が写実風に鮮やかな色彩で描かれ,陶器では旧宮殿時代にカマレス陶器のような多彩流麗な容器を作ったが,新宮殿時代には単彩となり,はなはだ写実的な花や海生動物が好まれた。なおファイアンス製の彫刻も注目される。ミノス王国は文化上の盛栄のなかに前15世紀になるとミュケナイ人によって海上活動を圧迫され始め,前1450年ころにはミュケナイ人がクノッソス王宮の主になっているが,文化上は小変化にとどまる。前1400年ころにクレタの諸宮殿はいっせいに破壊されてミノス文明は終わった。
インド・ヨーロッパ語系の人種の侵入後のヘラドス文化は,各地方に小国家の形をとるまでに成長する。そしてすでに海岸地帯には浸透していたミノス文化を積極的に直接受け入れて,文化相が一変する。シュリーマンがミュケナイから発掘した遺物はこのことを証明している。前1600年ころからミュケナイ文明の時代ははじまり,その住民たちをミュケナイ人と呼ぶことができる。ミノス文明の受容はミュケナイ人の海上進出と関連するもので,前述のように彼らは前15世紀には東地中海の海上権をめぐって優位にたち,やがて独占する。その勢力圏はテッサリア,トロイア,キプロスにも及び,その交易圏は東部地中海域からさらに西方にも広がる。しかし中心勢力は一国でなく,ミュケナイ,ティリュンス,ピュロス,オルコメノス,テーバイに王国が併存する。その王たちは後の叙事詩の主人公となるような権力と能力に卓絶した人間であり,その時代の文化はミノス文化を受け継ぎながらも尚武的であった。巨石で築いた城塞,みごとな大トロスはこのような王にふさわしく,ミュケナイ人の卓越した構築技術の記念碑といえる。宮殿の壁画は表現,技術ともに低下するが,戦士や狩りが新しくテーマになる。陶器にはクレタ風に海生動物や植物が描かれるが,しだいに形式化され生彩を失う。ミュケナイ人がクレタ文字を少し改変した線文字Bをもってギリシア語を書いたことは,彼らのミノス文化に対する態度の象徴ともいえる。これらのミュケナイの強国も,前12世紀ころから衰えがみられるようになり,北方からの同人種ドリス人の侵入とともに崩壊して,エーゲ文明の時代は終わる。
執筆者:村田 数之亮
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
地中海東部のエーゲ海周辺地域に栄えた古代文明。この地域はいわゆる地中海型の温暖な気候で、空気が澄み、島影を見失わずに安全に航海することができたから、先進のオリエント文化圏と海上交通で結ばれ、ヨーロッパの他の地域よりはるかに早く高度の文化が開けた。その地理的位置がアジアとヨーロッパの接点で文化伝播(でんぱ)の橋の役割を果たしたように、エーゲ文明は歴史的にも性格的にもオリエントとヨーロッパ文明の中間に位置している。
エーゲ海周辺地域には紀元前3000年ごろの新石器時代末から非アーリア系の小アジア人が定住し始め、前2600年ごろから、クレタ島、キクラデス諸島、ミケーネをはじめとするギリシア本土南部、小アジアのトロヤなどに初期青銅器文化が興った。とくにキクラデス諸島は海上交通の中継地として繁栄し、「フライパン」とよばれる渦文装飾の土器や大理石の偶像がつくられたが、その単純な抽象的形態は現代彫刻に通じる新鮮さがある。金属の使用は前3000年ごろすでにみられ、エレクトラム(金と銀の合金)や金、銅や青銅などによる小像や装身具がつくられた。また、切り石や焼成れんがによる堅固な建物がつくられ、しばしば浮彫りや壁画で飾られた。ついで中期青銅器時代に入ると、クレタやミケーネの芸術活動も飛躍的に発展したが、前1200年ごろ、北方からのドーリア人の南下によって滅んだ。
エーゲ文明の存在は19世紀中ごろまでまったく知られていなかったが、19世紀末から20世紀初頭にかけてシュリーマンによるトロヤ、ミケーネの発掘、エバンズによるクレタ島クノッソスの発掘をはじめ各地の発掘が相次ぎ、その様相がしだいに明らかになってきた。近年では、1967年に始まるマリナトスによるサントリーニ(古代名テラ)島の発掘によって、多くの壁画が出土したことが注目される。今日でもギリシアをはじめイギリス、フランス、イタリアなどの考古学者によって発掘・研究が続けられている。
エーゲ文明はクレタ島に代表される南方系の文化と、ミケーネに代表される北方系の文化に大別される。
[友部 直]
