翻訳|Hannibal
カルタゴの将軍,政治家。ハミルカル・バルカスの長子。第2次ポエニ戦争を戦い抜いた名将。カルタゴの第1次ポエニ戦争敗北後,前237年幼くして父とともにスペインに渡った。父の死後,義兄ハスドルバルがスペイン経略を続けたが,前221年に暗殺されたため,軍隊に推されて将軍の職についた。全スペインを制圧するための戦いを展開した後,前219年春,エブロ川南方のローマの同盟市サグントゥム攻撃をはじめ,8ヵ月の攻囲戦の後これを落とし,第2次ポエニ戦争の火ぶたを切った。
弟ハスドルバルにスペインの防衛をゆだねて,前218年4月,エブロ川を渡り,ピレネーを越えてローヌ川に達し,冬のアルプスを越えて北イタリアに侵入した。まずティキヌス川西の平原でローマ軍を破り,12月にはトレビア河岸でセンプロニウス・ロングスとプブリウス・スキピオ(大スキピオの父)の連合軍を徹底的に破った。前217年春にはトラシメヌス湖畔に進軍してきたローマのフラミニウス軍を襲い,これを殲滅した。同年秋から冬にかけてはアプリアとカンパニアを荒らしたが,ローマの将軍ファビウスの遷延作戦のため,決戦に持ち込めなかった。前216年,南方に向きを転じたが,8月はじめのカンネーの戦でアエミリウス・パウルスとテレンティウス・ウァロの率いるローマ軍を徹底的に撃破した。その結果,アプリア,ルカニア,ブルティウムの町々やカプアがローマとの同盟から離脱したが,首都ローマには進軍しなかった。その後ファビウスの遷延作戦が次第に功を奏し,前215年から前213年にかけてはタレントゥム占領以外には目ざましい展開もなかった。前215年のマケドニアのフィリッポス5世との同盟条約は,彼の全地中海的視野の広さを物語るとはいえ,現実の効果は乏しかった。前213年にはカシリヌム,アルピ,前211年にはカプアとシチリアのシラクサが奪取され,前209年にはタレントゥムが再びローマ人の手に戻った。一方,スペインのカルタゴ勢力もスキピオ(大)によって大打撃を受け,長駆スペインより来援した弟ハスドルバル軍も北イタリアで敗れ,戦線は膠着したままハンニバルは南イタリアのブルティウムで抵抗しつづけた。
しかし,カルタゴの本拠を脅かすスキピオに対するため,前203年本国に召還され,スキピオとの交渉・休戦,再び戦闘となり,結局ザマの戦で敗北し(前202),第2次ポエニ戦争も幕を閉じた。ローマ・カルタゴ間の平和条約の締結後も将軍の職にとどまったが,前196年に行政上の長官スフェスに任ぜられ,財政改革を中核とする民主的な変革を行い国力の立て直しをはかった。しかし寡頭政グループの策動,ローマの干渉により失脚・亡命せざるをえず,前195年シリアのアンティオコス3世のもとに逃れ,シリア艦隊を指揮したが,ローマ海軍に敗れた。マグネシアの戦(前190)の後はシリアをはなれ,ビテュニアのプルシアス王の宮廷に逃れたが,ローマの追及の手がのびたのをみて自殺して果てた。
アレクサンドロス大王,ピュロス大王と並ぶ古代世界屈指の名将という評価が与えられており,戦術の卓抜さには異論はないが,なぜカンネーの戦の後ローマを衝かなかったのか,という古くからの問いには,補給の問題が指摘されている。ローマの同盟市の結びつきの強さを見抜けなかったところに最大の失敗があったという通説には,反論もある。政治的手腕には否定的な評価もあるが,フィリッポス5世との同盟条約の示す地中海世界大の視野,カルタゴ敗戦後の行政改革から,優れた政治家とみなすべきであろう。人間性に関しては,現存史料の偏向性を含みにいれても,自制心の強さ,なによりも長年にわたり傭兵を十分に掌握し得たことから肯定的にみることができよう。
→カルタゴ →ポエニ戦争
執筆者:長谷川 博隆
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カルタゴの将軍、政治家。ローマに対して第2回ポエニ戦争を戦いぬいた将軍。ハミルカル・バルカスの長子。幼くして父とともにスペインに渡り、スペイン経営を進めた父の死後、その後を継いだ義兄ハスドルバルHasdrubalが倒れるや、紀元前221年、25歳で将軍に選ばれた。前219年春、ローマの同盟市サグントゥムを攻撃して、これを陥落させ、翌年第2回ポエニ戦争(ハンニバル戦争ともいわれる)を起こした。スペインからピレネー山脈を越えて南フランスを席巻(せっけん)したのち、雪のアルプスを越えて北イタリアに侵入し、トレビア河畔、トラシメヌス(トラジメーノ)湖畔の戦いをはじめイタリア各地で大いにローマ軍を破った。とくに前216年のカンネーの決戦では用兵の妙を発揮し、戦史上屈指の大殲滅(せんめつ)戦を展開、一時は首都ローマにも迫った。しかし持久戦に持ち込まれたため戦線はしだいに膠着(こうちゃく)し、その後はイタリア半島の南端で戦い続けた。前203年、本国カルタゴに召還されたのち、アフリカの地で戦ったが、前202年のザマの決戦で大スキピオの率いるローマ軍に敗れ、第2回ポエニ戦争はカルタゴの敗北に終わった。
