チベット族(読み)チベットぞく

精選版 日本国語大辞典 「チベット族」の意味・読み・例文・類語

チベット‐ぞく【チベット族】

〘名〙 チベットに住む土着の民族チベット語を話し、主に農耕・遊牧生活を送る。

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改訂新版 世界大百科事典 「チベット族」の意味・わかりやすい解説

チベット族 (チベットぞく)

7世紀ころから一つの国家を形成して独自の文化を育てあげた民族。今日では,西はラダック,東は中国甘粛省南西部,四川省西部,北は崑崙山脈,南はヒマラヤ山脈の南麓ネパールシッキムブータンにまで広がって居住する。中華人民共和国の国勢調査(1990)では,中国国内のチベット族(中国では蔵族と呼ぶ)約460万人のうち,220万人がチベット自治区に住み,残りは青海,四川,甘粛,雲南などの各省のチベット族自治州・自治県に分布している。広義のチベット人には,唐代以降(7世紀以降)に同化したと考えられる四川境界地区の白馬,参狼(白蘭)種,青海方面に拠った吐谷渾(とよくこん),雲南北部のイ(ロロ)族やモソ(釐牛種)族も含まれる。四川の金川はギエルモロン(女王谷)と呼ばれ,古くラダック東部に拠った〈東女国〉由来の民が住み,母権が姑から嫁に伝えらる。彼等は,東遷後に古代チベット王家やその一族と通婚して有力となった。チベット王朝の外戚による支配機構〈尚論制〉は彼等の影響下に成立したものらしい。

王朝を形成したピヤ(不夜)部族は,カイラーサ北部に拠ったトン部族に属し,4世紀ころ以後に東遷してカム地方を支配した後,西に移り,6世紀後半にチベット中央を掌握した。漢文史料で知られる〈羌(きよう)〉とは必ずしも一致しない。7世紀早々に文字をもち,軍事国家体制を整え,吐谷渾に代わって東西通商路の支配に乗り出し,唐と160年にわたって戦い,軍事的優位を確保した後,仏教を国教として寺を建て,訳経に努め,9世紀に入ると国政の頂点に僧を据え,822年唐と和平を約した後,再び武器をもって外国を侵すことがなくなった。その後20年で王朝は崩壊して国家仏教はなくなった。11世紀に仏教教団が各地に再興すると,教団が経済的拠点としての意義をもち,有力な氏族は教団を私有して各地に割拠した。元朝支配以後,その後宮に仏教を広め,寺院に税法上の特権を認めさせたため,教団の社会的地位が向上した。明も教団中心の社会を優遇したが,そのころから転生活仏による教団の相続が流行し,氏族は,寺院や教団に奉仕するものとなった。やがて宗派的対立と東西地区の利害が結びついてモンゴル人を巻き込んだ戦争に発展し,1642年にゲルー派のダライ・ラマ政権が成立した。この統一権力は仏教を通じてモンゴル人の統治も志したが,清朝と対立してつまずき,その後見のもとで再発足した。その後,活仏制を巧みに利用した権力争いが続き,新しい貴族が現れ,わずかな資産を寺院とともに独占して,貧富の差を絶大なものとして,1951年の中国共産党の支配を迎えた。

中央チベットではツアンボ(蔵布)川の流域とその南側に農業が行われ,北方や青海では遊牧も行われるが,総じて半農半牧が少なくない。不動産は長男が相続し,次男は寺院に,他は家にとどまり,嫂と婚を共にする風があった。この習慣は中世の有力氏族の間でも確認され,必ずしも資産分割を避けるためとのみはいえない。他方,一夫多妻の習慣もあり,父の妾を子がめとり,嫂と弟が再婚することも行われたが,父系同族の通婚はない。葬礼は,ダライ・ラマやパンチェン・ラマの場合,ミイラ化してまつられるが,高位の僧は火葬,一般の人々,下位の僧は鳥葬(チャトル)される。水葬は罪人に,土葬は疫病死者に限られた。鳥葬は死者に捨身供養により善業を積ませる意義づけもあった。医術は,インド,イラン,中国系医学に,チベット独自の知識も加えられ,医学(ソリク)として体系づけられたが,名医の治療よりも呪術的祈禱が好まれ,18世紀半ば以後では薬草学的知識が政権争奪の具に供されたため,近代では医学知識の普及そのものがきびしく制限された。

