古代エジプト,プトレマイオス王朝の最後の女王。在位前51-前30年。同名の女王が7人いたが,その7世。しばしば,唐の玄宗の寵妃楊貴妃と並んで,王座を占めた絶世の二大美人とされ,シェークスピアやショーなどの文芸作品で取り上げられて,世界の支配者たちをその色香で手玉にとった女性として定型化された。ことにシェークスピアの《アントニーとクレオパトラ》は,ローマの将軍アントニウスをあらゆる手練手管で翻弄した妖婦のように描いた。次々とエジプトを訪れて彼女と出会ったローマの将軍の3人を恋のとりこにしたことは事実だが,絶世の美人で妖婦,といったイメージは,必ずしも正しくない。
彼女のことを多少詳しく伝えるほとんど唯一の史料は,プルタルコスであるが,その《アントニウス伝》には〈彼女の美もそれ自体では決して比類のないというものでなく,見る人々を深くとらえるというほどのものではなかった〉と明言されている。貨幣や浮彫などに残されている彼女のものと思われている肖像も,高いかぎ鼻の特徴を示すのみで,美女というものではない。しかしプルタルコスは彼女の魅力を次のように実に的確に記している。〈しかし彼女との交際は逃れようのない魅力があり,また彼女の容姿が,会話の際の説得力と同時に,同席の人々のまわりに何かふりかけられる性格とを伴って,針のようなものをもたらした。彼女の声音にはまた甘美さが漂い,その舌は多くの弦のある楽器のようで,容易に彼女の語ろうとする言語にきりかえることができ,非ギリシア人とも通訳を介して話をすることはきわめてまれで,大部分の民族には,エチオピア人,トログロデュタイ人,ヘブライ人,アラビア人,シリア人,メディア人,パルティア人のいずれにも自分で返答した〉と。つまり,容姿,甘美な声,そして魅力的で巧みな会話がここで強調されている。彼女の王朝はマケドニア系ギリシア人が外から入ってたてた王朝で,彼女はその体中にエジプト人の血を混じえないギリシア人で,ギリシア語を母国語としていたが,実に多くの外国語を巧みに話した。当代一級の教育をうけた教養女性であったから,ラテン語を話さなかったとしても,武骨者のローマの将軍が彼女に引かれたのもふしぎではない。
彼女を正しく理解するもう一つの鍵は,当時の世界情勢の認識である。前2世紀の半ばには,地中海世界はその東半部に至るまでほとんど完全にローマの覇権の下に入り,ローマはすでに地中海の覇者であった。前1世紀の初め以来のローマ内部の有力政治家=将軍同士の次々と起こる権力争いも,しばしば地中海東部をまきこんでくりひろげられた。そうした中にあって最後まで独立国の体裁を保てたのはプトレマイオス朝エジプトであった。クレオパトラはこの王朝の伝統に従って弟プトレマイオス13世と共同統治者として即位して以来,弟を支持する宮廷内の勢力との確執に苦しみ,ローマ(この場合はカエサル)の後ろ盾をえて宮廷内の実権を握るとともに,圧倒的なローマの存在を女性の体一つで引きうけて,王朝の最後の落日を輝かせるとともに,ローマの一方の将軍アントニウスと結んでオクタウィアヌス(アウグストゥス)の心胆を一時は寒からしめたのであった。アントニウスとの連合王国の野望がもし成功していたなら(パスカルの〈もしクレオパトラの鼻がもう少し短かったら〉世界史は違ったものになっていたろう,という警句も,この限りで現実味をおびてくる),世界史は事実違った姿を呈したかもしれない。しかも彼女が,その出会った将軍のそれぞれに与えた愛は単なる遊びや政略ではなかった。そこに見る人間ドラマにこそ,彼女を一女王に終わらせなかった秘密がある。
彼女のローマの将軍との最初の〈美貌にもとづく交わり〉は,大ポンペイウスの長子グナエウスGnaeusとのものであったが,これは彼女にも歴史にもさしたる痕跡を残さなかった。前48年,内乱でポンペイウスを追ってアレクサンドリアに上陸したカエサルは,地方に追われていたクレオパトラを王位に復させた。プルタルコスの語るところによると,そのとき彼女は地方から1人の部下だけを伴って小舟に乗り夜陰に乗じて王宮に舟をつけ,寝具袋の中に身体を長くして巻かれて,カエサルのもとに運び入れられた。彼女のこのときの蠱惑(こわく)的な姿と応接にカエサルはみごとに冑をぬがされた,という。カエサルは身の危険に陥るまでに彼女に肩入れして宮廷の内紛を収拾し,しばらくの情交のときを過ごしたのち立ち去った。ときにクレオパトラは21歳,カエサルは52歳であった。彼女は彼の子カエサリオンを生んだ。やがてローマに戻ったカエサルの招きで,彼女はカエサリオンと共にローマ市に招かれた(前46)。当時カエサルは世界帝国理念を抱き,イリオンかアレクサンドリアへの遷都を考えていたと伝えられ,それがこの再会に際しての彼女の影響かと考える人もある。これもひとつの原因となってカエサルは暗殺され(前44年3月15日),彼女は失意の中をアレクサンドリアに帰った。
