モスクワに次ぐロシア連邦第2の大都市。バルト海の東,フィンランド湾奥のネバ川河口のデルタ地帯に位置し,モスクワの北西約650kmにある。市の総面積606.8km2(郊外を含めると1400km2)のうち約10分の1の58km2が水面で,文字通りの〈水の都〉である。市の人口は467万(2002)。人口100万以上の世界の大都市のうち最北に位置している。北緯59°58′にあり,アラスカ南部と等しく,夏季は昼が長い。5月25~26日から7月16~17日まで〈白夜〉となり,夏至のころには日照時間が18時間53分にもなる。年平均気温は4.3℃。海洋性の気候で,風は強く,天候や気温が変わりやすく,一年のうち約200日間,雨か雪が降る。市内の大部分が標高1.2~3mの低湿地にあり,秋には南西から吹きつける強風による高潮のためしばしば洪水に見舞われる。サンクト・ペテルブルグ港は国内の内陸水路の北西の終点であり,またバルト海の海港としてはロシア連邦最大の国際貿易港である。
1924年1月26日,レーニンの名を冠してレニングラードと改名されるまで,この都市は数多くの名で呼ばれた。1703年,ピョートル大帝(1世)によってネバ川のザーヤチイ島(〈兎島〉の意)に建設された要塞の公式の名称〈サンクト・ピーテルブルッフ(オランダ語の〈ペテロの市〉にロシア語のサンクト(〈聖〉の意)を冠したもの)〉が,そのまま,この都市の名称となった(要塞はその内部の寺院の名をとって,その後ペトロパブロフスク要塞と名づけられた)。この町の愛称ピーテルはこのオランダ語名に由来する。1825年ドイツ語風にサンクト・ペテルブルグSankt-Peterburgと改名されるが,同時にギリシア語風のペトロポーリ,あるいはペトロポリス(〈石の町〉の意)と呼ばれることもあった。1914年,ドイツと戦った時〈ブルグ〉が敵国の言葉であるという理由で,スラブ語の〈グラード〉に代えられペトログラードPetrogradとなった。しかしペトログラードという名は,それ以前にも〈ピョートル大帝の都〉という意で,この町の通称であるペテルブルグと並んで用いられていた。1991年現名に改称した。
1981年現在,86の川と運河が流れ,42の島を312の橋が結んでいるレニングラードも,建設されてからしばらくの間は,ネバ川にかかる橋がひとつもなく,まさに〈水の中の都〉〈島の都〉であった。港であったから,船の通行第1という考え方であったし,冬季には一面に氷が張って,その上を自由に通行できた。やがて浮橋や舟橋が作られたが,現在ある永久橋(今日のシュミット中尉橋)が最初に作られたのは1850年のことである。市街は当初ネバ川右岸に,ペトロパブロフスク要塞を中心に,イタリア系スイス人トレジーニDomenico Trezini(イタリアではトレッツィーニTrezzini,1670ころ-1734)の都市計画にしたがって建設されたが,1712年首都がモスクワからこの地に移されてから,より下流のワシリエフスキー島Ostrov Vasil'evskiiに主としてフランスの建築家ルブロンAlexandre Jean-Baptiste Leblond(1679-1719)のプランにしたがって次々と大がかりな建築物が建てられた。〈12のコレギア(官庁舎)〉(現在のサンクト・ペテルブルグ大学の建物),クンストカメラ(美術品陳列館)などがその代表である。次いでネバ川の左岸に建設の中心が移ることになるが,すでに1704年,ワシリエフスキー島の対岸に,海軍省と造船所をいっしょにしたような建物が建てられた。今日,金色に輝く尖塔で有名な旧海軍省(アドミラルテイストボ)の起りである。左岸にはまたこの年に〈夏の庭園Letniisad〉が作られ,ついで7年後に冬宮Zimniidvoretsが建てられた。
