サンクトペテルブルグ(英語表記)Sankt-Peterburg

デジタル大辞泉 「サンクトペテルブルグ」の意味・読み・例文・類語

サンクト‐ペテルブルグ(Sankt-Peterburg/Санкт-Петербург)

ロシア連邦北西部、フィンランド湾に臨み、ネバ川の河口に位置する同国第2の都市。1703年、ピョートル大帝がロシア帝国の首都として建設。1914年ペトログラードと改称。ロシア革命の中心地で、1918年に首都がモスクワに移され、1924年レニングラードと改称。1991年現名称に復した。造船・機械工業が盛ん。冬宮エルミタージュ美術館イサク聖堂カザン聖堂ペトロパブロフスク要塞などがあり、1990年、「サンクトペテルブルグ歴史地区と関連建造物群」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。人口、行政区457万(2008)。サンクトペテルブルク

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改訂新版 世界大百科事典 「サンクトペテルブルグ」の意味・わかりやすい解説

サンクト・ペテルブルグ
Sankt Peterburg

モスクワに次ぐロシア連邦第2の大都市。バルト海の東,フィンランド湾奥のネバ川河口のデルタ地帯に位置し,モスクワの北西約650kmにある。市の総面積606.8km2(郊外を含めると1400km2)のうち約10分の1の58km2が水面で,文字通りの〈水の都〉である。市の人口は467万(2002)。人口100万以上の世界の大都市のうち最北に位置している。北緯59°58′にあり,アラスカ南部と等しく,夏季は昼が長い。5月25~26日から7月16~17日まで〈白夜〉となり,夏至のころには日照時間が18時間53分にもなる。年平均気温は4.3℃。海洋性の気候で,風は強く,天候や気温が変わりやすく,一年のうち約200日間,雨か雪が降る。市内の大部分が標高1.2~3mの低湿地にあり,秋には南西から吹きつける強風による高潮のためしばしば洪水に見舞われる。サンクト・ペテルブルグ港は国内の内陸水路の北西の終点であり,またバルト海の海港としてはロシア連邦最大の国際貿易港である。

1924年1月26日,レーニンの名を冠してレニングラードと改名されるまで,この都市は数多くの名で呼ばれた。1703年,ピョートル大帝(1世)によってネバ川のザーヤチイ島(〈兎島〉の意)に建設された要塞の公式の名称〈サンクト・ピーテルブルッフ(オランダ語の〈ペテロの市〉にロシア語のサンクト(〈聖〉の意)を冠したもの)〉が,そのまま,この都市の名称となった(要塞はその内部の寺院の名をとって,その後ペトロパブロフスク要塞と名づけられた)。この町の愛称ピーテルはこのオランダ語名に由来する。1825年ドイツ語風にサンクト・ペテルブルグSankt-Peterburgと改名されるが,同時にギリシア語風のペトロポーリ,あるいはペトロポリス(〈石の町〉の意)と呼ばれることもあった。1914年,ドイツと戦った時〈ブルグ〉が敵国の言葉であるという理由で,スラブ語の〈グラード〉に代えられペトログラードPetrogradとなった。しかしペトログラードという名は,それ以前にも〈ピョートル大帝の都〉という意で,この町の通称であるペテルブルグと並んで用いられていた。1991年現名に改称した。

1981年現在,86の川と運河が流れ,42の島を312の橋が結んでいるレニングラードも,建設されてからしばらくの間は,ネバ川にかかる橋がひとつもなく,まさに〈水の中の都〉〈島の都〉であった。港であったから,船の通行第1という考え方であったし,冬季には一面に氷が張って,その上を自由に通行できた。やがて浮橋や舟橋が作られたが,現在ある永久橋(今日のシュミット中尉橋)が最初に作られたのは1850年のことである。市街は当初ネバ川右岸に,ペトロパブロフスク要塞を中心に,イタリア系スイス人トレジーニDomenico Trezini(イタリアではトレッツィーニTrezzini,1670ころ-1734)の都市計画にしたがって建設されたが,1712年首都がモスクワからこの地に移されてから,より下流のワシリエフスキー島Ostrov Vasil'evskiiに主としてフランスの建築家ルブロンAlexandre Jean-Baptiste Leblond(1679-1719)のプランにしたがって次々と大がかりな建築物が建てられた。〈12のコレギア(官庁舎)〉(現在のサンクト・ペテルブルグ大学の建物),クンストカメラ(美術品陳列館)などがその代表である。次いでネバ川の左岸に建設の中心が移ることになるが,すでに1704年,ワシリエフスキー島の対岸に,海軍省と造船所をいっしょにしたような建物が建てられた。今日,金色に輝く尖塔で有名な旧海軍省(アドミラルテイストボ)の起りである。左岸にはまたこの年に〈夏の庭園Letniisad〉が作られ,ついで7年後に冬宮Zimniidvoretsが建てられた。

