百科事典マイペディア 「ジュンガル」の意味・わかりやすい解説
ジュンガル
→関連項目ウルムチ|カルムイク|キルギス|ジュンガリア
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17世紀の初め、西北モンゴル高原で勃興(ぼっこう)し、18世紀中期まで続いたモンゴル系の民族オイラートの部族集団とその国家。清(しん)朝の史書では準噶爾と表記され、回部(かいぶ)と対比して準部(じゅんぶ)ともよばれた。15世紀に活躍した瓦剌(ワラ)(オイラート)のエセン・ハンの後裔(こうえい)で、チョロス部長のカラクラがオイラートのチョロス、バガトゥト、ホイト、トルグートの4集団を統一して君主となったのが起源である。これらの集団が全オイラートの左翼(ジューン・ガル)をなしていたから、彼らはジュンガルとよばれたというのが通説である。チョロス王家は第2代のバートル・ホンタイジを経て第3代のガルダン(噶爾丹)の時代に強力な遊牧騎馬民族国家を建てた。東方のハルハ・モンゴルを圧迫し、清朝と戦い、東トルキスタンを属領として、当時の内陸アジアに勢威を振るったが、1755年、清朝の攻撃によって本拠のイリを失い、内紛とともに58年に再攻撃を受けて、まったく滅んだ。
[佐口 透]
『佐口透著『ロシアとアジア草原』(1966・吉川弘文館)』
モンゴル系遊牧民オイラトの一部族,あるいはそれが盟主となった国の名。チョロス氏族を首長とし,現在の中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区北部を住地とした。17世紀初めにハラフラが出て,ハルハのジャサクト・ハンの支配を脱したのち,バートル・ホンタイジ,センゲ,ガルダンをへて,しだいにオイラト諸部の覇権を握り,国家的統合を実現してジュンガルと称した。ツェワンアラブタン,ガルダンツェリンのときに最盛期に達し,ロシアと交渉を持つ一方でチベットやハルハをめぐり清朝と争った。ガルダンツェリン没後の内紛によって衰え,1755~57年に清軍の2度にわたる征討を受けて人口の多くを失い,滅亡した。遺民はモンゴル各地に移住させられた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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