中国,新疆ウイグル自治区民豊県の北方約150km,タクラマカン砂漠中にある遺跡。2~3世紀の精絶国に比定される。1901年M.A.スタインにより発見され,その後を含めて3度調査された。さらに59年,新疆ウイグル自治区博物館により再調査された。遺跡は東西約10km,南北約4.5kmの範囲に広がり数百軒の住居址がある。乾燥地帯のため保存がよく,泥で固めた建物の壁や木柱がよく残り,木製の家具・容器・化粧具,それに毛織物や皮革,穀物,カローシュティー文字木簡も多数発見されている(カローシュティー文書)。また付近から〈司禾府印〉が発見され,屯田事務をつかさどる機関が設けられていたようである。墓区は住区の西方約3kmの砂漠中にあり,約500m四方に広がる。刳抜式木棺墓が大半であるが,ミイラ化し完好に保存された夫婦合葬墓があった。豊富な副葬品をもち,夫婦とも彩り鮮やかな絹や錦の衣服に包まれていた。明らかに中国人と異なる西方系民族の容貌をもち,古代精絶国の支配階級の墓と考えられる。
執筆者:秋山 進午
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中国、新疆(しんきょう)ウイグル自治区タリム盆地南縁にある古代の集落跡。ホータンの東方約320キロメートルにある民豊県から、タクリマカン砂漠の中を120キロメートルほど北上した地点にある。イギリスのM・A・スタインにより、1901年に初めて発掘され、以後1906年、1914年と三次にわたり発掘調査が行われ、総数800点近いカローシュティー文書(もんじょ)が発見された。この文書の解読により、古代楼蘭(ろうらん)王国の庶民生活が明らかにされつつある。この遺跡は崑崙(こんろん)山脈から流出するニヤ川の末端にあって、東西約7キロメートル、南北20キロメートルにわたって散在する集落である。1980年(昭和55)NHK日中共同取材班はこの遺跡を訪れ、現状を撮影、放映した。
[長澤和俊]
『長澤和俊他著『シルクロード 第四巻 流砂の道』(1980・日本放送出版協会)』
…しかし現実には,養蚕術の西伝には,どうしても桑の栽培が付随しなければならない。この意味で,1901年スタインによってホータンの東方260kmのニヤ遺跡で発見されたいくつかの桑園の跡は,養蚕の西漸を実証する重要な手がかりを与えている。したがって今日では一般にニヤが滅んだ3世紀以前,おそらく2世紀前後にはこの地に中国風の養蚕術が伝えられ,ホータンはその中心であったと推定されており,その後《于闐国史》などの記録から,養蚕術は3世紀には北西インドまたはカシミール地方に伝わり,4~5世紀にはペルシアからシリアに伝播したと考えられている。…
…前1世紀の鄯善,すなわち楼蘭(クロライナ)の戸数は,1570戸,人口は1万4100と伝えられ,当時の西域のオアシス諸都市の中では中程度の規模であった。しかしクロライナは,後1世紀になると,匈奴,後漢,ヤルカンドなどの干渉を受けつつも,しだいにその南方および南西方の崑崙山脈北麓に位置した且末(チャルマダナ,チェルチェン),小宛,精絶(チャドータ,ニヤ),戎盧などの諸オアシス都市国家を併合して,ロプ・ノール沿岸から西はチャドータに至る広大な地域を支配下に置く鄯善王国の首都となり,この状況は,以後ときに魏,晋,西涼等の進出の時期(大谷探険隊によって将来され,現在竜谷大学図書館に所蔵されている有名な〈李柏文書〉は,328年前涼の西域長史李柏が,ロプ・ノール西岸の海頭から焉耆(えんぎ)王に送った書簡の草稿である)があったにしても,少なくとも4世紀末までは続いたものと思われる。 4世紀末にこの一帯を通過した法顕の記録するところによれば,当時クロライナには小乗仏教を奉ずる国王と4000人の仏僧がいたことが知られ,この僧の数からしても,かなりの都市に成長していたことが推定される。…
※「にや」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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