イギリスの政治家,小説家。ロンドンのユダヤ人の家系に生まれる。父アイザックは,その著書《文学の愉(たの)しみ》(1791)で知られる文人であった。父親の計らいで13歳のとき英国国教会に改宗,このことは宗教,宗派により政治的権利が制限されていた時代に,彼の国会議員への道を後年開いた。学校へは15歳になるまで通い,その後はもっぱら父の蔵書を読みふけった。17歳のときから20代の初めにかけて,法律事務所に勤めたり,株式投資をしたり,保守系新聞の発行を企てたりしたが,いずれもものにならず,かえって負債を背負い込むはめとなった。つづいて20代の半ばからは小説に興味をもち,《ビビアン・グレー》(1826-27),《若き公爵》(1830)と,社交界を舞台とした小説を書き,それなりの成功を収めた。以後死ぬまで,おりにふれて小説を書き続けていくことになる。
だれにもまして有名になりたいというのが,彼の少年時代からの抑えがたい究極の欲求であり,その行き着くところは政治家であった。当初,トーリーにもホイッグにも属さない急進的民主派とみずからを位置づけ,1832年に初めて2度にわたって選挙戦を戦ったが,いずれも敗北に終わった。この敗戦は彼にとって一つの教訓となり,35年《イギリス国制の擁護》を著して,今度は自分の立場をはっきり保守主義と定め,37年の選挙でついに念願の国会議員となった。39年,12歳も年上で金持ちの寡婦ウィンダム・ルイス夫人と結婚して生涯のよき伴侶を得,また40年には,ヒューエンデンに小さいながらも所領を購入した。だがこのとき,時代の趨勢は,すでに自由主義の側へと大きく傾いており,保守主義者ディズレーリのその後の進路は,けっして順風満帆とはいかなかった。40年代最大の政治問題は穀物法廃止,すなわち穀物貿易を自由化するかしないかという問題であったが,農業の利害に強く執着したディズレーリは廃止に反対であった。だが,時の保守党党首R.ピールは,このころマンチェスター派の自由貿易論者に改宗しており,こうして両者は真正面から対立するにいたった。ディズレーリは,彼の代表的な政治小説《コニングズビー》(1844)を著してピールを非難・攻撃する一方,党内に〈青年イングランド党〉という小会派をおこした。そしてこの対立は,46年の穀物法廃止の実現を契機に保守党を分裂に追い込み,以後ディズレーリは,ピール派が脱党して弱体化した保守党をE.G.S.S.ダービーとともに指導することとなった。だが,46年から60年代にかけての時期は,イギリス自由主義の黄金時代として知られる時代であり,保守党にはほとんど利がなかった。保守党は,この間,ダービーを首班に,52年,58-59年,66-68年の3回にわたり政権を担当し,ディズレーリもそのつど蔵相を務めたが(ただし,ダービー引退後の1868年は首相),少数党の悲しさで,67年の第2次選挙法改正以外は,みずからの主張を十分な政策として展開することができなかった。
だが,70年代にいたって〈世界の工場〉としてのイギリスの地位が揺らぎ,帝国主義の時代が到来するに及んで,保守主義者ディズレーリにやっと活躍の舞台が与えられた。彼はイギリス帝国の統合をいち早く保守党の旗印として掲げ,74年の総選挙に圧勝し,政敵グラッドストンの率いる自由党内閣の後を襲って第2次ディズレーリ内閣を組織,主として帝国と外交政策の領域で歴史を左右する大きな足跡を残した。まず75年,スエズ運河株17万株を買収して同運河を領有し,77年にはビクトリア女王をインド皇帝に推戴してインド帝国をつくった。ロシアの南下政策を頓挫させたベルリン会議(1878)の決定も,彼の大きな功績であった。だがその後は,アフガニスタン政策の蹉跌(さてつ),南アフリカ植民地での戦争の敗北などが重なってしだいに民心を失い,80年の総選挙に大敗して政権の座を下った。なおこの間,76年に爵位を得てビーコンズフィールド伯となり,80年には自伝風の最後の小説《エンディミオン》を著した。翌81年,喘息を伴う気管支炎にかかって死去,自領ヒューエンデンの教会に葬られた。ディズレーリの政治小説は,明治期日本でもブルワー・リットンと並んで広く読まれ,代表作《コニングズビー》は関直彦訳《政党余談 春鶯囀(しゆんのうでん)》(1884)として出版された。
執筆者:村岡 健次
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イギリスの政治家。ユダヤ系の文筆家アイザック・ディズレーリの長男として生まれる。青年期には法律家になる勉強を始める一方、株式の投機に手を出したり、小説を発表したりもした。第一作『ビビアン・グレー』(1826)は評判をよんだ。1830年、地中海、中近東への旅に出かけ、国際情勢の見聞を広めた。帰国後、文学界、社交界で活躍したが、このころ政界入りの意志を固め、政治的著作もいくつか発表し、1832年以降何度か立候補を繰り返して、1837年に保守党所属の下院議員に当選した。保守党のなかにあって、貴族と国民大衆の一致を理想とし、産業資本家階級の勃興(ぼっこう)に対して労働者階級を保護することを主張する「青年イギリス派」の一員となり、政治小説『コニングズビー』(1844)、『シビル』(1845)などを発表した。穀物法撤廃をめぐって保守党が分裂した際は、反ピール、反自由貿易の立場をとり、1852年ダービー保守党内閣の蔵相に就任した。1858年に第二次ダービー内閣が成立した際にも蔵相となり、保守党の指導者としての地位を固めるとともに、翌1859年穏健な内容をもつ選挙法改正を提案した。この提案は議会で敗れ、総選挙後、自由党内閣が誕生した。1866年、自由党内閣の選挙法改正法案を否決に追い込み、第三次ダービー内閣の蔵相として返り咲くと、翌1867年には第二次選挙法改正を保守党政府の手で実現した。都市労働者に選挙権を与えたこの改革は「暗中飛躍」とよばれる大胆なもので、大衆民主政治の出発点となった。大衆との一致を目ざした青年イギリス派の「トーリー・デモクラシー」の理念が実現をみたともいえよう。