サンクト・ペテルブルグの主要な幹線道路であるネフスキー大通り(ネフスキー・プロスペクト)にも長い改名の歴史がある。1713年造船所(現在の旧海軍省)と重要な交通路であったノブゴロド街道を最短距離で結ぶ一直線の道路が作られた。この道は単にペルシュペクティーバあるいはペルスペクティーバ,プロスペクティーバ(フランス語のperspectiveのなまり。〈見晴し〉〈予想〉〈視野〉などの意)と呼ばれていたが,1738年,この通りの終点であるアレクサンドル・ネフスキー修道院にちなんでネフスカヤ・ペルスペクティーバと改名された。この45年後,ラテン語を基にして今日のネフスキー・プロスペクトという名称ができ上がった。旧海軍省からはさらに2本の幹線道路が放射状に延びゴロホバヤ(旧ジェルジンスキー)大通りは南東へ,ボズネセンスキー(旧マイヨーロフ)大通りは南へ,市街はこれらの大通りに対して整然と区画されている。君主の居所である冬宮は,その時々の君主の意志によって5回も作り直されたが,いずれも時代の様式を反映している。第4,第5(木造),第6の冬宮を手がけたB.F.ラストレリは,女帝アンナ・イワノブナのためにはドイツ風のバロックの建物を,フランス趣味の女帝エリザベータ・ペトロブナのためにはロココ様式を選んだ。
18世紀中葉の建築はラストレリ風の豪華絢爛で壮大な様式美が際立っており,左岸のストロガノフ宮殿,ボロンツォフ宮殿がその代表である。ラストレリが最後の6番目の冬宮に取り組んでいる時にクラシック好みの女帝エカチェリナ2世が登場し,ラストレリは追放され,ワシリエフスキー島の芸術アカデミーを建てたド・ラ・モットJean Baptiste Michel Vallin de La Mothe(1729-1800),大理石宮殿の作者リナルディAntonio Rinaldi(1710ころ-94)がバロックの色彩を残しながら古典主義へと向かい,次いでカルロ・ロッシCarlo di Giovanni Rossi(ロシアではKarl Ivanovich Rossi。1775-1849。現在のロシア博物館,エラーギン宮殿など),モンフェランAuguste Ricard de Montferrand(1786-1858。聖イサーク寺院など)らが今日見るサンクト・ペテルブルグの外観をローマ的な古典様式のトーンに統一する。ヨーロッパ最後の大建築家といわれたカルロ・ロッシは,ロシア貴族を父とし,イタリア出身のバレリーナを母として,ペテルブルグで生まれた人物であった。彼の死後,この町の華麗な発展は止まり,19世紀後半にはほとんど見るべき建築物は見られない。なお歴史に残る宮殿や庭園は,サンクト・ペテルブルグの近郊に数多く残されている。プーシキン(旧,ツァールスコエ・セロ),ロモノーソフLomonosov(旧,オラニエンバウム),パブロフスクPavlovsk,ガッチナGatchina(人口8万1000),ペトロドボレツPetrodvorets(〈ピョートルの宮殿〉の意。人口8万2200)がその主要な場所である。フィンランド湾を見下ろす地にあって,噴水で知られるペトロドボレツは当初ドイツ語でペーターホーフ(ピョートル宮殿)と呼ばれ,次いでロシア化されてペテルゴフPetergofと名づけられた。ベルサイユ宮殿に匹敵するものを作ろうというピョートル大帝の夢はルブロンからラストレリに至る建築家の手で女帝エリザベータ・ペトロブナの時代に40年の歳月をかけて実現された(図)。
サンクト・ペテルブルグはモスクワに次ぐ文化,教育の中心である。サンクト・ペテルブルグ大学(1819創立),芸術アカデミー(1757)をはじめ40をこえる研究教育機関,エカチェリナ2世が収集した美術品を展示することから始まったエルミタージュ美術館をはじめ46の博物館,1200万冊の蔵書を有するサルティコフ・シチェドリン図書館をはじめ2552の図書館がある。ロシア・バレエは,マリインスキー劇場を発祥の地とするが,この劇場はキーロフ・オペラ・バレエ劇場への改称をへて,91年旧称に戻った(レニングラード・バレエ団)。
