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シベリア出兵 シベリアしゅっぺい

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

シベリア出兵
シベリアしゅっぺい

対ソ連への武力干渉の一つ。極東においてロシア革命に武力干渉する目的で,フランスイギリス,日本,アメリカシベリアに共同出兵したことをさす。 1917年ロシアで十月革命が勃発すると,フランス,イギリスによって日米両国に共同干渉が要請された。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

シベリア出兵

1918~22(大正7~11)年、ロシア革命への干渉を目的に、日・英・米・仏などがチェコ軍救出の名目でシベリアに出兵した。日本は兵力7万3千人と数億円(当時)の戦費を投入し、他国が20年に撤退後も単独駐留した。日本軍の死者は3千人以上と言われている。

(2009-07-10 朝日新聞 夕刊 2社会)

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デジタル大辞泉の解説

シベリア‐しゅっぺい【シベリア出兵】

1918年ロシア革命に干渉するため、日・米両国を中心に英国・フランスの各国がチェコスロバキア軍捕虜救援の名目でシベリアに軍隊を送った事件。米・英・仏が撤兵したのちも日本は駐留を続けたが、国内外の非難により1922年に撤兵。

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百科事典マイペディアの解説

シベリア出兵【シベリアしゅっぺい】

日・米・英・仏によるロシア革命への干渉戦争。各国7000名の協定に対し日本は1918年7万3000名を派兵した。干渉はパルチザンの抵抗で失敗し,各国は1920年6月までに撤兵した。
→関連項目黒島伝治軍票後藤新平米騒動シベリア対ソ干渉戦争田中義一寺内正毅内閣特務機関反戦運動北進論

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世界大百科事典 第2版の解説

シベリアしゅっぺい【シベリア出兵】

1917年のロシア革命で成立したソビエト政権を打倒するための干渉戦争。最初シベリアへの共同軍事干渉計画をたてたのはフランス,イギリスで,日米両国軍によるシベリア鉄道の共同占領の必要や,ウラジオストクにある60万tの軍需品をドイツの手に渡さないために,日本軍を主力とする連合軍の兵力派遣を提議した。この提案をうけた日本側でも出兵論議が高まったが,日本政府の態度は連合国の出方を見守るという方針であった。革命直後から寺内正毅内閣は,ロシア革命の圧殺,東部シベリアへの日本の勢力拡大,中国本土への圧力強化を企図しており,とくに陸軍参謀本部では〈居留民の保護〉を名目に,沿海州から北満(中国東北)方面への日本軍派遣を計画していた。

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大辞林 第三版の解説

シベリアしゅっぺい【シベリア出兵】

1918年(大正7)ロシア革命干渉のため、日・米・英・仏・伊がチェコスロバキア軍救援を名目としてシベリアに出兵した事件。20年の連合国軍撤兵後も日本軍は駐留し、尼港にこう事件が起きた。内外の非難の中で22年撤兵。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

シベリア出兵
しべりあしゅっぺい

大正期のロシア革命に対する干渉戦争。1917年(大正6)11月、ロシア十月革命が起こると、同年12月連合国最高軍事会議に革命政権への干渉計画が出され、翌年1月英仏は日米両国にシベリア出兵を要請してきた。[由井正臣]