 サンクト・ペテルブルグの主要な幹線道路であるネフスキー大通りネフスキー・プロスペクト)にも長い改名の歴史がある。1713年造船所(現在の旧海軍省)と重要な交通路であったノブゴロド街道を最短距離で結ぶ一直線の道路が作られた。この道は単にペルシュペクティーバあるいはペルスペクティーバ,プロスペクティーバ(フランス語のperspectiveのなまり。〈見晴し〉〈予想〉〈視野〉などの意)と呼ばれていたが,1738年,この通りの終点であるアレクサンドル・ネフスキー修道院にちなんでネフスカヤ・ペルスペクティーバと改名された。この45年後,ラテン語を基にして今日のネフスキー・プロスペクトという名称ができ上がった。旧海軍省からはさらに2本の幹線道路が放射状に延びゴロホバヤ(旧ジェルジンスキー)大通りは南東へ,ボズネセンスキー(旧マイヨーロフ)大通りは南へ,市街はこれらの大通りに対して整然と区画されている。君主の居所である冬宮は,その時々の君主の意志によって5回も作り直されたが,いずれも時代の様式を反映している。第4,第5(木造),第6の冬宮を手がけたB.F.ラストレリは,女帝アンナ・イワノブナのためにはドイツ風のバロックの建物を,フランス趣味の女帝エリザベータ・ペトロブナのためにはロココ様式を選んだ。

 18世紀中葉の建築はラストレリ風の豪華絢爛で壮大な様式美が際立っており,左岸のストロガノフ宮殿ボロンツォフ宮殿がその代表である。ラストレリが最後の6番目の冬宮に取り組んでいる時にクラシック好みの女帝エカチェリナ2世が登場し,ラストレリは追放され,ワシリエフスキー島の芸術アカデミーを建てたド・ラ・モットJean Baptiste Michel Vallin de La Mothe(1729-1800),大理石宮殿の作者リナルディAntonio Rinaldi(1710ころ-94)がバロックの色彩を残しながら古典主義へと向かい,次いでカルロ・ロッシCarlo di Giovanni Rossi(ロシアではKarl Ivanovich Rossi。1775-1849。現在のロシア博物館,エラーギン宮殿など),モンフェランAuguste Ricard de Montferrand(1786-1858。聖イサーク寺院など)らが今日見るサンクト・ペテルブルグの外観をローマ的な古典様式のトーンに統一する。ヨーロッパ最後の大建築家といわれたカルロ・ロッシは,ロシア貴族を父とし,イタリア出身のバレリーナを母として,ペテルブルグで生まれた人物であった。彼の死後,この町の華麗な発展は止まり,19世紀後半にはほとんど見るべき建築物は見られない。なお歴史に残る宮殿や庭園は,サンクト・ペテルブルグの近郊に数多く残されている。プーシキン(旧,ツァールスコエ・セロ),ロモノーソフLomonosov(旧,オラニエンバウム),パブロフスクPavlovsk,ガッチナGatchina(人口8万1000),ペトロドボレツPetrodvorets(〈ピョートルの宮殿〉の意。人口8万2200)がその主要な場所である。フィンランド湾を見下ろす地にあって,噴水で知られるペトロドボレツは当初ドイツ語でペーターホーフ(ピョートル宮殿)と呼ばれ,次いでロシア化されてペテルゴフPetergofと名づけられた。ベルサイユ宮殿に匹敵するものを作ろうというピョートル大帝の夢はルブロンからラストレリに至る建築家の手で女帝エリザベータ・ペトロブナの時代に40年の歳月をかけて実現された(図)。

サンクト・ペテルブルグはモスクワに次ぐ文化,教育の中心である。サンクト・ペテルブルグ大学(1819創立),芸術アカデミー(1757)をはじめ40をこえる研究教育機関,エカチェリナ2世が収集した美術品を展示することから始まったエルミタージュ美術館をはじめ46の博物館,1200万冊の蔵書を有するサルティコフ・シチェドリン図書館をはじめ2552の図書館がある。ロシア・バレエは,マリインスキー劇場を発祥の地とするが,この劇場はキーロフ・オペラ・バレエ劇場への改称をへて,91年旧称に戻った(レニングラード・バレエ団)。