サンクト・ペテルブルグは,海港としてだけではなく,陸空交通の要所でもある。国際空港があり,幹線鉄道が放射状に延びており,国内だけではなく,ヘルシンキやワルシャワとも直通列車によって結ばれている。市内はバス交通網が発達し,地下鉄も3系統運行されている。サンクト・ペテルブルグはモスクワに次ぐ工業都市で,その総生産額は旧ソ連全体の工業生産額の約6%を占めていた。大型船舶(原子力砕氷船〈レーニン号〉はこの地で建造された),タービン,トラクター,精密機器,兵器など機械製作部門が主で,化学,繊維部門がこれに次ぐ。特筆すべきは印刷・出版部門で,ロシア最大の規模。
ネバ川沿岸のこの地帯は,古くから北欧よりギリシアに至る通商路にあたっており,9世紀以降ノブゴロド公国の領土となったが,1617年スウェーデンに併合された。この後約100年間ロシアはバルト海への道を閉ざされ,ヨーロッパへ行こうとすればアルハンゲリスクから波の荒い白海,北極海を回らなければならなかった。バルト海を通して〈ヨーロッパへの窓〉をあけ,ロシアを西欧化し近代国家にするというピョートル大帝の悲願の前には,軍事的天才スウェーデン王カール12世が立ちはだかっていた。ピョートルは北方戦争(1700-21)によってこの地を奪回し,軍事拠点,海港の建設ということを念頭において,1703年ペトロパブロフスク要塞を建設した。これがサンクト・ペテルブルグの起源である。翌年造船所が建設され,次いでそのまわりに新しい都市の建設が開始された。建築家,技師,職人が全土から徴用され,国外からも招かれた。4万人の農奴,5000人の職人が動員された。密林と湿地から成る不健康な土地でのがむしゃらな建設工事は多数の犠牲者を出し,新しい町は人間の骨の上に建てられたという言い方がされるほどであった。1812年首都がモスクワからこの地に移されたが,これ以後も皇帝がモスクワで即位する慣例は変わらず,公的書類においても社会一般でもサンクト・ペテルブルグとモスクワは〈両首都〉と呼ばれていた。当初は強制移住させられた人々が主であったが,人口は1725年には10万,65年には15万,1800年には22万に達した。その3分の1以上が役人で,軍,あるいは行政に関与していた。
サンクト・ペテルブルグは1825年,農奴制廃止と憲法の制定を目ざした自由主義的貴族士官のグループ,デカブリスト反乱の舞台となる。40年代には社会主義的なペトラシェフスキー・グループ(ペトラシェフスキー事件)の活動があり,ドストエフスキーがこの事件に連座し,政治犯の監獄となったペトロパブロフスク要塞に投獄される。19世紀に入って工業の著しい発展が見られるが,とりわけ61年の農奴解放によって大量の労働力が都市に流入してきたことと,鉄道網が整備されることによって資本主義は急速に発展し,人口も69年における67万から1900年には143万,1910年には190万と飛躍的に増大した。高度な技術を要する工業が発展し,熟練労働者が勢力を増してくるにつれて,労働者の組織化が進んだ。ナロードニキの秘密結社的運動から革命運動の主体は労働者階級に移行していった。1905年には冬宮前広場で血の日曜日事件が起こり,ロシア革命の狼煙(のろし)が上がった。第1次大戦下,軍事的挫折と戦時下の窮乏が引金となって二月革命が起き,皇帝は退位し,ペトログラード労働者と兵士から成るソビエト(評議会)とケレンスキー臨時政府の二つの政治勢力の共存状態が続いた。スイスにいたレーニンは4月16日ペトログラードにもどり,11月7日(ロシア暦10月25日)ペトログラード労働者の支援によって臨時政府を打倒した(ロシア革命)。革命の結果,フィンランドやバルト諸国が領土から失われ,ペトログラードが国境の不安定な町となったため,ソビエト政権はジノビエフの強い反対を押し切って1918年首都をモスクワに移した。