クレタ島はエーゲ海の南端にある大きな島で、早くからオリエント諸地域やエジプトと交流があった。住民は地中海人種とよばれる種族に小アジア人が混血したものと考えられる。新石器時代に島の東部から開け、政治、軍事、芸術は急速に進歩し、東地中海の交易権を独占するようになった。前2000年ごろ1人の王による全島の支配が確立された。クノッソスをはじめマリア、フェストス、ザクロなどに大宮殿が造営され、陶器、金属器の製作が盛んになり、小さな彫刻や絵画が発達した。この伝説的な王の名「ミノス」にちなんで、「ミノス文明」ともよばれる。前1700年ごろ、おそらく火山活動に伴う降灰と大地震と思われる災害によって各地の宮殿は倒壊したが、まもなく、より大規模な新宮殿が再建された。この後のほぼ2世紀がクレタ文明の絶頂期である。とくに首都クノッソスは、エバンズの推定によれば人口8万を数え、政治、経済の中心として繁栄した。1900年に始まったクノッソスの発掘は、ホメロスが『オデュッセイア』のなかで「大いなる街クノッソス。ミノス王が9年の間統治した」というクレタの繁栄を実証することになった。その宮殿はなだらかな丘の上に展開し、長方形の中庭をもち、それを囲んで祭儀や公務のための室、王族の私室、工房、倉庫が配置され、採光や排水にも留意されていた。狭い通路は何度か直角に曲がって入口に達するようになっている。このような複雑なプランをもつことから、クノッソス宮殿は「迷宮」(ラビリントス)とよばれることになったのであろう。他の地域の宮殿も大小の差はあるが、プラン、様式ともクノッソスと共通した性格が認められる。クノッソス宮殿のおもな室は色彩鮮やかな壁画で飾られ、古代の絵画史のなかで特異な作品として注目される。おもなものに「牛跳び」「ユリの冠の若者」、「パリジェンヌ」とよばれる若い女性像の壁画断片がある。クレタ美術の特色は、エジプトやギリシアのように巨大な彫刻を残さなかったことであり、彼らは日常的で小さく親しみあるものに興味をもった。牛の頭部をかたどったリュトンとよばれる角状杯、象牙(ぞうげ)の蛇女神像、焼成の際の斑紋(はんもん)を生かしたバシリキ陶器、カマレス式とよばれる嘴(くちばし)状の注ぎ口をもつ黒地の陶器には、人物、草木、渦巻のほか、魚や貝、タコなど海洋民族らしいモチーフが描かれている。ぶどう酒やオリーブ油を貯蔵するピトスとよばれる大甕(おおがめ)もつくられた。装身具では黄金のハチのペンダントや指輪がある。
当時の宗教および言語についてはまだ不明な点が多いが、エーゲ文明がある種の文字をもっていたことはエバンズが指摘しており、象形文字A、同B、線文字A、同Bに分類した。1952年イギリスのマイケル・ベントリスが線文字Bの解読に成功し、それによって、当時の行政組織や社会状態をある程度まで推測できるようになった。それによると、麻織物やぶどう酒が輸出され、鎧(よろい)や一輪車の需要も大きかった。青銅品をつくる錫(すず)や染物の媒染剤のミョウバンが輸入されている。こうして推定される生活文化は、ほぼホメロスの描く世界に近い。クレタは前1400年ごろギリシア本土からの侵入によって滅び、クノッソスはじめ各地の宮殿は破壊され住民は四散して、エーゲ文明の中心はミケーネに移った。
[友部 直]
クレタ文明と同時期に、キクラデス諸島の最南端の小さな火山島、サントリーニ島にも青銅器時代後期の文化が栄えた。かつてこの島には大きな町があったが、前1500年ごろ大噴火によって島の大半が吹き飛んだ。噴火口にあたる部分は湾になり、それを囲む外輪山が現在の陸地になっている。ギリシアの考古学者マリナトスは、サントリーニ島の火山爆発が想像を絶する規模の地震と津波をおこし、それがクレタ島にも被害をもたらし、クレタ文明滅亡の原因となったと推測した。そして、1967年にサントリーニ島の発掘調査を始めた。その結果、島の南端アクロティリから灰にうずもれた大家屋群が発見され、予想をはるかに超える新事実の発見となって人々を驚かせた。これらの家屋の内部はみごとな壁画で飾られ、それらはクレタと同じ手法のフレスコ画であるが、クレタよりも保存状態ははるかによい。モチーフは海上・陸上の風景、花や草、動物、人物などで、「春のフレスコ」と名づけられた壁画は岩山に咲き乱れるユリの花とツバメを描いた叙情的な作品で、サントリーニの人々の自然観を思わせ、「ボクシングの少年」「漁師」「婦人像」などからは当時の風俗を知ることができる。また長さ7メートルに及ぶ「舟行図」では隊列を組んで海上を行く船団と、それを見送る陸上の人物が描かれ、当時の舟の構造や操船法を知るうえで貴重な作品である。壁画以外にも、アクロティリ遺跡から土器、石器、ランプ、青銅器などが出土し、なかにはクレタの製品と思われるものもある。サントリーニ島の発掘調査は続けられているが、いままでのところ人骨や貴金属類が発見されておらず、人々は最終的な大噴火の前に島を避難したものと想像されている。
