百科事典マイペディア 「サモリ・トゥーレ」の意味・わかりやすい解説
サモリ・トゥーレ
→関連項目ギニア(国)|セネガル[川]|トゥーレ
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19世紀末、群雄割拠の西アフリカ内陸部に広大なサモリ帝国を建設し、フランスの植民地侵略に執拗(しつよう)な抵抗を続けた植民地化時代初期の民族的英雄。1830年ごろ、西アフリカの内陸サバナ、今日のギニア北西部のコニヤン地方に、マリンケ人農民の息子として生まれる。当時、西アフリカ内陸部は小国群に分裂し、それらの間で戦乱が絶え間なく続いていた。若いころ、行商人として活動していたが、自分の母が戦乱で敵軍の捕虜として捕らえられたことを契機に武士団に加わった。天才的戦略家であった彼は、たちまち頭角を現し、周辺の武将を次々に制圧し、版図を拡大していった。1880年代の最盛期にはサモリ帝国は3万5000人の兵力を擁し、19万平方キロメートルに及ぶ領土と100万人の住民を支配するまでに拡大した。1886年、彼は自らにイスラムの称号アルマミを冠し、イスラムに基づく神権政治を行うことを宣言した。このころ、この地域に侵入してきたフランス植民地軍と一時的には和平が成立した時期もあったが、結局1892年、首都ビザンドゥグはフランス軍に占領された。東方に敗走した彼はそこで帝国を再建し、フランス軍に抵抗を続けた。しかし1898年ついに逮捕され、サモリ帝国は完全に崩壊し、1900年流刑の地ガボンで病死した。
[原口武彦]
1830?~1900
19世紀末,西アフリカ内陸部でフランス植民地勢力に激しい抵抗をし,広範な勢力圏を確立したジハード指導者。生まれは現ギニア。19世紀後半以降,フランス植民地軍が内陸への進出を図ったためもあり,各地で戦乱が起こっていた。行商人であったトゥーレは軍人になり,各地を平定,1880年代には3万5000人の兵力を擁し,100万人の住民を支配するという「サモリ帝国」を形成。イスラームによる神権政治を行った。98年,フランス軍に捕えられ,1900年ガボンで病死。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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