その後、ローマ、カルタゴ間の平和条約締結後も将軍職を保ち、前196年には行政上の長官に選ばれて、財政改革を中核とする民主的な国制の変革を行い、ローマへの報復の機会をねらったが、親ローマ派の策動、ローマの干渉により、カルタゴから脱出せざるをえず、シリアのアンティオコス3世のもとに身を寄せた。しかし結局反ローマ闘争も実を結ばず、その後は小アジアのビテュニアに移ったが、ローマの手の伸びたのをみて自殺して果てた。
戦略の妙、用兵の巧みさなど、アレクサンドロス大王、ピロス大王などと並ぶ古代世界屈指の名将として知られる。一方、政治的手腕に関しては、否定的な見解もあるが、マケドニアのフィリッポス5世との同盟条約の示す地中海世界規模の視野、カルタゴ敗戦後の行政改革などから、優れた政治家とみなすことができよう。また人間性に関しては、現存史料の偏向性を含みに入れても、自制心、節制、なによりも長年にわたり傭兵(ようへい)を十分に掌握し通したことから肯定的にみることが許されよう。
[長谷川博隆]
『長谷川博隆著『ハンニバル――地中海世界の覇権をかけて』(『人と歴史シリーズ 西洋3』1973・清水書院)』
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前247~前183
カルタゴの名将。父のハミルカル・バルカとともにヒスパニアで兵力をつちかい,父の死後総指揮官となり,前218年ローマに挑戦し,第2次ポエニ戦争を起こした。ヒスパニアからガリア,アルプスを越えてイタリアに侵入し,各地でローマ軍を撃破し,特にカンネーの戦いではこれを徹底的に打ち破ったが,しだいに戦線は膠着化した。本国に帰還後,前202年ザマの戦いでスキピオ(大)の率いるローマ軍に大敗し,第2次ポエニ戦争は終結した。その後も鋭意国制改革に力を尽くし,またシリアから小アジアのビティニアへと移り,機をうかがったが前183年自殺した。
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…今日,同市の川沿い公園には巨大なアーチGateway Archが建てられ,開拓時代の記念碑となっている。州北東部のミシシッピ河畔の町ハンニバルは,マーク・トウェーンが少年時代を過ごし,《トム・ソーヤーの冒険》の舞台となった町である。ミズーリは古くから小麦,トウモロコシ,綿花の栽培地として知られてきたが,近年は大豆(全米5位,1980)の産地として重要である。…
…南イタリア,アプリア地方を流れるアウフィドゥス川南岸の村,カンネー(カンナエ)Cannae付近で,前216年8月2日に行われた戦闘。C.T.ウァロとL.A.パウルスに率いられた4万8000の歩兵,6000の騎兵のローマ軍を,3万5000の歩兵,1万の騎兵をもってカルタゴの将軍ハンニバルが包囲・殲滅した世界戦史上屈指の殲滅戦である。戦闘の行われた場所については,現在なお議論がある。…
…決戦は北アフリカ,現在のチュニジアのマクタルの近くのザマ・レギアZama Regiaで行われたとみられる。前202年春,ハンニバルの率いるカルタゴ軍が,大スキピオの率いるローマ軍と死闘の末,敗れた戦。兵力的には両者拮抗していたが,ヌミディアのマシニッサの援軍を擁し,騎兵兵力に勝ったローマ軍の快勝となり,カルタゴの死命を制した。…
…今日の常識と正反対の見解であるが,前217年のラフィアの戦いでエジプトとセレウコス朝シリアの象部隊が対決した際,インドゾウ側が勝利したという伝説などを通じ,これは古代西洋人の定説となった。ハンニバルが指揮したピレネーとアルプスの両山脈越えの大行軍には50頭の象が参加したが飢えと寒さで次々に倒れ,カルタゴに戻ったのは1頭だけだったという。 象に関する奇妙な伝説に〈関節がない〉というものがあり,前4世紀にクテシアスの《ペルシア史》に,バビロニアのインドゾウは肢に関節がなく座ることも立ち上がることもできず,立ったまま眠ると紹介された。…
…養鰻が行われ,夏,湖畔のカスティリオーネ・デル・ラーゴやパッシニャーノ・スル・トラジメノは海水浴客でにぎわう。前217年,アルプスを越えローマに侵攻してきたハンニバルのカルタゴ軍とローマ軍との戦いが,トラジメノ湖の北岸で展開され,ローマ軍が敗北した。【町田 亘】。…
…次いでローマはサルディニア,コルシカを第2の属州とした。
[第2次]
バルカス家のイベリア半島経営による勢力伸張の末,ハンニバルが前219年サグントゥムを攻撃し,翌年ローマとの戦争にはいった(前218‐前201)。このためハンニバル戦争とも称される。…
※「ハンニバル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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