アルゼンチンの政治家,大統領(在任1868-74),文筆家。サン・フアン州の貧家に生まれ,小学校を卒業後,遠縁のホセ・デ・オロ神父の手引きでラテン語や古典を学び,また彼とともに早くから農村子弟の教育に携わった。1828-31年,統一主義派の陣営に加わって,連邦派のファクンド・キロガ軍と戦ったが敗れ,チリに亡命した。チリでは教員,鉱山夫などを務め,36年に一時サン・フアンに戻って,雑誌《エル・ソンダ》を刊行し,また当時ヨーロッパからブエノス・アイレス市に伝わったロマン主義思潮に触れ,その信奉者となった。40年チリに再び亡命し,ジャーナリストとして健筆を振るうかたわら,19世紀のラテン・アメリカにおけるロマン主義文学の最高傑作といわれる《ファクンド--文明と野蛮》(1845)を発表した。同書はカウディーリョのファクンド・キロガの伝記という形を採りつつ,当時の独裁者ロサスを批判したものであり,国の後進性の原因をスペイン的伝統や粗野なガウチョの存在に求め,西欧移民の誘致や教育の拡充による文明化=西欧化を提唱していた。52年ロサス政権の崩壊後はこうした理念の実践に努め,57年にブエノス・アイレス市の参事官,さらに教育局長,州議会の上院議員に選出され,62年にはサン・フアン州知事となった。63年外交使節としてアメリカに派遣され,教育者ホーレス・マン夫人らとの親交を得,普通教育の拡充の必要性を痛感し,大統領時代には,教育問題に力を入れ,在任中に学校数を1082から1816,教員数を1778から2868へと増大させ,70年にはパラナ市に師範学校を設立した。こうした功績からアルゼンチンでは教育の父と評され,彼の命日(9月15日)は教師の日とされている。そのほか,大統領時代にはヨーロッパ移民の誘致や鉄道の敷設などの近代化・西欧化政策に努めたが,彼の欧化論が大きな影響力をもった結果,民族意識が希薄となり,ひいては国の対外的従属性を強めたという批判が民族主義者によってなされている。
執筆者:松下 洋
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アルゼンチンの政治家、大統領(在任1868~74)。文筆家で教育者でもある。サン・フアン州に生まれる。17歳のときに中央集権派に加担して連邦派との抗争に参画し、のちチリに亡命し、ジャーナリストとして健筆を振るうかたわら、1845年に19世紀ラテンアメリカにおけるロマン主義文学の最高傑作といわれる『ファクンド――文明と野蛮』を発表した。同書では、国の後進性=野蛮を打破するために文明の導入=西欧化の必要性を強調したが、大統領時代には文明化の具体策としてヨーロッパ移民の誘致や教育の普及などを実施した。なかでも、学校の増設や師範学校の設立に大きな成果をあげ、アルゼンチンでは「教育の父」と評されている。
[松下 洋]
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1811~88
アルゼンチンの大統領(在任1868~74),教育者。ロサス独裁時代にチリに亡命,教育とジャーナリズムに携わり,1845年に代表作『ファクンド-文明と野蛮』をチリで発表した。52年のロサス失脚により帰国し,大統領としてアメリカをモデルにした教育制度の充実や,ヨーロッパからの移民受け入れを通じて欧米化,近代化を図った。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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