国内戦時代(1918-20),市の人口は3分の1に減じた。学術,文化,芸術の面では,1930年ころまでソ連の中心であったが,スターリンが科学アカデミーの本拠からバレエに至るまでモスクワに移してから,あらゆる中心がモスクワに集まることとなった。レニングラードという名称になってからの最大の悲劇は,第2次大戦中の900日におよぶドイツ軍の包囲で,64万の餓死者を含め80万の犠牲者を出した。市の大半は破壊されたが,市民はこの市を守りぬいた(レニングラード攻防戦)。戦後レニングラードは〈英雄都市〉の名を与えられ,復興は国家的規模で進められ,歴史的建築物は綿密に復元された。第2次大戦後のレニングラードにかかわる悲劇としてはゾーシチェンコ,アフマートワなどのレニングラードの文学者の追放(1946)に始まる文化弾圧(ジダーノフ批判)と,レニングラードの党幹部らがあいまいな容疑で多数逮捕・処刑された1949年の〈レニングラード事件〉がある。文化面,政治面を問わず,いわゆる〈レニングラード派〉が親西欧的・コスモポリタニズム的偏向という目で見られがちで,この二つの事件もそのことを端的に示す不幸なでき事であった。
執筆者:川端 香男里
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英語ではセント・ピーターズバーグSt. Petersburgという。ロシア連邦北西部、レニングラード州の州都。首都モスクワとともに地方(クライ)、州と同等の連邦内行政主体でもある。モスクワに次ぐロシア第二の大都市。人口458万(2006年推計)。1712~1728年、1732~1918年にはロシアの首都であった。1914年までは現呼称のサンクト・ペテルブルグ(通称ペテルブルグ)、1914~1924年はペトログラードПетроград/Petrogradとよばれたが、ロシアの革命家レーニンにちなんでその死後の1924年、レニングラードЛенинград/Leningradに改称された。さらに、ソ連時代末期の1991年に、賛成54%の市民投票結果とそれを受けたロシア共和国最高会議幹部会令によって、旧称サンクト・ペテルブルグに戻された。バルト海に出口をもつフィンランド湾の奥、ネバ川の三角州に築かれた都市で、河口の低湿地に位置するためしばしば水害にみまわれる。とりわけ1777年、1824年、1924年は大洪水であった。第二次世界大戦後では1955年の水害が大きかった。沿海にあるため気候は海洋性で、1月、2月零下7.8℃、7月17.8℃と、緯度が高いわりに冬季の気温が高いが、1年を通じて曇天の日が多い。
[中村泰三・小俣利男]
人口は、1764年18万、1897年126万5000と増加し、1920年にいったん減少するが、1939年には301万5000に増え、第二次世界大戦後は1959年の300万3000から1989年の446万へと増加した。しかし、1990年代には減少傾向を示している。1989~1996年の市人口の減少は22万1000、減少率5%であり、大都市圏でも中心市街地の人口減少が著しい。これは自然増加率の低さに起因している。たとえば、市を含む大都市圏の人口動態をみると、出生率は1000人当り7.0と低く、死亡率は15.9と高い。その結果、自然増加率はマイナス8.9と低い(1995)。一方、1991年以降続いた人口流出は1994年に流入に転じたが、1995年でも1000人当り1.3人にすぎない。人口密度は、市街が1897年の104平方キロメートルから1976年の606平方キロメートルにまで拡大したので、1897年に1平方キロメートル当り1万2163人であったが、1996年には6995人、2006年には3180人である。また、市内には多数の民族が居住するが、人口の大半がロシア人である。
[中村泰三・小俣利男]
