コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ジギスムント ジギスムント Sigismund; Zsigmond

6件 の用語解説(ジギスムントの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ジギスムント
ジギスムント
Sigismund; Zsigmond

[生]1368.2.15. ニュルンベルク
[没]1437.12.9. ズノイモ
ハンガリー王 (在位 1387~1437) ,神聖ローマ皇帝 (在位 1433~37) ,ボヘミア王 (在位 1419~37) 。ハンガリー名ジグモンドルクセンブルク家の出身。ハンガリーで成人し,即位後国内諸侯の抗争をしずめるよう努力し,首都ブダの発展にも尽力した。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ジギスムント(Sigismund)

[1368~1437]神聖ローマ皇帝。在位1411~1437。カール4世の子。コンスタンツ公会議を召集して教会の分裂を調停したが、フス処刑によってフス戦争を引き起こした。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

ジギスムント

ルクセンブルク朝神聖ローマ皇帝(在位1410年―1437年)。カール4世(ボヘミア王カレル1世)の子。ハンガリー王(在位1387年―1437年),ボヘミア王(在位1419年―1437年)を兼ねる。
→関連項目フス派戦争

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

世界大百科事典 第2版の解説

ジギスムント【Sigismund】

1368‐1437
ハンガリー王(ジグモンドZsigmond),在位1387‐1437年。ボヘミア王(ジクムントZikmunt),在位1419‐37年。この間神聖ローマ皇帝(ジギスムント),在位1410‐37年。ボヘミア王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の子。ハンガリー王ラヨシュ1世の娘の女王マリアと結婚してハンガリー王となり,大貴族に依存した政治を行うが,1396年オスマントルコ軍とのニコポリスの戦に大敗。神聖ローマ皇帝になってからは西欧への関心を高める。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ジギスムント【Sigismund】

1368~1437) 神聖ローマ皇帝(在位1411~1437)。コンスタンツ公会議を開き、教会大分裂を解決したが、フスを処刑しフス戦争を引き起こした。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ジギスムント
じぎすむんと
Sigismund
(1368―1437)

神聖ローマ皇帝(在位1411~37)。ルクセンブルク家出身。カール4世の次男。1376年ブランデンブルク辺境伯、87年ハンガリー王。1419年ボヘミア(ベーメン)王。1410年ドイツ国王ルプレヒトの死後、二重選挙が行われ、ジギスムントとヨーブストとが国王に選ばれたが、翌年後者の死により単独支配を実現した。コンスタンツに公会議(1414~18)を招集してシスマ教会分裂)を収束させた。会議ではフスの処刑を決定したが、ベーメンのフス派の反抗を招き、その鎮圧のための十字軍を送ったが、さしたる成果なく、かえって同派のドイツ侵入という事態に至った。その後フス派の内紛を利用してようやく鎮圧に成功した。内政においては都市や騎士層と結んで帝国改革を企図したが、失敗に終わった。[平城照介]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内のジギスムントの言及

【コンスタンツ公会議】より

…それを終わらせようと1409年に招集されたピサ教会会議は,ローマのグレゴリウス12世とアビニョンのベネディクトゥス13世とをともに罷免し,新たにアレクサンデル5世を教皇に選んだが,2人の前教皇が罷免を承認しなかったので,かえって3人の教皇が鼎立する結果となった。この異常な事態を解決するために神聖ローマ皇帝ジギスムントの強い要請に基づき,アレクサンデル5世の後任教皇ヨハネス23世が14年11月5日に招集したのがコンスタンツ公会議で,18年4月22日まで続いた。他の2人の教皇は欠席した。…

【フィレンツェ公会議】より

…しかし,14世紀末オスマン・トルコの圧力が強まるにつれて,ビザンティン帝国は西方から軍事援助を得る前提として,教会統一問題の解決に迫られた。マヌエル2世が1399‐1403年,軍事援助を求めてイタリア諸都市(ただしローマ入りせず),パリ,ロンドンを歴訪したが失敗に終わった後,1414年コンスタンツ公会議が開かれるや,神聖ローマ帝国の皇帝ジギスムントの招きに応じてクリュソロラスを派遣した。17年,同会議で教皇に選ばれたマルティヌス5世のもとで,両教会の接触が本格化し,統一のための新たな公会議について折衝が続いた。…

【フス派戦争】より

…国王バーツラフ4世はこの事件に衝撃を受け,卒中で死亡。ハプスブルク家の皇帝ジギスムントが跡を継ぐが,フスの焚刑を彼の責任とするフス派は,彼の即位を認めなかった。そのためジギスムントは教皇マルティヌス5世の勅書を受けて,フス派討伐の十字軍をボヘミアに差し向けたが,軍事指導者ジシュカに率いられたフス派軍はプラハ郊外のビトコフVitkovの丘で十字軍を粉砕した(1420年7月)。…

※「ジギスムント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

ジギスムントの関連キーワードジグモンドオーストリアハンガリー帝国ハンガリー狂詩曲シャラモン塔タタ城ハンガリー幻想曲ハンガリー国立交響楽団ハンガリー舞曲集ハンガリー岩ハンガリアン・グレーハウンド

今日のキーワード

平野美宇

卓球選手。2000年4月14日、静岡県生まれ、山梨県育ち。3歳で卓球を開始。07年に小学1年生で全日本選手権大会バンビの部優勝、09年に小学2年生で同大会ジュニアの部初出場を果たし、注目を集めた。13...

続きを読む

コトバンク for iPhone