 占いや降神術は盛んで,国政の大事を決めるのにネーチュンやサムイェーの護法神の神託が重んじられ,答を書いた紙片を複数のツァンパ団子にこめ,護法神の前で碗の中に回転させ,飛び出したものを答えとするタクディルもよく行われた。暦は各流とも時輪タントラに由来し,1027年を第1回の火のと(丁)卯として60年で一巡させ,32.5ヵ月に1度閏月を置いた。夜明けの月齢によってその日の名とする月齢日(ツェシャク)が行われ,同一日が重なったり,ある1日が欠けたりする特徴があった。1日は60水時(チュツォー)に分けられ,1水時が60水分(チュサン),1水分が6息秒(ウク)に分けられた。

 1年の祭日では1月4日から24日にかけてラサに行われるムンラム大祭が最も有名で,2万余の僧がラサの民家に分宿して大招寺で法を聴き,25日には盛大に余興が行われる。2月21日から30日にかけてやや小規模の同様の催し,ツォンチューがある。教団の民衆教化の一助チャムと称する無言の仮面舞踏劇が行われる。4月15日の涅槃会(ねはんえ)当日のグンタン寺や年末のポタラ宮内庭のそれは著名である。民間には,別にアチェラモと俗称される専門の演劇団があって,古い歴史劇や仏教の本生譚由来の歌舞を上演する。

 建築や美術にはネパール,中国系の影響が強い。マンダラやタンカ(軸画)では,15世紀ころまではネパール系を主としたが,明の山水画の影響を受けたメン流画とその発展したものや東部のカルマ・ガル流画がある。
執筆者: チベット文化についての調査・研究は近年著しく進んだが,特に音楽は文化大革命後本格的に着手され,しだいにその実態が明らかにされつつある。一般にチベット音楽というときは,チベット系農耕民遊牧民の音楽を指す。狭義には首都ラサを中心とするチベット族農耕民の音楽を指す場合もある。しかし,広義にはメンパ族ロッパ族などチベット系遊牧民のほか,四川省や雲南省,さらにはヒマラヤ南麓から東南アジア北部山岳地帯に居住するチベット・ビルマ語派系諸族の音楽を含む場合もある。いずれにおいてもチベット仏教(ラマ教)をはじめ多くの文化要素とともに音楽においても共通する要素が強い。チベット族農耕民の歌舞は豊富だが,とくに〈諧〉が歌舞を総称し,果諧,堆諧などの用語として分類されて用いられている。農耕民のあいだでは歌が主体であり,山歌をはじめ,恋愛歌,労働歌,放牧歌などの抒情的民謡が多い。単旋律,5音音諧で小ぶしをきかせたメリスマ的な唱法で歌われるが,対歌となる掛合の型が多くみられる。チベット・ビルマ語派系の諸族で比較的多く伝承されている多声性の合唱の形式はチベット族では少ない。アムド(安多)などの地方の遊牧民や牧畜民のあいだでは,群舞,輪舞などの歌舞が豊富である。チベット古代英雄叙事詩〈ケサル〉は今日も伝承されている。ケサルをはじめ叙事詩を語り歌う芸人も少数ながら復活している。ケサルを伝承する地域は広く,モンゴルでは〈ゲザル〉として伝えられるほか,中央アジア,パキスタン北部,ネパール,ブータンに広がり,歌唱の様式は多様であり,チベット音楽圏をケサル文化圏と呼ぶことも可能である。民間で使用される楽器は,弦鳴楽器ダムニェンがもっとも広範に使用されるほか,漢族の影響を受けたと考えられる琵琶やギョーマンあるいはヤンチェン(揚琴),ティリン(笛)が用いられる。舞踊には,ダーマン(鍋形片面太鼓)とスルナイが多用され,ディルブ(鈴)などが伴う。チベット劇と呼ばれる舞踊劇〈アチェラモ〉では,これらのほかに法螺貝なども加わる。

 チベット音楽にはラマ教の儀礼の音楽がある。使用楽器も豊富で,1対の2m余の長いラッパ(ジャンドゥンあるいは,ドゥンチェン,ラグドゥン),人骨でできたカンリン(縦笛),ギャリン(オーボエ系の縦笛)などのほか,両面太鼓,振鼓,銅鑼(どら),シンバル,鈴などが使用され,チベット固有の音楽とともに,中国(漢族),モンゴル,インドなどの音楽的交流の影響を楽器はじめ音楽の諸要素のなかに見いだすことができる。解放後の歌舞団の発展はめざましく,ヨーロッパ音楽やバレエの影響が強く現れるのも特徴の一つである。
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世界大百科事典(旧版)内のチベット族の言及

【住居】より

…骨組みを木の枝で編成し,外周を羊毛フェルトで覆い,頂部中央に環形の開閉孔を設ける。
[チベット族の石積み住居]
 チベット族はチベット,四川西部,青海,甘粛南部に居住する。各地方により住居の形式は異なるが,とくに石積みの優れた技術に特色がある。…

※「チベット族」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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