体制崩壊後、市役所がスモーリヌイの寄宿学校の建物に移されたり、長く閉鎖されていたスパス・ナ・クロビイ聖堂(キリスト復活寺院)が修復・公開されるようになった。同じく、キーロフ大通り、ジェルジンスキー通りがそれぞれカーメンナ・オストロフ大通り、ガロホバヤ通りへと変わったように、政治家などにちなんで改称された通りの名も旧名に戻されている。なお、サンクト・ペテルブルグ大都市圏を形成しているのは、中心都市サンクト・ペテルブルグとその周辺に分布するゼレノゴルスク、プーシキン、コルピノ、クロンシュタットを含む25都市・集落である。市民の1人当り、貨幣所得は全国平均の112%、失業者2.1%(1995)である。
[中村泰三・小俣利男]
1990年代に入って商業・飲食部門の就業者が増加して全体の14.8%となり、工業就業者は25.4%に減少したが、依然として首位にとどまっている(1995、大都市圏の値)。しかも、サンクト・ペテルブルグの工業はロシアの工業総生産の2.5%を占め、「キーロフ工場」「スベトラーナ」「LOMO」「イジョルスキー工場」などの著名な工業企業が集中している。主要な業種は機械工業である。製品は原子力発電設備、タービン、トラクター、造船、オートメーション設備、工作機械、各種工業設備などで、製品の一部は輸出されている。ほかに木材加工、製紙、軽工業、食品工業がある。なお、工業のなかでは軍需工業の比率が高く改革を難しくしている。商・工業部門以外で従業者の多いのは教育・文化・芸術・科学・建設の2部門が、それぞれ全体の10%を上回っている(1995、同上)。また海港と河港の2港湾をもつ港湾都市であり、年間取扱い貨物量1100万トン(1992)である。海港はロシア有数の規模で、輸出入品の搬出入でにぎわい、多数の船舶が出入りしている。11月末から4月中ごろまでは砕氷船を使用する。河港はネバ川にあり、フィンランド湾とオネガ湖、ラドガ湖を結ぶ水運の要地で、水中翼船も多用されている。陸上交通では市内にある五つの鉄道駅が各地と結ぶ発着点となる。近郊および遠距離を結ぶバス路線も発達している。空路はプルコボ国際空港を中心に、多数の国内線、国際線で各地と直結している。市内のおもな交通は地下鉄、バス、トロリーバス、市電で、バス、トロリーバスによる乗客輸送が大きな比重を占めている。地下鉄の発達が著しく、54駅を数え、路線総延長は100キロメートル(1995)に達した。
[中村泰三・小俣利男]
市域の5分の1が緑地で、そのうち公園、遊歩道が4200ヘクタールを占めている。大きな緑地は市域の縁辺にあり、北西部のユルトロフスキー夏期別荘地がもっとも大きい。また、市域外を森林公園が取り巻き、都市圏の緑化に力が注がれている。1970~1980年に約60万戸の住宅が建設されたが、その大部分は1960年以降の拡大された市域に建設された大規模高層団地に集中していた。
[中村泰三・小俣利男]
サンクト・ペテルブルグ大学(旧レニングラード大学)、工科大学をはじめとして40以上の高等教育機関があり、多数の学生や研究部門で働く人々がみられる。美術館・博物館とその分館は約120あり、エルミタージュ美術館、ロシア美術館など著名なものが多い。劇場も20あり、マリンスキー劇場(正式名称アカデミー・オペラ・バレエ劇場)、ボリショイ・ドラマ劇場、プーシキン劇場(アレクサンドリンスキー劇場)などが知られている。ピョートル大帝(ピョートル1世)により計画的につくられた町なので、多くの川や運河に380の橋が架かり、都心から放射状、同心円状に走る道路に沿って並ぶ高さの統一された建物などにより、世界でもっとも美しい町の一つといわれ、毎年多数の観光客が訪れる名所になっている。1990年にユネスコ世界遺産に登録された。冬宮(1754~62。エルミタージュ美術館の中心的な建物)、ペトロパブロフスク寺院(1712~33)を中心とするペトルパブロフスク要塞(ようさい)、聖イサク寺院(1819~58)、ネバ川沿いの一角スモーリヌイ(1748~64)、カザン寺院(1801~11)などの建築記念物が多い。
