ロシアの詩人。トルコの捕虜として連れて来られた女性と地主貴族との間に生まれた。モスクワ大学の貴族寄宿学校ですぐれた教育を受け,多くの友人を得,またフリーメーソンの神秘思想の影響を受けた。1802年T.グレーの《墓畔の哀歌》の翻訳で文名をあげ,カラムジン派のセンチメンタリズム(主情主義)の詩人として世に出た。15年以降,詩的革新を目指すアルザマス会の一員として,ロマン主義の中心的詩人となった。のち,皇帝ニコライ1世,その皇太子(のちのアレクサンドル2世)の傅育官(ふいくかん)となり,皇帝の心をやわらげ,作家たち(プーシキン,ゴーゴリ,シェフチェンコなど)を過酷な運命から救った。ロマンティックな異国趣味や夢,幻想,伝説の世界を〈喜ばしい甘美さ〉(プーシキン)で歌い上げたジュコーフスキーの詩は,プーシキンをはじめとする当時の詩人たちに大きな影響を与えた。40年以降主としてドイツに住み,58歳でドイツ人の画家の娘と結婚,ティークやゲーテとも親交を結んだ。彼の主要作品はほとんど翻訳であるが,ビュルガーの《レオノーレ序曲》の翻案(1808-12)やバイロンの《シオンの囚人》(1821-22)のように,原作にまさる価値ありとみなされるものが多い。
執筆者:川端 香男里
ロシア~ソ連の物理学者。モスクワ大学で物理学と数学を学び,1868年卒業。モスクワ工業大学で数学や力学を教えるかたわら,流体の運動学を研究し,解析的方法と同様に幾何学的方法を広範囲に使用して,流れの中の粒子の運動法則を確立した。82年には,運動の安定性の研究でモスクワ大学から博士号を得た。また均質な流体をその内部に含む固体の運動についての理論研究は,惑星の回転の法則に関する天文学の諸問題や,流体のコアをもつような投射物の弾道学の諸問題を解く手段を与える重要なものであった。1880年代末からは,空気より重い物体の飛行に関心を向け,揚力の理論的解明に深くかかわることになった。自分自身で行った実験と理論研究に基づいて,1911年にモスクワ工業大学で航空学の理論的基礎に関する講義をしたが,それは世界最初の飛行理論の体系的講義といわれた。彼は革命後もソ連における流体力学,気体力学,飛行力学などの指導的立場にあり,中央航空力学研究所の創立などに尽力した。
執筆者:日野川 静枝
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