サンクト・ペテルブルグは,海港としてだけではなく,陸空交通の要所でもある。国際空港があり,幹線鉄道が放射状に延びており,国内だけではなく,ヘルシンキやワルシャワとも直通列車によって結ばれている。市内はバス交通網が発達し,地下鉄も3系統運行されている。サンクト・ペテルブルグはモスクワに次ぐ工業都市で,その総生産額は旧ソ連全体の工業生産額の約6%を占めていた。大型船舶(原子力砕氷船〈レーニン号〉はこの地で建造された),タービン,トラクター,精密機器,兵器など機械製作部門が主で,化学,繊維部門がこれに次ぐ。特筆すべきは印刷・出版部門で,ロシア最大の規模。

ネバ川沿岸のこの地帯は,古くから北欧よりギリシアに至る通商路にあたっており,9世紀以降ノブゴロド公国の領土となったが,1617年スウェーデンに併合された。この後約100年間ロシアはバルト海への道を閉ざされ,ヨーロッパへ行こうとすればアルハンゲリスクから波の荒い白海,北極海を回らなければならなかった。バルト海を通して〈ヨーロッパへの窓〉をあけ,ロシアを西欧化し近代国家にするというピョートル大帝の悲願の前には,軍事的天才スウェーデン王カール12世が立ちはだかっていた。ピョートルは北方戦争(1700-21)によってこの地を奪回し,軍事拠点,海港の建設ということを念頭において,1703年ペトロパブロフスク要塞を建設した。これがサンクト・ペテルブルグの起源である。翌年造船所が建設され,次いでそのまわりに新しい都市の建設が開始された。建築家,技師,職人が全土から徴用され,国外からも招かれた。4万人の農奴,5000人の職人が動員された。密林と湿地から成る不健康な土地でのがむしゃらな建設工事は多数の犠牲者を出し,新しい町は人間の骨の上に建てられたという言い方がされるほどであった。1812年首都がモスクワからこの地に移されたが,これ以後も皇帝がモスクワで即位する慣例は変わらず,公的書類においても社会一般でもサンクト・ペテルブルグとモスクワは〈両首都〉と呼ばれていた。当初は強制移住させられた人々が主であったが,人口は1725年には10万,65年には15万,1800年には22万に達した。その3分の1以上が役人で,軍,あるいは行政に関与していた。

 サンクト・ペテルブルグは1825年,農奴制廃止と憲法の制定を目ざした自由主義的貴族士官のグループ,デカブリスト反乱の舞台となる。40年代には社会主義的なペトラシェフスキー・グループ(ペトラシェフスキー事件)の活動があり,ドストエフスキーがこの事件に連座し,政治犯の監獄となったペトロパブロフスク要塞に投獄される。19世紀に入って工業の著しい発展が見られるが,とりわけ61年の農奴解放によって大量の労働力が都市に流入してきたことと,鉄道網が整備されることによって資本主義は急速に発展し,人口も69年における67万から1900年には143万,1910年には190万と飛躍的に増大した。高度な技術を要する工業が発展し,熟練労働者が勢力を増してくるにつれて,労働者の組織化が進んだ。ナロードニキの秘密結社的運動から革命運動の主体は労働者階級に移行していった。1905年には冬宮前広場で血の日曜日事件が起こり,ロシア革命の狼煙(のろし)が上がった。第1次大戦下,軍事的挫折と戦時下の窮乏が引金となって二月革命が起き,皇帝は退位し,ペトログラード労働者と兵士から成るソビエト(評議会)とケレンスキー臨時政府の二つの政治勢力の共存状態が続いた。スイスにいたレーニンは4月16日ペトログラードにもどり,11月7日(ロシア暦10月25日)ペトログラード労働者の支援によって臨時政府を打倒した(ロシア革命)。革命の結果,フィンランドやバルト諸国が領土から失われ,ペトログラードが国境の不安定な町となったため,ソビエト政権はジノビエフの強い反対を押し切って1918年首都をモスクワに移した。