日本の対応

英仏の提案に対して日米は積極的反応を示さなかったが、この時期外務省では本野(もとの)一郎外相をはじめ若手官吏、在外公館にシベリア出兵の意見が強く、参謀本部でも上原勇作(うえはらゆうさく)総長、田中義一(ぎいち)次長を中心にシベリア出兵の計画が練られていた。彼らの意図は、連合国の制約を受けることなく北満、シベリア地域を日本の支配圏に収めようとする自主出兵論であった。ところがアメリカは日本に警戒的で、日本主導によるシベリアと中東(中国東北)鉄道の支配にあくまで反対であったため、日米対立を恐れた日本支配層の一部は自主出兵論に反対し、臨時外交調査委員会では原敬(はらたかし)や牧野伸顕(まきののぶあき)がアメリカとの協調出兵論を主張して、自主出兵論は実現できなかった。しかし、現実には1918年1月に居留民保護を名目にウラジオストクに巡洋艦2隻を派遣、4月には居留民殺傷事件を名目に海軍陸戦隊を上陸させて、当地の革命勢力に軍事的圧力をかけた。[由井正臣]
出兵
1918年5月、シベリア鉄道経由で本国へ送還中のチェコスロバキア軍捕虜の反乱事件が起こると、7月にアメリカもチェコ軍救出を名目に日本に共同出兵を提案してきた。日本政府はただちにこれに応じ、8月2日出兵宣言を発した。連合国の協定では、日本軍1万2000、アメリカ軍7000、英仏連合軍5800であったが、出兵が始まると日本は協定を無視して、独断で7万2000の大軍を派遣し、バイカル湖以東の各地でソビエト革命に干渉した。国内世論は『大阪朝日新聞』『東洋経済新報』をはじめ多くの新聞、雑誌が終始シベリア出兵に反対した。また対外戦争にはつねに熱狂した国民も今回の出兵にはきわめて冷ややかな態度をとった。こうした国内世論を無視して日本軍はホルバート、セミョーノフらの反革命軍を援助し、東部シベリアを日本の勢力範囲にしようと企て、また西部シベリアのオムスクに成立したコルチャーク政権を支持して、それが全露政権に発展することに期待をかけた。19年の1月ごろから、シベリア各地のパルチザン活動は活発になり、同年末にはコルチャーク将軍のオムスク政権は崩壊し、干渉軍の戦意も低下した。他方ソビエト政府は20年初めまでに国内各地の反革命軍の鎮圧に成功し、連合諸国も干渉戦争がむだであることを悟り、派遣軍の引揚げを開始した。アメリカもチェコ軍の引揚げ完了を理由に、20年1月9日撤兵を声明、英仏軍は同年6月までに完全に退去した。この間日本においては、米騒動の衝撃で寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣が総辞職したあと成立した原敬内閣のもとで、19年10月約1万4000の派遣軍削減を内容とする第一次減兵案を決め、ついで12月には派遣軍総数を約2万6000とする第二次減兵案が決定された。しかし、各国の撤兵にもかかわらず、日本は東部シベリアの支配に執着し、朝鮮・満州(中国東北)への革命波及の防止とシベリア居留民の保護を名目に出兵継続を宣言し、沿海州のソビエト軍を武装解除して各都市を占領した。この間20年2月から5月の尼港(にこう)事件で日本軍は手痛い打撃を受けた。この事件が起こると日本はボリシェビキやパルチザンの残虐性を宣伝して国内の反ソ世論をあおり、出兵を継続するために利用した。また参謀本部は政府に圧力をかけてアムール州からの撤兵を中止させた。そのうえ、この事件が解決するまで北樺太(からふと)を保障占領すると声明した。[由井正臣]

撤兵

1921年の第44議会で憲政会の加藤高明(たかあき)総裁は、尼港事件に対する政府の責任を追及するとともに、理由のない駐兵はやめてシベリアから撤退すべきであると主張した。また労働者も対露非干渉運動を展開するに至った。同年11月開催のワシントン会議でも列国の圧力があり、日本は22年6月ようやくシベリア撤兵の意志を表明、同年10月シベリア本土からの撤兵を完了した。この間、極東共和国との間で、シベリア撤兵問題を取り上げた大連(だいれん)会議が21年8月から翌年4月まで、また北樺太撤兵問題を中心議題とする長春(ちょうしゅん)会議が22年9月に開かれたがいずれも決裂した。23年以後の日ソ国交回復のための交渉においてようやく北樺太撤兵問題も解決をみたが、北樺太からの撤兵が完了したのは25年5月であった。この間、足掛け8年、日本は戦費約10億円を費やし、死者は3000人を超えるという犠牲を払いながら、なんら得るところがなかったばかりか、ソビエト人民の敵意と列国の不信を買った日本帝国主義の完全な敗北であった。[由井正臣]
『参謀本部編『大正七年乃至十一年西伯利出兵史』全3巻(1938/復刻版・全6巻・1972・新時代社) ▽井上清著『日本の軍国主義』(1953・東京大学出版会) ▽細谷千博著『シベリア出兵の史的研究』(1955・有斐閣) ▽細谷千博著『ロシア革命と日本』(1972・原書房) ▽高橋治著『派兵』第1~4部(1973~77・朝日新聞社)』

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世界大百科事典内のシベリア出兵の言及

【米騒動】より

… 以上2回の米騒動は凶作による不況と米価騰貴を原因とし,江戸時代の騒動の系譜をひく。
【1918年の米騒動】

[原因]
 1918年の大米騒動を引き起こした米価騰貴は凶作を原因とせず,直接的にはシベリア出兵を見越した地主と米商人の投機によるものである。また,その根底には第1次大戦中の資本主義の発展による非農業人口の増大に米の増産がともなわず,地主保護政策をとる寺内正毅内閣が外米輸入税の撤廃などの適切な処置をとらなかったという事情がある。…

【ロシア革命】より

…時を合わせたかのように,英仏軍1万5000が北のアルハンゲリスクに上陸し,反ソ政権を擁立した。そして8月2日と3日には日本とアメリカがチェコ軍団救出の名目でシベリア出兵を宣言した。日本は10月末までに7万5000の兵力をシベリアと北満(現在の中国東北の北部)に展開させた。…

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