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クラレンドン Clarendon, George William Frederick Villiers, 4th Earl of

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

クラレンドン
Clarendon, George William Frederick Villiers, 4th Earl of

[生]1800.1.12. ロンドン
[没]1870.6.27. ロンドン
19世紀のイギリスの政治家。自由党内閣の外相を歴任。パーマストン内閣の外相として 1858年,アロー戦争での武力行使を是認した。ラッセル内閣の外相として,薩摩藩士松木弘安と接見し,日本国内諸雄藩が貿易参加を希望している実情を知り,慶応2 (1866) 年2月,駐日公使 H.パークスに,日本の国内変革に対する厳正中立の維持を訓令した。次いで第1次グラッドストン内閣でも外相となり,いわゆる小英国主義の外交政策を展開したが,過労のため突如死去した。

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百科事典マイペディアの解説

クラレンドン

英国の政治家。メアリー2世の外祖父。1640年議員(長期議会)となり当初は改革派に属したが,ピューリタン革命開始後は国王側につき,皇太子チャールズ(のちチャールズ2世)とともにフランスに亡命。王政復古後,国政の指導的存在となり,国教会確立のためクラレンドン法典を制定した。外交政策の失敗の犠牲となり再度フランスに亡命,ルアンで客死。主著《大反乱史》は,革命を国王側からとらえた〈反乱史観〉として強い影響力をもった。
→関連項目クラレンドン法典

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

クラレンドン
くられんどん
Edward Hyde1st Earl of Clarendon
(1609―1674)

イギリスの政治家。ピューリタン革命直前の議会で王の専制を非難したが、のち国王支持に傾き、革命中は国王派として戦い、敗れて皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)とともに亡命。亡命中に皇太子の重臣となり、1660年王政復古により帰国、貴族に列せられるとともに、新王チャールズ2世の最高政治顧問として政治を指導した。議会は国教の安定を図って、クラレンドン法典と称される厳しい非国教徒弾圧法を定めた(1661~1665)が、彼自身は消極的で宥和(ゆうわ)政策に努め、そのため不満を招き、1667年第二次イギリス・オランダ戦争の失敗から失脚、亡命。二度の亡命中に、国王派によるピューリタン革命史『大反乱史』を完成した。[松村 赳]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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