フィリップ2世(その他表記)Philippe Ⅱ

改訂新版 世界大百科事典 「フィリップ2世」の意味・わかりやすい解説

フィリップ[2世]
Philippe Ⅱ
生没年:1165-1223

カペー朝第7代のフランス王。在位1180-1223年。ルイ7世の子。〈オーギュストAuguste〉という異名はローマ皇帝アウグストゥスに由来する。彼はカロリング家血筋を引くイザベル・ド・エノーと結婚し,カロリング朝シャルルマーニュ)との連続性を意識的に強調するとともに,生前から王太子ルイ・ド・フランス(のちのルイ8世)を王位に就け,カペー朝の世襲制を名実ともに確立した。イギリス王リチャード1世とともに第3回十字軍に参加したが(1190),シチリアやシリアでリチャードと不和になり帰国。リチャードの死後その後を継いだ次のジョン欠地王のとき,ジョンがパリの貴族法廷の喚問に応じなかったこと(1203)を理由に,すでにプランタジネット家の支配下に入っていたノルマンディーアンジューメーヌ,ポアトゥーの諸地方を奪った。ジョンはドイツ皇帝オットー4世と結び,フィリップ2世に反攻を試みたが,ブービーヌの戦(1214)で大敗した。その後,イギリスのバロン層の反乱を契機に王太子ルイをイギリスに遠征させるが(1216),これは教皇の反対にあって失敗に終わる。しかし大陸では,イギリスから獲得した領土を確保したほかに,オーベルニュシャンパーニュを王領に併合,シモン・ド・モンフォールのアルビジョア十字軍を支持して南フランスにも王権を浸透させ,カペー朝の支配権を拡大した。内政面では,プランタジネット家やフランドル伯の支配下にあるコミューンを積極的に認可するなど,都市との結びつきを強め,定期金知行(フィエフ・ラントfief-rente)の政策によって新たな封臣を獲得し,封建軍隊から傭兵軍隊への移行を準備した。王領管理のための行政組織として,有給官僚のバイイbailli(南西部ではセネシャルsénéchal)を新設,これを従来の世襲職たるプレボprévôt(奉行)の上位におき,最終審裁判権者として裁判の審級制を開始し,プレボの独立性を打破した。カペー家の封建王政は,彼の治世に飛躍的に発展したのである。
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フィリップ[2世]
Philippe Ⅱ
生没年:1396-1467

フランス,バロア家系ブルゴーニュ公家第3代当主。在位1419-67年。1419年,非業の死を遂げた父ジャンの後を継ぐ。母はバイエルン公家の一分枝シュトラウビンク・バイエルン家の出で,この家系はネーデルラントのホラント,エノーほか諸伯を兼ねている。フィリップの弟はブラバント公であり,シュトラウビンク家の相続権者ヤコバを妻とする。この関係で,フィリップは即位早々,ホラントほか諸公伯領の相続争いに介入し,1430年までに,ホラント,エノー,ブラバント等を支配地に入れた。ここに形成されたフランドル,ネーデルラントの公家北方領国諸邦は,公家のフランス王権からの自立を期待したが,フィリップは,バロア家の一分枝として,同家に対する和親政策を捨てきれず,バロア家当主シャルル7世の術策に乗せられて,1435年アラスの和を結ぶ。彼のあだな〈ル・ボンle Bon(〈お人よし〉。〈善公〉とも訳される)〉の由来の一端がここにある。北方領国諸邦の経済力に支えられて,バロア王家を除けば当時ヨーロッパ随一の財政規模を構え,その宮廷文化は,中世の貴族的生活規範をひとつのスタイルにまで高めたものと評される。金羊毛騎士団が展開した騎士団の盛儀,シャトランに代表される〈大修辞家〉文芸の流行,ファン・アイクに始まった15世紀フランドル画派の隆盛,これら文化の諸相は,すべてフィリップの代にかかわるものである。しかし〈公国〉は,一個の国家にふさわしい集権体制をついにとりえず,北方領国にはフィリップに対する批判がくすぶりつづけ,バロア王家の陰湿な政策の前に,フィリップの晩年,公国はすでに自壊の兆しをみせていた。
百年戦争 →ブルゴーニュ公国
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フィリップ2世」の意味・わかりやすい解説

フィリップ2世
フィリップにせい
Philippe II, Auguste

[生]1165.8.21. パリ
[没]1223.7.14. マント
フランス王 (在位 1180~1223) 。カペー王権を急速に発展強化させた国王として知られる。王国の皇帝の意をこめて「尊厳王」と通称される。イザベル・ド・エノーとの結婚によりアルトアを合併 (1180) 。当時,イングランド,フランスにまたがるプランタジネット家のいわゆる「アンジュー帝国」に対抗,プランタジネット王室の内紛を利用して,ヘンリー2世,その息子リチャード1世,次いでジョン王 (欠地公子) と争い,最後にノルマンディー,アンジュー,メーヌ,ポアトゥー,ツーレーヌのプランタジネット家領を王領に合併 (1202~06) ,1214年ドイツ皇帝オットー4世と結んだジョン王の反攻をブービーヌに撃破,王国の脅威を除いた。拡大した王領管理のために,封建貴族のような独立的存在であったプレボの上にバイイセネシャルをおき,プレボ職の独立性を打破し,世襲制から期限付きの請負制へと移行させた。また都市と緊密に結びつき,王領支配を強化した。南フランスのカタリ派制圧のアルビジョア十字軍を率いたが,その途上で病死した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「フィリップ2世」の解説

フィリップ2世(尊厳王)(フィリップにせい(そんげんおう))
Philippe Ⅱ (Auguste)

1165~1223(在位1180~1223)