3人目のローマの将軍はアントニウスであった。カエサル暗殺者に対する復讐戦の収拾に当たっていたアントニウスは,前41年,彼女に叱責することがあってキリキアのタルソスに呼びつけた。このときの出会いもアントニウスを圧倒した。このときは彼女の贅を尽くした趣向の勝利だった。彼女は艫(とも)を黄金で飾った船に乗り,〈緋色の帆を張り,漕手は銀の櫂を笙と琴を伴奏とする笛の音に合わせて漕いだ〉。彼女は〈黄金をちりばめた天蓋の下にアフロディテのように着飾って腰をかけ〉(プルタルコス)て入港した。その夜はクレオパトラの招宴にアントニウスが赴き,おびただしい灯火の照らす夢のような光の祭典の中で,2人の間の情火も燃え上がった。ときに彼女は28歳,アントニウスは40歳の女盛り,男盛りであった。その後アントニウスは一時ローマに戻り政敵オクタウィアヌスの姉オクタウィアと政略結婚したが,結局彼は再び〈美しさも若さもオクタウィアに勝る女ではない〉(プルタルコス)クレオパトラのもとに立ち帰り,前36年1月ついに2人は正式に結婚した。彼女はアントニウスからキプロス島,キレナイカなど多くの領土を与えられ,2人の間には男女1組の双子ともう1人の男子が生まれた。
このときがクレオパトラ絶頂の数年であった。2人の結婚はローマ人とオクタウィアヌスを憤激させ,アントニウスによるオクタウィア離婚(前32)は東西の対決を決定的とし,その年ローマはクレオパトラに宣戦布告をした。両軍の決戦はギリシアのアクティウムの海戦で行われたが(前31),戦いの半ばでクレオパトラ=アントニウス軍の主力艦は戦線離脱し,彼女は一敗地にまみれた。アレクサンドリアに逃げ帰った彼女は,自分との結婚がアントニウスを不幸にしたことを嘆き,自分はすでに死んだと彼に告げさせた。この誤報を信じたアントニウスが自殺をはかり,まだ生きているうちに彼女の死が誤報であったことが知らされると,瀕死の彼は彼女のもとに運ばれ,彼女の狂気のような嘆きのうちに息をひきとった。まもなく彼女も〈女王の服装をして黄金のベッドに横たわって死んでいるのが発見された〉(プルタルコス)。毒蛇にかませたという説,服毒説など,さまざまであるが,定かではない。オクタウィアヌスに生命を助けられてローマ市で彼の凱旋行列を飾らせられることを知って,その屈辱から逃れるための堂々の死であった。プルタルコスによると,アントニウスの死と彼女自身の死の間のほんの少しのとき,彼女は彼の骨壺を抱き,〈私に降りかかった幾千という不幸の中でも,あなたなしに生きていたこの短いときほどひどい恐ろしい不幸はありませんでした〉と嘆きつづけたという。
→プトレマイオス王国 →ローマ
執筆者:弓削 達
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前69~前30(在位前51~前30)
エジプトのプトレマイオス朝最後の女王。正しくはクレオパトラ7世。マケドニア系の女性。プトレマイオス・アウレテス(12世)の次女。弟プトレマイオス13世と結婚,共同統治者となったが,王位を追われ,前48年カエサルの愛人となり王位を回復した。のちアントニウスと結婚したが,アクティウムの海戦で敗れ,翌年自殺した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…《ムゾフィラス》(1599)は対話形式による学問論。セネカ風の悲劇《クレオパトラ》(1594)は,エジプト女王の生涯の最終場面だけを扱って,ある種の劇的凝縮が見られる。宮廷で上演される仮面劇の作者としても重宝がられたが,《韻の弁護》(1603)というまじめな詩論も世に問うた。…
