アメリカの数学者で、ゲーム理論の第一人者。ウェスト・バージニア州ブルーフィールド生まれ。1948年カーネギー工科大学(現、カーネギー・メロン大学)で化学工学の学士号、修士号を取得したのち、1950年にプリンストン大学で数学の博士号を取得する。マサチューセッツ工科大学数学教授就任直前の31歳のときに統合失調症を発症し、同大学を退職する。長年苦しんだすえ、奇跡的な回復を遂げた。1994年に「非協力ゲーム理論を構築し、均衡分析という概念を導入してゲーム理論を飛躍的に発展させた」との理由で、J・C・ハーサニー、R・ゼルテンとともにノーベル経済学賞を受賞した。
プリンストン大学在籍中の22歳のときに、博士論文である「非協力ゲーム理論」Non-Cooperative Gamesを発表する。それまでのゲーム理論を「協力的ゲーム」と「非協力的ゲーム」に峻別(しゅんべつ)し、非協力ゲームにおいて、利害の異なる主体が別々に行動した場合でも、それぞれが戦略的に満足できて最適の状態、「ナッシュ均衡」(Nash equilibrium)に落ち着き、社会が安定した状態になることを数学的に証明した。これはフォン・ノイマンらが1940年代までに確立したゲーム理論を革新的に発展させ、マクロ政策、通商、企業組織と契約、企業金融、環境問題などの経済分野だけでなく、政治、社会、生物学などの分析にも役だつ有用な道具とした。
ナッシュの数奇な運命をたどった半生はノンフィクション作品『ビューティフル・マインド』として1998年に出版され、2001年には映画化されてアカデミー作品賞、監督賞などを受賞した。
[金子邦彦]
『シルヴィア・ナサー著、塩川優訳『ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡』(2002・新潮社)』
イギリスの画家。ロンドンに生まれる。スレード美術学校に学んだのち、1912年ニュー・イングリッシュ・アート・クラブで作品を発表し始める。第一次世界大戦中は従軍画家として活躍し、抽象化された画面に荒廃した自然の姿をとらえて注目を浴びた。33年には前衛的な芸術家の集団「ユニット・ワン」を結成している。28年に見たデ・キリコの作品に触発され、一時シュルレアリスムに関心を向け、36年の国際シュルレアリスム展にも参加したが、彼の自然に対する深い愛着は終生変わることなく、その後も先史時代のモノリスmonolith(一枚岩)などの立ち並ぶ幻想的な風景を描いている。彼の著作は死後、ハーバート・リードの手でまとめられ、『アウトライン』(1949)として出版された。ハンプシャーのボスコムで没した。
[谷田博行]
イギリスの彫刻家。サリー州イーシャに生まれる。キングストン美術学校、ブライトン美術学校、チェルシー美術学校に学ぶ。1967年北ウェールズ地方のブライナイ・フェスティニョグに移住する。1980年ニューヨークのグッゲンハイム美術館の「ブリティッシュ・アート・ナウ」で世界的に注目される。82年(昭和57)「今日のイギリス美術」展出品のため来日し、厳冬の奥日光で倒木により作品を制作。「木は、私にとっては、人間の命に相当する植物です」と述べている。現代美術において、自然とのかかわりを深く保ちながら制作を続けている作家の一人であり、素材にあまり手を加えず、木の枝や幹をそのまま生かした作品が多い。84年(昭和59)には滋賀県立近代美術館での「現代彫刻国際シンポジウム」に参加。94年(平成6)北海道音威子府(おといねっぷ)に滞在して作品を制作し、北海道立旭川(あさひかわ)美術館にて「デビッド・ナッシュ展――音威子府の森――」を開催する。2001年東京西村画廊にて個展を開催。
[斉藤泰嘉]
『酒井忠康著『魂の樹――現代彫刻の世界』(1988・小沢書店)』
イギリスの物語作家、パンフレット作家。「大学出の才人」の1人で、ケンブリッジ大学卒業後、R・グリーンらと短期間大陸を旅行、1588年以後ロンドンに居を定めて文筆活動を始める。代表作はイギリスにおける悪漢小説(ピカレスク・ノベル)の嚆矢(こうし)となった『悲運の旅人』(1594)であるが、文学上・宗教上のさまざまな論争にかかわり、多くの風刺的パンフレットを書いた。『文なしピアスが悪魔への嘆願』(1592)は、猥雑(わいざつ)粗野な活気にあふれた当時のロンドンの生活・風習を活写している。劇作もある。
[岡本靖正]
『北川悌二・多田幸蔵訳『悲運の旅人』(1969・北星堂書店)』▽『北川悌二・多田幸蔵訳『文なしピアスが悪魔への嘆願』(1970・北星堂書店)』
イギリスの建築家。ロンドンに生まれる。R・テーラーの下で修業を積んだのち、建築家として独立したが、1783年に破産し、ウェールズに退いた。しかし96年ごろ、風景式庭園の造園家H・レプトンと組んでピクチャレスクなカントリーハウスの建築家としてふたたび頭角を現し始めた。その後、時の摂政(せっしょう)(後のジョージ4世)に接近し、彼の支持を得てロンドンのリージェント街およびリージェント・パークの大規模な建造計画(1811~25)のほか、ブライトンのロイヤル・パビリオンの改築(1815~21)やバッキンガム宮殿の建造計画(1824~30)に参画した。しかし、1830年ジョージ4世が亡くなると、建設費用の横領などの嫌疑をかけられ、いっさいの公的な仕事から引き離された。ワイト島で没。