[中村泰三・小俣利男]
ピョートル大帝は北方戦争の最中の1703年、バルト海に注ぐネバ川の河口に新しい首都の建設を決意した。ロシアの西の端にあって気候も悪いこの寒村を首都にしようと思ったのは、この海への出口をもって「ヨーロッパへの窓」とし、西ヨーロッパの優れた文物を取り入れてロシアを近代化しようと考えたからだった。そのため大帝は、毎年4万に上る農民を強制的に新首都の建設のために働かせ、多くの犠牲者が出た。ピョートル大帝はまた貴族や商人、手工業者も強制的にこの地に移し、1712年自分の守護聖人の名にちなんでサンクト・ペテルブルグと命名し、首都をモスクワからここに移した。その後ラストレッリなどイタリアの建築家の協力も得て、壮大な宮殿、寺院、役所、劇場、それに大通り、公園、運河などが次々に建設され、ペテルブルグはロシアでもっとも近代的な美しい町になった。
1715年に航海学校、1719年に工業学校とロシア最初の博物館(クンストカーメラ)が建てられ、1725年には全ロシア帝国の学問の中心として科学アカデミーが設立された。その後1757年に芸術アカデミーが、1862年に音楽院がつくられ、ペテルブルグはロシアの文化的中心となった。
1837年にはペテルブルグとツァールスコエ・セロー(現プーシキン市)との間にロシアで最初の鉄道が建設され、1851年にはペテルブルグ―モスクワ間にも開通した。1835年から町にガス灯がともり、1847年からは乗合馬車が走るようになった。1905年~1907年には市電と乗合バスの路線も建設された。
政治と文化の中心であったこの町は、ロシアの革命運動の舞台でもあった。1825年デカブリストが元老院広場で武装蜂起(ほうき)を試み、1881年にはアレクサンドル2世がナロードニキのテロリストによって暗殺された。19世紀の末から20世紀の初めにかけて、産業が発達し労働者が急増したが、彼らの労働条件は劣悪でストライキが頻発した。1905年1月「血の日曜日」事件が起こり、冬宮前広場の雪が血に染まった。第一次世界大戦が起こると、1914年8月、ドイツ風の町の名がロシア風にペトログラードと改められた。1917年の十月革命においては、ボリシェビキが赤衛軍やペトログラード守備隊、バルト艦隊の兵士と協力して臨時政府を倒し、レーニンを首班とする新政権を樹立した。しかし反革命軍の攻勢が強まったところから、1918年3月に首都はモスクワに移された。1924年1月レーニンが没すると、その5日後の第2回全連邦ソビエト大会において、市の名をレニングラード(「レーニンの町」の意)と改めることが決議された。
第二次世界大戦が始まるや、1941年9月から1944年1月までの872日間、レニングラードはドイツ軍によって包囲され、63万人以上の餓死者が出た。しかし約20万人の市民が義勇軍に志願し、全市民が市の防衛にあたった。レニングラードは全ソ連の人々にとって勇気と自己犠牲のシンボルとなり、1942年12月ソ連最高会議幹部会は市に「レニングラード防衛メダル」を与えるとともに、英雄都市の称号を授与した。1944年1月に最終的に包囲網が解かれ、翌年防衛戦を勝ち抜いたレニングラードにはレーニン勲章が授けられた。第二次世界大戦後の1957年6月21日、開市250周年の祝典が挙行され、市は再度レーニン勲章を授与された。1991年のソ連崩壊後、ふたたび旧称のサンクト・ペテルブルグに改称された。
[外川継男]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 KNT近畿日本ツーリスト(株)世界遺産情報について 情報
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