ゴーゴリ(年譜)(読み)ごーごりねんぷ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ゴーゴリ(年譜)」の意味・わかりやすい解説

ゴーゴリ(年譜)
ごーごりねんぷ

1809 3月20日(新暦4月1日)ウクライナのベリーキエ・ソローチンツィ村に生まれる
1821 ネージンの9年制高校入学
1828 高校を卒業し、ペテルブルグへ行く
1829 外国旅行後、下級官吏となる
1831 プーシキン交友。翌年にかけて短編集『ジカニカ近郷夜話』出版
1834 ペテルブルグ大学世界史講座の助教授となる
1835 評論・作品集『アラベスキ』、中編『タラス・ブーリバ』を含む作品集『ミールゴロト』出版。大学辞職
1836 喜劇『検察官』初演。ドイツ、スイスを経てパリに行く
1837 プーシキンの訃報に接しショックを受ける。翌年にかけて主としてローマに滞在。長編死せる魂』第1部の執筆に従事する
1839 一時帰国
1840 ふたたび西ヨーロッパへ出発。ウィーン滞在後ローマに落ち着く
1841 『死せる魂』第1部完成。刊行のため帰国。このころから宗教的「自己教育」への傾向を示しはじめる
1842 『死せる魂』第1部刊行。ドイツを経てローマへ行く。以後1848年までドイツ、ニース、パリ、ナポリなどにも滞在。喜劇『結婚』初演。中編『外套』を含む作品集4巻刊行
1843 『死せる魂』第2部執筆難航
1845 『死せる魂』第2部原稿焼却
1847 評論集『交友書簡選』出版、不評。批評家ベリンスキー、痛烈な弾劾手紙を書く
1848 ナポリからパレスチナ巡礼の旅にのぼる。帰国後、『死せる魂』第2部の執筆再開
1849 『死せる魂』第2部の執筆をつづける(1852年まで)
1851 ツルゲーネフと交友
1852 神父マトベイ・コンスタンチーノフスキーとモスクワ会見。文学活動の放棄を要求された模様。ひどく悩んだ末、ほぼ完成していた『死せる魂』第2部の原稿をふたたび焼却。以後半ば錯乱して食を断ち、治療を拒否。2月27日(新暦3月4日)死去

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例