[谷田博行]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
19世紀のロンドン都市計画に貢献したイギリスの建築家。ロンドンに生まれ,建築家R.テーラーのもとで修業。住宅の投機事業に乗り出し失敗する。その後ウェールズに退き活動中,R.P.ナイトらの,不規則性や意外さを美的価値とするピクチュアレスク理論に触発されて新しい設計手法を開拓。風景式庭園を完成させたL.ブラウンの後継者レプトンHumphry Repton(1752-1818)と協同で,ラスクーム(デボンシャー,1804)などの別荘建築を設計し好評を博す。ロンドンのリージェンツ・パーク(1828)よりリージェント・ストリート(1833)を経てカールトン・ハウス・テラス(1814)を結ぶ計画では,各建物は古典主義的ではあるが,街路構成や配置に都市で初めてピクチュアレスクの設計理念を実現した。バッキンガム宮殿(1830)では古典様式を,ローヤル・パビリオン(ブライトン,1821)ではインド風を取り入れるなど,多彩な様式や新材料を巧みに利用し,時代の寵児となった。しかし,パトロンのジョージ4世の死(1830)後,間もなく失脚した。
執筆者:星 和彦
イギリスの物語作家,劇作家,雑文家。ケンブリッジ大学を卒業し,1588年ごろからロンドンに住んで文筆生活に入る。風刺家的資質の持主で,《愚行の解剖》(1589)を皮切りに,同時代の作家の作品の欠点をあげつらったり,世の愚かしい風習や悪弊を揶揄(やゆ)したりするパンフレットを数多く書いた。なかでも匿名でピューリタンを攻撃した一連のパンフレットと,G.ハーベーとの激しい論争にまつわるものが有名であるが,とくに後者に属するものの一つ《文なしピアースの悪魔への嘆願》(1592)は,当時の拝金思想とその風俗を徹底的に風刺するものとして人気を博した。彼の代表作《不運な旅人》(1594)はスペイン風〈悪者小説(ピカレスク小説)〉の部類に属するイギリス最初の作品として文学史上重要視されている。劇作家としては,C.マーローと共作して《カルタゴの女王ダイドー》(1587ごろ)を,B.ジョンソンと共作して《犬どもの島》(1597)を書いたことが知られているほか,彼単独の戯曲として仮面劇風の喜劇《夏の残した遺言書》(1592)が現存している。
執筆者:笹山 隆
イギリスの画家。ロンドンに生まれ,スレード・スクールに学ぶ。1912年〈新イギリス美術クラブ〉に加わり,第1次大戦に際し従軍画家に任命され,破壊された自然を抽象化して描き注目される。33年前衛美術家・建築家の集団〈ユニット・ワンUnit One〉を結成し,36年国際シュルレアリスム展にも出品したが,彼の本質はケルト美術にもつながる幻想的象徴主義にある。第2次大戦中はふたたび空軍の従軍画家として,月下の北海に漂う撃墜機の破片などを描いた。著作集(1949)と写真集《豊饒なイメージ》(1951)が没後刊行された。
執筆者:針生 一郎
アメリカの詩人。とくに,軽くユーモラスで皮肉な詩では第一人者。ニューヨーク州に生まれ,ハーバード大学などに学んだのち,しばらく実業界に入るが,30代で《ニューヨーカー》誌の常任寄稿者となり,以後巧みな掛けことばと脚韻による機知で,多くの読者を引きつけた。詩集には《ぼくもここでは見知らぬ人》(1938),《老犬は後ろ向きにほえる》(1972)などがある。
執筆者:金関 寿夫
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…これは3~4階の住戸を横に連続させたもので,各戸はそれぞれ街路に向かって入口をもつ。アパルトマンやテラス・ハウスは,建物全体としてまとまりある意匠とされる例が多く,ウッド(子)がバースに建設したローヤル・クレセント(1754‐75),J.ナッシュがロンドン北部のリージェンツ・パークに建てたカンバーランド・テラス(1826‐27)は,共同住宅を全体として宮殿のような意匠にまとめ上げている。同時にこれらの住宅は,共同住宅のレイアウトを都市計画的視野に立って計画した例として知られる。…
…とくに18世紀のドイツ,オーストリアのバロック建築ではスタッコ技法の活用が目だち,一村のほとんどがスタッコ職を業とするという村さえあった。19世紀のイギリスでは,J.ナッシュが,煉瓦造スタッコ仕上げの外壁にさらにペイントを塗った建築を普及させ,〈リージェンシー・スタッコregency stucco〉という名で知られている。また,いわゆるコロニアル・スタイルの建築では,木造建築をスタッコ仕上げによって煉瓦造や石造に見せかけることもしばしば行われた。…
…年代的にはジョージアンの最終的局面と重なるが,様式的にはその直前のクラシック・リバイバルの第2段階をなすものであり,フランスのディレクトアール様式からアンピール様式に至る様式変遷と並行する。すでにギリシア,ローマ,エジプト,中近東,中国などの文化・風俗への関心は高まっていたが,自由奔放な皇太子として知られたジョージ4世は,独創的な建築家J.ナッシュを起用し,この異国趣味を推進した。ナッシュはブライトンの離宮の改築(1815‐23)にあたって前代未聞の構想を実現した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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