 国内戦時代(1918-20),市の人口は3分の1に減じた。学術,文化,芸術の面では,1930年ころまでソ連の中心であったが,スターリンが科学アカデミーの本拠からバレエに至るまでモスクワに移してから,あらゆる中心がモスクワに集まることとなった。レニングラードという名称になってからの最大の悲劇は,第2次大戦中の900日におよぶドイツ軍の包囲で,64万の餓死者を含め80万の犠牲者を出した。市の大半は破壊されたが,市民はこの市を守りぬいた(レニングラード攻防戦)。戦後レニングラードは〈英雄都市〉の名を与えられ,復興は国家的規模で進められ,歴史的建築物は綿密に復元された。第2次大戦後のレニングラードにかかわる悲劇としてはゾーシチェンコ,アフマートワなどのレニングラードの文学者の追放(1946)に始まる文化弾圧(ジダーノフ批判)と,レニングラードの党幹部らがあいまいな容疑で多数逮捕・処刑された1949年の〈レニングラード事件〉がある。文化面,政治面を問わず,いわゆる〈レニングラード派〉が親西欧的・コスモポリタニズム的偏向という目で見られがちで,この二つの事件もそのことを端的に示す不幸なでき事であった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サンクトペテルブルグ」の意味・わかりやすい解説

サンクトペテルブルグ
Sankt-Peterburg

ロシア北西部,レニングラード州の中心都市で,モスクワに次ぐロシア第2の都市。州政府ではなく,連邦政府の直轄に置かれている。1914~24年はペトログラード Petrograd,1924~91年はレニングラード Leningradと呼ばれた。バルト海フィンランド湾の湾奥に流入するネバ川河口の三角州に位置する。1703年ピョートル1世がネバ川右岸にペトロパブロフスク要塞を築いたのが始まりで,1712年ロシアの首都がモスクワからこの地に移されて以降発展した。19世紀には工業も発展し,ロシアの政治,軍事,工業,貿易の中心地となった。デカブリストの反乱や多くの工業労働者による革命運動の歴史をもつ都市で,1917年ここで始まった二月革命によりソビエト政権が誕生した(→ロシア革命)。1918年首都がモスクワに移され,一時衰退したが,第1次5ヵ年計画 (1928~32) の実施に伴って再び発展し始めた。第2次世界大戦中はドイツ=フィンランド軍に 29ヵ月にわたって包囲され,約 70万人の餓死者を出し,市街も大きな被害を受けたが守り通し,「英雄都市」の称号を受けた。戦後,復旧が進むとともに市域が拡大し,新しい大住宅団地も建設され発展を続けた。
ピョートル1世により西欧文化を取り入れるロシアの西の窓として計画的に建設された西欧風の市街は,放射状,同心円状の道路と高さのそろった建造物,川と運河にかかる多数の橋,赤色花崗岩でつくられた護岸設備などを備えるヨーロッパで最も美しい都市の一つで,冬宮 (現エルミタージュ美術館) ,ミハイロフスキー宮殿 (現ロシア博物館) ,聖イサーク聖堂,ペトロパブロフスク聖堂など多くの歴史的建造物とともに,1990年世界遺産の文化遺産に登録された。またサンクトペテルブルグ大学 (1819) ,美術アカデミー,科学アカデミー,図書館,劇場など伝統ある多くの研究・教育・文化施設をもつ学術・文化都市である。交響楽団,バレエ団も国際的に名高い。サンクトペテルブルグ工業地帯の中心で,造船,重電機,製紙,繊維,印刷などの工業が主要部門をなし,ロシアの新技術開発の中心にもなっている。交通の要地で,鉄道,ハイウェーが放射状に延びるとともに,国際空港,海港および河港をもち,外国と国内各地を結んでいる。市内交通は地下鉄,バス,トロリーバス,市電が中心。面積 1400km2。人口 484万8742(2010)。

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世界遺産情報 「サンクトペテルブルグ」の解説

サンクトペテルブルグ

「北のベニス」ともいわれる美しい運河の都市サンクトペテルブルグは、1991年まではレニングラードと呼ばれていました。帝政ロシア時代の首都でもあり、歴史的見所も多くあります。 市内の約10分の1が水面という水の都で、運河が縦横に町中を走ります。パリのルーブル美術館に匹敵する芸術コレクションが有名なエルミタージュ美術館をはじめ、冬宮殿、エカテリーナ宮殿、アレクサンドル・ネフスキー修道院等がある歴史地区は、1990年に世界遺産に登録されています。

出典 KNT近畿日本ツーリスト(株)世界遺産情報について 情報

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