フランスの政治家。オーブ県の富農の子に生まれ、弁護士となる。フランス革命勃発(ぼっぱつ)とともに活躍、革命の前半はパリ・コミューン(自治市会)内の反王権・民主派の運動を推進。のち山岳派の右派となった。1790年にコルドリエ・クラブを創設し、バレンヌ逃亡事件(1791)などで保守的なパリ市当局と対立。国王退位の要求がシャン・ド・マルスの虐殺事件で鎮圧されると、一時イギリスに逃れたが、帰国後の1791年11月パリ市第二助役に選出された。1792年7月末、王権の停止を求める請願に加担し、共和革命を準備したといわれる。同年9月の共和制の樹立後、ジロンド派のコンドルセが臨時行政会議の法相にダントンを推し、一時、国防連合が成立。パリ県から国民公会に選ばれたが、同月の反革命容疑者の虐殺事件を法相として黙認したことと涜職(とくしょく)を理由に、ローランなどの攻撃を受け、ジロンド派と決裂した。1793年4月公安委員会に入ったが、かならずしも成功したとはいえず、7月にはロベスピエールと交代した。革命の成果を早く功労市民に享受させることを願い、1794年初めには恐怖政治の収拾を説いてエベール派と激論。東インド会社の清算で詐欺事件に連座したファーブル・デグランチーヌをかばったりしたため、ロベスピエール派によって同年3月31日逮捕され、デムーランなど13名とともに「寛容派」として4月5日に処刑された。豪放な性格で弁舌にたけ、断頭台に昇ったときも「俺(おれ)の頭を群衆に見せろ、それだけの値うちはある」と言い放ったと伝えられる。彼の立場はブルジョア的な共和派連合を目ざすもので包容力はあったが、私生活上のモラルや金銭にかけて自堕落な面があり、それが致命的となった。
[岡本 明]
『桑原武夫編『フランス革命の指導者 下』(1956・創元社)』
フランス革命期の政治家で山岳派の指導者の一人。シャンパーニュの小都市で裁判所の役人の子として生まれ,トロアの修道会付属学校で学び,1780年にパリに出て,法律事務所の書記として働きながら法律を学び,87年,国王顧問会議付弁護士の官職を7万8000リーブルで購入した。革命が始まると,ダントンは,その居住するコルドリエ地区の議長に選ばれ,90年にコルドリエ・クラブを創設し,その雄弁によってしだいにパリ民衆の人気を集め,翌年末パリ・コミューン(自治体)の第二助役に選任された。92年8月10日に民衆の蜂起によって王政が倒れると,その直後に彼は法務大臣に就任し,敵軍の侵入によってパリが危険にさらされた同年9月,動揺する政府と議会を激励して,祖国を救うためには〈大胆なれ,さらに大胆なれ,常に大胆なれ〉と説き,救国の英雄と見なされるにいたった。同年秋,国民公会議員に当選したダントンは,ロベスピエールやマラとともに山岳派の指導者として活躍したが,93年秋から山岳派内部の分派抗争が激化すると,彼は恐怖政治の強化に反対する右派(寛容派)の代表になり,最左翼のエベール派および中間のロベスピエール派と対立するにいたり,翌年春,エベール派が倒れたのち,ロベスピエール派によって弾劾され,断頭台で処刑された。ダントンは,その卓抜な実行力と人間的な魅力のゆえに,今なおフランス革命の指導者のなかで最も高い人気を保っているが,金銭にけじめがなく,政治家としての品性には疑問の余地が多い。
執筆者:遅塚 忠躬
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1759~94
フランス革命の指導者。革命前は弁護士。革命開始とともにパリのコルドリエ地区で活躍,1790年にコルドリエ・クラブを設立した。パリ県・市の要職,司法大臣をへたのち国民公会に選出された。93年4月新設の公安委員会に加わるが7月解任され,ロベスピエール派の革命政府独裁が強化されるに至ってその阻止を試み,ついに94年3月末逮捕され,4月5日処刑。いわゆる現実主義的な妥協の政治家であった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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