キプチャク・ハン国(読み)きぷちゃくはんこく(英語表記)Kipchak khante

山川 世界史小辞典 改訂新版 「キプチャク・ハン国」の解説

キプチャク・ハン国(キプチャク・ハンこく)
Kipchaq Khan

1243~1783

ジョチ・ウルス(Jochi Ulus)ともいう。チンギス・カンの長子ジョチがアルタイ山脈方面に有したウルスが起源。バトゥの西征により中央ユーラシア西方のキプチャク草原に拡大した。キプチャクとはロシア人がポロヴェツと呼んだ同草原のトルコ系遊牧民。ジョチの子孫が統治し,14世紀前半のウズベクの時代が最盛期。都のサライでは商工業が栄え,対外的にマムルーク朝との友好に努めた。同世紀後半に統一は失われたが,ジョチの第13子トカ・テムルの子孫のオロスとトクタミシュがあいついでウルスを統一。同世紀末のティムール軍の侵攻で弱体化し,西部に大オルダ,カザン・ハン国アストラハン・ハン国クリム・ハン国,東部にウズベクとカザフの各政権,北部にシビル・ハン国が成立したが,18世紀末までにすべてロシア帝国に併合された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「キプチャク・ハン国」の意味・わかりやすい解説

キプチャク・ハン国
きぷちゃくはんこく
Kipchak khante

チンギス・ハンの長子ジュチ一門が南ロシア・キプチャク草原を中心に形成した遊牧国家。ジュチ・ウルスJöchi ulusともいう。また宗家のバトゥ家の帳幕の色にちなんで、金帳ハン国ともよばれる。チンギス・ハンは諸子弟分封のおり、ジュチには右翼(西方)にあたるアルタイ北西部、イルティシ川流域を与え、それ以西の地の征服を命じた。その次子バトゥは太宗オゴタイの命で西征軍の主将となり、父の遺志を継いでロシアを征服、東ヨーロッパを席巻(せっけん)した。帰途ジュチの諸子は新領土にとどまり、その結果、ボルガ川河口あたりのサライを中心に西方領に拠(よ)るバトゥ系、イルティシ川、カザフスタンの東方領を抑える長兄オルダの系統(白帳ハン国)、およびウラル川東方の中央部に散居するシェイバンら諸子の系統(青帳ハン国)の3集団に分かれ、巨大な半独立の所領を形成した。支配者のモンゴル人は初封時の四つの千人隊だけであり、被支配民の大半はキプチャク、ブルガルなどのトルコ系であったため、急速にトルコ化した。反面、モンゴル固有の制度、習慣を捨てることなく遊牧生活を堅持して、属領ルス(ロシア)に対しては租税を徴収するのみで満足した。バトゥはオゴタイ系と対立し、トゥルイ家の憲宗モンケを擁立して事実上の独立を得た。バトゥの弟ベルケ以降、イランのフラグ家との確執が続き、エジプトのマムルーク朝と結んだ。のちティームールとも争い、しだいに弱体化して1502年に滅んだ。

杉山正明

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「キプチャク・ハン国」の意味・わかりやすい解説

キプチャク・ハン国
キプチャク・ハンこく
Kipchak Khanate

欽察汗国とも記される。 13世紀中頃モンゴル人によって東ヨーロッパ,中央アジアに建設された国。金帳汗国 Golden Horde,ジュチ・ウルスとも呼ばれる。創建者はチンギス・ハンの孫バトゥ (抜都)で,首都は最初にサライ・バトゥ (現アストラハン付近) ,のちにサライ・ベルケ (現ボルゴグラード付近) 。 14世紀のなかば,ロシアの諸侯を支配下において全盛時代を迎えたが,モスクワ大公国の発展とともにその支配力は弱まり,1380年のクリコボの戦いでロシア軍により決定的な打撃を受けた。 14世紀末チムール (帖木児)に攻撃され,クリム・ハン国,シビル・ハン国が分立し,国力は次第に衰え,16世紀初めに滅亡

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