…オクタウィアヌス(アウグストゥス)が,前31年アントニウスとクレオパトラの連合軍を破った古代ローマの海戦。共和政最末期すでに海外に大領土を有していたローマでは,イタリアおよび西方諸地域を統治したオクタウィアヌスと,おもに東方諸地域を管轄したアントニウスの2人に実権が握られていった。…
…次いで前42年には,カエサル暗殺者のブルトゥス,カッシウスの連合軍を,オクタウィアヌスとともにフィリッピにおける2回の合戦の末破り(フィリッピの戦),元老院支配体制の息の根をとめた。その後は東方,特にシリア,小アジアで地盤の育成にはげみ,前41年小アジアのタルソスでクレオパトラと会見した後は,その魅力にとらえられて,ローマの政務官でありつづけながらもエジプトを後ろだてとしてゆく。オクタウィアヌスとの緊張は,ブルンディシウムの和で一時回避され,オクタウィアヌスの姉オクタウィアを妻に迎え,勢力圏として東方を認められたが,協約・和解の試みもむなしく,両者の関係は次第に悪化してゆく。…
…次いでエジプトに渡ったが,王位継承の争いにまきこまれた(前48年10月~前47年3月)。戦いに勝って王位につけたクレオパトラと結ばれ,一子カエサリオンをもうけたが,前47年9月,小アジアのゼラでミトリダテス大王の息子ファルナケスを討って,小アジアの秩序を回復した(この時の元老院あて報告が〈来た,見た,勝った〉の3語)。さらにアフリカに渡り,スキピオの率いるポンペイウスの残兵をタプソス(現,チュニジアのテブールバ)に破り(前46年4月6日),小カトーを自刃させた。…
…どうやらプリニウスは真珠を植物における果実のようなものと考えていたらしく,大きな真珠は〈水の中ではやわらかいが,水から出すとたちまち固くなる〉などとも書いている。 クレオパトラがアントニウスを迎えた宴会で,耳飾の真珠を酢に溶かして飲んだという伝説は有名だが,酢で真珠を溶かすのは無理であり,また真珠を溶かすほど強い酸では,とても人間が飲めたものではない。しかし,真珠を飲むというのは美食の極致として,しばしば人間の願望にあらわれたもので,たとえば16世紀イギリスの金融業者で〈グレシャムの法則〉によって名高いT.グレシャムは,1万5000ポンドの真珠を砕いて混ぜたブドウ酒でエリザベス女王のために乾杯を捧げたという。…
…だから〈象の鼻は長い〉と〈天狗の鼻は高い〉は日本語の枠組みの中でしか意味をもたないことになる。プトレマイオス朝エジプト最後の女王クレオパトラ7世の鼻が〈もう少し“短かった”ならeût été plus court〉世界の顔は変わっていただろうというパスカルのことばも,長短でなく高低で形容する日本人芥川竜之介は〈クレオパトラの鼻が“曲って”ゐたとすれば,世界の歴史はその為に一変してゐたかも知れないとは名高いパスカルの警句である〉(《侏儒の言葉》)と,court(短い)をcourbe(曲がった)に取り違えてしまった。プルタルコスの《英雄伝》はクレオパトラを魅力ある会話と交際術にたけた数ヵ国語を操る才媛(さいえん)として描いているが,美貌というほどではないとし,鼻には言及していない。…
…続くプトレマイオス12世は一時期追放の憂き目に遭った以外は長期にわたって王位にあった。プトレマイオス13世は姉クレオパトラ世とともに共同統治者として国を治めたが,のち二人は王位をめぐって争いを起こし,一時姉を追放したが,おりからポンペイウス討伐のためアレクサンドリアに来ていたカエサルの介入を招いて殺された(前47)。プトレマイオス14世は前47年クレオパトラとの共同統治者となったが,前44年彼女の命令で暗殺された。…
…カエサルの勝利は小アジアのゼラ(前47),アフリカのタプソス(前46),スペインのムンダ(前45)と続く。ファルサロスの戦の後エジプトに逃げたポンペイウスは,その地に上陸前に殺され,彼を追って来たカエサルはプトレマイオス王国の女王クレオパトラ(7世)を保護下に置き,エジプトをもローマの勢力下に置いた。 こうしてカエサルはローマの唯一の権力者として残ったが,彼が独裁的傾向を強め,王位への野望もみせたので,カッシウス,ブルトゥスらの共和主義者は前44年3月15日彼を元老院議場で暗殺した。…
※「クレオパトラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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