1868年2月に首相となり、総選挙を迎えたが、グラッドストーンの自由党に敗れて下野し、1874年に再度首相の座についた。第二次内閣では積極的な帝国・外交政策が目だち、まず1875年末にスエズ運河会社の株式を購入し、エジプト支配の因をつくる一方、翌1876年にはビクトリア女王をインド女帝とする法律を成立させた。また外交面ではベルリン会議に出席してロシアの南下政策を押さえた。しかしアフガニスタン、南アフリカなどではイギリスに対する激しい抵抗が起こり、また国内でも不況が長期化するといったことから、1880年の総選挙で敗れ、翌1881年4月19日病死した。
グラッドストーンと並ぶ19世紀最大の議会政治家で、保守党と大衆を結び付ける改革を推進した一方、イギリスの帝国主義的膨張政策に先鞭(せんべん)をつけた。1876年伯爵に叙され、ビクトリア女王の信任も厚かった。
[青木 康]
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1804~81
イギリスの政治家,首相(在任1868,74~80)。ユダヤ系の生まれで,小説家を志す。1837年保守党の下院議員となり,新しい保守主義を唱える青年イングランド派の指導者となり,穀物法撤廃に反対して保護貿易を擁護。保守党内閣で3度蔵相となり,67年には第2次選挙法改正を実現させ,翌年首相となったが,総選挙に敗れて下野。野党党首としてグラッドストンを激しく批判。74年再度組閣し,帝国主義的な外交を展開し,75年スエズ運河株を買収してエジプトを押え,77年にはインド帝国を発足させてヴィクトリア女王に女帝の称号を与え,78年にはベルリン会議に出席してロシアの進出を阻止するとともにキプロス島を獲得した。この間,76年授爵されて貴族院に移ったが,グラッドストンと並び,イギリス最盛期の議会政治を代表した。
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…そして工業化の進展にもかかわらず,国をあげてジェントルマン志向の強まったのが,このビクトリア時代であった。 ところでこの〈ジェントルマンの国〉は,世界最初のプロレタリアート(労働者)階級を広範につくりだしており,ディズレーリの小説《シビル》(1845)の一節を借りれば,〈お互いになんらの交渉も親愛の情もなく,お互いに思想,習慣,感情を異にする,二つの国民〉から成る国でもあった。〈二つの国民〉,すなわちジェントルマンであるか否かの間に越え難い決定的な線が引かれている点に,イギリスの社会構成の最大の特徴が存する。…
…また若さにまかせた享楽的生活を比喩的に〈サクラソウの道primrose path〉という。ビクトリア朝期の政治家ディズレーリはこの花を愛したので,4月19日の彼の命日はPrimrose Dayと呼ばれ,市民はこの花を身につけるという。【荒俣 宏】
【サクラソウ科Primulaceae】
双子葉植物。…
…カンボジアの首都。人口92万(1994)。メコン河口から約300km遡航した自然堤防上の河岸に開けた都市で,港は2500トンまでの船が横づけできる。プノンペンとはカンボジア語で〈ペンの丘〉を意味する。《王朝年代記》によれば,洪水のときに上流から仏像4体が流れつき,敬虔なペンという名の夫人がこの仏像を小さな丘の東斜面に安置したという。これが〈ペン夫人の丘の寺院〉説話で,プノンペン発祥伝説のもととなった。…
…そこに〈国民的合意の党〉〈実務と分別の党〉などのイメージ培養基盤が生まれる。誕生まもない保守党を〈組織された剽窃(ひようせつ)organised hypocrisy〉〈トーリーの人間によるホイッグの政策Tory men and Whig measures〉と批判したにもかかわらず,結局はそれを最も効果的に実行し,党興隆の基礎を築くことになるのは,B.ディズレーリにほかならなかった。ここに保守党の一面が如実に現れている。…
… しかしまた,民主主義の歴史的不可避をいち早く洞察した支配層が,むしろ民主主義シンボルを先取りして権力基盤の強化を図ったこともあった。はやくも1830年代初期のイギリスで,後の首相たる若きB.ディズレーリが,イギリス社会は完全な民主的社会であり,しかもその民主主義はフランスとは異なってもっとも高貴な民主主義であると称して,貴族と労働階級による中産階級の挟撃を企てたこと,国民投票によって帝位についたナポレオン3世が,みずからの権力を〈国民の民主的精神〉によって正当化しようとしたことなどがそれである。しかし,全体的には19世紀を通じて,ヨーロッパでは民主主義概念をめぐる意見の激しい対立が解消されることはなかった。…
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