フランス国王。王領の拡大と集権化,封建的権力分裂の克服を開始した。フランス内イングランド領をめぐり,1187年以来イングランド王と抗争,第3回十字軍にイングランド王リチャード1世とともに参加したが(90年),いち早く帰国,王弟ジョン(欠地王)と結んでノルマンディに侵入,リチャードの死まで戦った(94~99年)。のちジョン王より封建法上の手続きによってノルマンディ,メーヌ,トゥレーヌ,アンジュー諸地方を没収,王領を一挙に拡大した。フランドル伯,ドイツ国王オットー4世と同盟したジョンの反攻をブーヴィーヌの戦いに撃破(1214年),国王の権勢を内外に示した。また有給官僚の創設,裁判の審級制の開始,ルーヴル宮の構築,パリの美化などに功績があった。

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367日誕生日大事典 「フィリップ2世」の解説

フィリップ2世

生年月日:1165年8月21日
フランス王(在位1180〜1223)
1223年没

フィリップ2世

生年月日:1342年1月17日
フランス王ジャン2世の第4子
1404年没

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世界大百科事典(旧版)内のフィリップ2世の言及

【カペー朝】より

…いま一つは諸侯,貴族の国王に対する封建的な忠誠義務であるが,血統に由来する正統性を主張できない初期のカペー王権としては,この点ではせいぜい道徳的な臣従礼を要求できたにとどまる。ただ歴代国王は男子に恵まれたこともあって,在世中に王子を諸侯に選立させて共同王位につけ,事実上の世襲化をはかり,徐々にカペー朝の合法性をつくりあげ,フィリップ2世の時代には名実ともに世襲王制を確立することに成功した。
[王権の覚醒と集権化過程]
 ルイ6世(肥満王,在位1108‐37)は,王権理念を最初に意識した国王で,カペー家直轄領の内部または周辺部に割拠する城主たちを国王の直臣層として掌握し,権力の真空地帯を埋めるとともに,王領の管理,行政を固めていった。…

【コミューン都市】より

…フランシーズ都市は中部の王領に分布し,〈フランシーズ(特権)証書〉を付与され特権を享受するが,国王代官プレボprévôtにより統治される(プレボ都市ともいう)。 1070年にル・マン市で最初のコミューンが結成された後,その運動は北フランス一帯に広がり,フィリップ2世の治世(1180‐1223)に頂点に達した。コミューン運動の目的は“平和”の獲得であった。…

【十字軍】より

… 12世紀中葉から末期にかけて,十字軍側と,ファーティマ朝を打倒してエジプトとシリアにまたがるイスラム統一勢力を結集した英傑サラーフ・アッディーン(サラディン)を始祖とするアイユーブ朝(1169‐1250)の〈ジハード(聖戦)〉との戦いは,エルサレムの争奪をめぐって熾烈となり,1187年7月ヒッティーンの戦に大勝したサラーフ・アッディーンはエルサレムを同年10月に奪回した。これに対し西欧3大国の君主(イングランド王リチャード1世,フランス王フィリップ2世,神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)が勢ぞろいした大規模な第3回十字軍(1188‐91)が編成され,両者の争いはその最高潮に達したが,結局西欧側の退勢を挽回し得ず,かろうじて1192年エルサレムへのキリスト教徒巡礼の自由通行を保障する協定の締結をもって幕を閉じた。
[中期十字軍]
 西欧側は臨時首都アッコを中心として,エルサレムなき残存領土の維持に努める一方,シリア・パレスティナの外周地域で間接的作戦を行いつつ,外交手段をもってエルサレム奪回を企てた。…

【パリ】より

…農村共同体の成立とともに,パリ周辺では修道院を中心に農地の開墾が盛んに行われ,パリを中心とする物資の流通も発展した。後にグレーブ広場となるセーヌ川右岸の河岸に市場が開かれたが,ルイ6世は1137年にこの市場を当時シャンポーと呼ばれた場所に移転させて規模を拡大し,さらにフィリップ2世(在位1180‐1223)は,市外のサン・ラドル市場もそこに併せ,高い屋根の別棟を二つ建てた。これが1969年まで維持されたレ・アル(パリ中央市場)の起源である。…

【百年戦争】より

…1360年のブレティニー・カレー条約までを第1期,1415年のアザンクールの戦,もしくは1420年のトロアの和約の前と後を第2期,第3期に分けることができる(図)。
[ブレティニー・カレー条約まで]
 1337年,フランス王フィリップ6世(在位1328‐50)は,1328年に彼が即位したときイギリス王エドワード3世がアキテーヌ(ギュイエンヌ)公領について彼に立てた臣従誓約に不備があったと言いたてて,公領の没収を宣言した。エドワード3世はこれに対し,フィリップ6世を〈自称フランス王〉と呼び,フランス王の封臣としての立場を自ら解除した。…

【ファン・アイク】より

…はじめハーグのホラント伯の宮廷にミニアチュール画家として仕える。1425年以降ブルゴーニュ公の宮廷画家また侍従として活動し,しばしば特使として遠国に派遣され,とくに28‐29年にはポルトガルに滞在し,同国の王女イサベラを主君フィリップ(善良公)の妃として迎えることに尽力した。このような活動は後のルーベンスにも見られ,組合に所属する一般の画家とは異なった特権や待遇を受けていた。…

【ブルゴーニュ公国】より

…ヌベール,オーセール,マコンなどは分離して,それぞれ伯領をつくった。
【バロア家系ブルゴーニュ公家】
 1361年,最後の当主フィリップ・ド・ルーブルの死後,直系の相続者を欠いた公領は,いったんフランスのバロア王家に吸収されたのち,1363年,王家当主ジャン(ジャン2世)の末男フィリップに与えられた。これがバロア家系ブルゴーニュ公家の起源である。…

※「フィリップ2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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