[友部 直]
クレタ文明がクノッソスを中心に高度の青銅器文明を開花させていたころ、ギリシア本土では初期ヘラディック文化があったが、前2000年から前1600年にかけてインド・ヨーロッパ語系の北方民族がバルカン半島を南下し、先住民族を征服して、ペロポネソス半島を中心にギリシア各地に定住した。彼らはアカイア人とよばれ、本土南部の各地に小王国を建設した。ミケーネ、ティリンス、オルコメノス、ピロスなどがそのおもなものである。このうちもっとも強大だったのがアトレウス家のミケーネ王国で、本土の諸勢力の中心的存在となり、先進のクレタ文明に接してこれを受け入れるとともに、ついには武力でクレタを崩壊させ、エーゲ海に君臨した。
ミケーネ文明は前1600年末から前1400年にかけて絶頂期に達し、その王宮と出土品はミケーネの美術の特質をもっともよく示している。ミケーネの遺跡は、シュリーマンがトロヤに次いで1874年に発掘を始め、76年に有名な獅子門(ししもん)の内側にある二重の石板で囲まれた巨大な円型墳墓から黄金のマスクをつけた男性の遺体や数々の財宝を発見し、これによって「黄金に富めるミケーネ」をよみがえらせた。王宮の遺構は岩山を背に小高い丘アクロポリスの上に築かれ、クレタ宮殿の開放性とは対照的に、王宮というより城塞(じょうさい)としての性格が強いものであった。それは主門としての獅子門にもみることができる。アクロポリスの城外に築かれた壮大な穹窿(きゅうりゅう)墓群もミケーネ美術を特徴づけるもので、もっとも有名な「アトレウスの宝庫」は、直径14.5メートルのドームからなる祭室と奥の遺体安置室で構成され、ミケーネ時代最盛期の建築技術がいかに高い水準をもっていたかを物語っている。
ミケーネ美術にはクレタ美術の影響が濃厚にみられるが、両者の間には本質的に異なるいくつかの特色もみられる。建築ではクレタの多くの宮殿は比較的平坦(へいたん)な土地に建てられ、華やかな壁画で彩られた開放的な建物で、明るく快適な日常生活を楽しむ傾向が著しいが、ミケーネでは、宮殿は巨大な城壁で囲まれた砦(とりで)であった。宮殿の中庭に面してメガロンという長方形の主室があり、4本の柱が立ち、周囲を厚い壁で囲まれ、中央に炉が仕切られていた。この簡素なメガロン様式は後のギリシアの神殿建築の原型となった。城の正門に置かれた巨大な獅子の浮彫りもクレタにはみられないものである。
クレタ美術が開放的で自然主義的、女性的、絵画的であるとすれば、ミケーネ美術は閉鎖的で幾何学的、男性的で権威表象性を重視している点に特色がある。陶器の文様に人物を主題としたテーマ、兵士や戦闘場面などが現れてくるのもこの時代に入ってからである。
前1400年以後、ミケーネ文明はしだいに衰退の兆しをみせ始め、巨大な墳墓の造営はみられなくなる。北方から鉄器をもったドーリア人が南下し、その民族移動の波を受けて、前1100年ごろには、栄華を誇ったミケーネをはじめとする諸市は崩壊し、エーゲ文明は終わりを告げる。アルカイック期が始まる前8世紀ごろまで、ギリシアは暗黒の時代に入るのである。
[友部 直]
『村田数之亮編『世界美術大系4 エーゲ美術』(1962・講談社)』▽『新規矩男編『大系世界の美術4 古代地中海美術』(1976・学習研究社)』▽『W・ヴォルス著、友部直訳『オリエント・エーゲ海美術』(1979・グラフィック社)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
前3千年紀から前1千年紀にかけて,クレタ島を中心にギリシア本土はじめエーゲ海の周辺に開花した青銅器文明。前2000年頃までを初期,前2000~前1500年頃を中期,前1500~前1200年頃を後期とし,クレタ文明は中期に最も栄えたが,後期には衰退の色を示している。ミケーネ文明が栄えたのは後期である。この時期にはヒッタイト,エジプト,シリアなどを含む東地中海文明とでも称すべき世界があったもののようであり,ミケーネもトロヤもそのなかに入っていたらしい。クレタ文明とミケーネ文明に伴う文字の一部は1953年に解読されている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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