ジギスムント(英語表記)Sigismund; Zsigmond

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ジギスムント
Sigismund; Zsigmond

[生]1368.2.15. ニュルンベルク
[没]1437.12.9. ズノイモ
ハンガリー王 (在位 1387~1437) ,神聖ローマ皇帝 (在位 1433~37) ,ボヘミア王 (在位 1419~37) 。ハンガリー名ジグモンド。ルクセンブルク家の出身。ハンガリーで成人し,即位後国内諸侯の抗争をしずめるよう努力し,首都ブダの発展にも尽力した。しかし,神聖ローマ皇帝即位後はハンガリー統治に熱意を示さず,神聖ローマ帝国の問題,特に宗教問題に関心を集中した。 1414年コンスタンツ公会議を招集し,教会の「大分裂」は免れたものの,1415年異端問題に関連してヤン・フスを死刑に処したため,フス派の反乱を引き起こし,1420年鎮圧に向かったジギスムントの軍はボヘミアで大敗を喫した (→フス戦争 ) 。晩年に教会改革の動きに刺激されて帝国改革の動きが起こり,筆者不詳の「ジギスムントの改革案」が流布した。

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百科事典マイペディアの解説

ジギスムント

ルクセンブルク朝神聖ローマ皇帝(在位1410年―1437年)。カール4世(ボヘミア王カレル1世)の子。ハンガリー王(在位1387年―1437年),ボヘミア王(在位1419年―1437年)を兼ねる。1396年トルコとニコポリスで戦って大敗した。1414年コンスタンツ公会議を召集させ,翌1415年フスを火刑に処し,また教会分裂(シスマ)を終わらせたが,その後長くフス教徒の反乱に悩んだ。
→関連項目フス派戦争

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世界大百科事典 第2版の解説

ジギスムント【Sigismund】

1368‐1437
ハンガリー王(ジグモンドZsigmond),在位1387‐1437年。ボヘミア王(ジクムントZikmunt),在位1419‐37年。この間神聖ローマ皇帝(ジギスムント),在位1410‐37年。ボヘミア王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の子。ハンガリー王ラヨシュ1世の娘の女王マリアと結婚してハンガリー王となり,大貴族に依存した政治を行うが,1396年オスマン・トルコ軍とのニコポリスの戦に大敗。神聖ローマ皇帝になってからは西欧への関心を高める。

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大辞林 第三版の解説

ジギスムント【Sigismund】

1368~1437) 神聖ローマ皇帝(在位1411~1437)。コンスタンツ公会議を開き、教会大分裂を解決したが、フスを処刑しフス戦争を引き起こした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ジギスムント
じぎすむんと
Sigismund
(1368―1437)

神聖ローマ皇帝(在位1411~37)。ルクセンブルク家出身。カール4世の次男。1376年ブランデンブルク辺境伯、87年ハンガリー王。1419年ボヘミア(ベーメン)王。1410年ドイツ国王ルプレヒトの死後、二重選挙が行われ、ジギスムントとヨーブストとが国王に選ばれたが、翌年後者の死により単独支配を実現した。コンスタンツに公会議(1414~18)を招集してシスマ(教会分裂)を収束させた。会議ではフスの処刑を決定したが、ベーメンのフス派の反抗を招き、その鎮圧のための十字軍を送ったが、さしたる成果なく、かえって同派のドイツ侵入という事態に至った。その後フス派の内紛を利用してようやく鎮圧に成功した。内政においては都市や騎士層と結んで帝国改革を企図したが、失敗に終わった。[平城照介]

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367日誕生日大事典の解説

ジギスムント

生年月日:1368年2月12日
ハンガリー王(在位1387〜1437),神聖ローマ皇帝(在位1411〜37),ボヘミア王(在位19〜37)
1437年没

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精選版 日本国語大辞典の解説

ジギスムント

(Sigismund)
[一] 神聖ローマ皇帝(在位一四一〇‐三七)。カール四世の子。コンスタンツ宗教会議(一四一四‐一八)を召集して教会大分裂を終わらせた。また、天才的外交家と称される。(一三六八‐一四三七
[二] 一世。ポーランド王(在位一五〇六‐四八)。カジミエシュ四世の子。永くロシアと戦い、また、宗教改革の普及に寛容であり、学芸の隆盛に力を注いだ。(一四六七‐一五四八

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世界大百科事典内のジギスムントの言及

【コンスタンツ公会議】より

…それを終わらせようと1409年に招集されたピサ教会会議は,ローマのグレゴリウス12世とアビニョンのベネディクトゥス13世とをともに罷免し,新たにアレクサンデル5世を教皇に選んだが,2人の前教皇が罷免を承認しなかったので,かえって3人の教皇が鼎立する結果となった。この異常な事態を解決するために神聖ローマ皇帝ジギスムントの強い要請に基づき,アレクサンデル5世の後任教皇ヨハネス23世が14年11月5日に招集したのがコンスタンツ公会議で,18年4月22日まで続いた。他の2人の教皇は欠席した。…

【フィレンツェ公会議】より

…しかし,14世紀末オスマン・トルコの圧力が強まるにつれて,ビザンティン帝国は西方から軍事援助を得る前提として,教会統一問題の解決に迫られた。マヌエル2世が1399‐1403年,軍事援助を求めてイタリア諸都市(ただしローマ入りせず),パリ,ロンドンを歴訪したが失敗に終わった後,1414年コンスタンツ公会議が開かれるや,神聖ローマ帝国の皇帝ジギスムントの招きに応じてクリュソロラスを派遣した。17年,同会議で教皇に選ばれたマルティヌス5世のもとで,両教会の接触が本格化し,統一のための新たな公会議について折衝が続いた。…

【フス派戦争】より

…国王バーツラフ4世はこの事件に衝撃を受け,卒中で死亡。ハプスブルク家の皇帝ジギスムントが跡を継ぐが,フスの焚刑を彼の責任とするフス派は,彼の即位を認めなかった。そのためジギスムントは教皇マルティヌス5世の勅書を受けて,フス派討伐の十字軍をボヘミアに差し向けたが,軍事指導者ジシュカに率いられたフス派軍はプラハ郊外のビトコフVitkovの丘で十字軍を粉砕した(1420年7月)。…

※「ジギスムント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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