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フランス史 フランスし history of France

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フランス史
フランスし
history of France

フランス人の歴史は旧石器時代にさかのぼるが,ドナウ方面から移動したケルト人 (ガリア人) を基としている。ローマ人の征服の結果,ローマ文化が浸透 (ガロ・ロマン文化) したが,5世紀以来西ゲルマンフランク民族が北東部に移動。

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フランス史
フランスし
Histoire de France

フランスの歴史家ジュールミシュレの代表作。 1833~67年刊。「起源から 1483年まで」 (6巻,1833~43) と「ルネサンスから大革命まで」 (11巻,55~67) の2期にわたって刊行。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フランス史
ふらんすし

時代区分と特色

フランスの歴史は、普通、先史、古代、中世、近世、近代、現代の各時代に区分されるが、その具体的な適用の仕方については、基準のたて方によって異なりうる。さしあたり、先史時代は、旧石器文化のクロマニョン人時代から、新石器時代を経て、初期ケルト部族の時代までとみることができる。古代は、ケルト人の活躍を経て、ローマのカエサルによるガリア征服から、ローマ支配の崩壊までをさし、中世は、メロビング朝の時代から英仏百年戦争まで、つまり封建社会の形成と展開の時期とみなされる。近世は、統一国家の姿を整え始めるルイ11世時代(15世紀後半)から、絶対王政が崩壊する18世紀末までで、資本主義経済が芽生えてくる時期である。近代は、フランス革命から1871年のパリ・コミューン革命までと考えられる。また現代は、政治、経済、文化の現代的諸特徴が形成され始める第三共和政以降現在までの時期とみなされうるが、20世紀以降(あるいは第一次世界大戦以降)を現代とする見方などもある。
 ところで、以上のなかで、近代を成立させたフランス革命がとくに重要な地位を占める。それは世界史のうえでも画期的な事件であった。フランスが、先進的な政治、文化を生んだ国として他国から評価されるのも、フランス革命に負うところが大きい。確かにそれは、近代市民社会や民主主義を世界史のなかに確立するうえで、決定的な意味をもったのである。また、フランス革命以後の近・現代フランス史の際だった特徴は、革命やクーデターによる政治変革が多いということである。19世紀だけでも革命が3回、クーデターが1回起こっている。そしてこうした諸変革のたびに、フランス革命の原点への復帰が強く志向されていることが特徴的である。[中木康夫]

先史時代と古代


先史時代
旧石器時代のフランスには、クロマニョン人とよばれる最古の人種が存在し、狩猟や漁労などの経済活動をしていたことが知られている。その後、寒冷期を経て、新石器時代になると、洗練された石器文化と原始的な農耕経済をもつ人種が現れた。このころフランス各地に、ドルメンやメンヒル(メニール)とよばれる巨石建造物がつくられたが、とくにブルターニュでは、紀元前5000年からそれが集中して設けられ始め、前3000~前2000年ごろには巨石文化の最盛期を迎えたという。この巨石文化の担い手となった人種は、なお明らかでない。ついで、青銅器時代(前15世紀ごろ盛期)に入って、インド・ヨーロッパ語族に属する諸部族が、ドナウ川周辺やアルプス方面からフランスに浸透してきたが、前9世紀ごろから、とくにケルト人の来住が活発となった。[中木康夫]
ケルト時代
前5~前3世紀に、ケルト人の集団は、鉄器文化の確立による優越性をもとに、フランスの大半を占拠し、最盛期を迎えた。ローマ人は、このケルト系部族をガリイ(ゴール人)とよび、フランスをガリアとよぶようになった。カエサルの『ガリア戦記』によれば、前1世紀ごろのガリアでは、キウィタスCivitasとよばれる政治的団体(いくつかの部族が集合した単位国家)が50~60あり、部族の内部では、騎士(戦士)および僧侶(そうりょ)(祭司、ドルイドDruide)という支配層と、平民や奴隷といった被支配層への分化が進んでいた。ガリア社会では、牧畜のほか、原始的な犂(すき)を使った農耕経済が行われていた。[中木康夫]
ローマの支配
ケルト系諸部族の勢力が衰退に向かって内部抗争が進むと、これに乗じ、ローマからの派遣知事カエサルが前58年にガリア征服を開始し、8年間でガリア全土を支配下に置いた。ここにガリアのラテン化、すなわちガロ・ロマン文化が始まる。旧ケルト系部族の政治組織を利用した統治方式によって、ローマのガリア支配は紀元後70年ごろから2世紀末ごろまで安定をみた。とくに都市文明のローマ化と発達が目覚ましい。また、キリスト教が1世紀末からガリアに入り、都市を中心に迫害に抗して浸透した。2世紀末から、ローマ帝国の衰退を反映してガリアでの内乱が始まり、一時的な安定はあったものの、3世紀中ごろふたたびローマの内乱とゲルマン人の侵入によってガリアの社会は混乱に陥った。ゲルマン系諸部族のガリア侵入は、4世紀末~5世紀ごろから本格的な大移動となった。西ローマ帝国はこのなかで5世紀なかばに滅亡し、ケルト的社会も解体して、ガリアは新たな西ゲルマン系フランク人によって支配された。ガロ・ロマン文化とゲルマン文化との融合によるフランス文化の形成がここに始まる。また、ゲルマン系諸部族と在来のケルト系、イベリア系、リグリア系(南部)などの雑多な人種の混血によるフランス人の形成が行われていく。[中木康夫]

封建社会の形成と展開


フランク王国
5世紀末から10世紀に至るフランク王国時代は、西ヨーロッパ中世世界成立の準備期であると同時に、独自のフランス社会の揺籃(ようらん)期でもある。西ゲルマンのサリ支族出身のクロービス1世(在位481~511)は、北フランスからライン川にかけてメロビング朝フランク王国を建設し、さらにガリアの大半を王国に統合した。その子たちの代になって、532年にフランク王国は全ガリアを支配した。この統一にあたっては、クロービスがキリスト教に帰依(きえ)し、ローマ・カトリック教会と提携したことが大きく貢献している。王国の内部では、定住農業経済が発達し始め、7世紀ごろから、初期中世の農業制度である古典荘園(しょうえん)が芽生え始めた。このころの荘園は、領主の直営地(領主が奴隷や保有農によって自らの土地を耕作させる)と農民保有地とに分割されていた。
 フランク王国内部では、やがて内紛が始まり、王宮の最高官である宮宰職を支配したピピン家のカール・マルテルは、イスラム教徒の侵入をポアチエで破って(732)勢力を固め、その子ピピン(小)(在位751~768)は751年王位を奪取し、教皇の同意によってカロリング朝を開いた。その子カール大帝(シャルルマーニュ、在位768~814)は、北イタリアから北欧に至る広大な地域を支配する大帝国を築いて東ローマ(ビザンティン)帝国から独立し、またローマ教皇権を東ローマの東方正教会から自立させて、西ヨーロッパ世界の基礎をつくった。しかし、フランク王国は、古典古代世界および東方世界から分離したヨーロッパ中世世界の成立への、過渡的帝国にほかならない。それは、統一国家としての機構をももたず、分裂せざるをえなかった。大帝の死後、各地豪族の分立が強まり、ついに王家も分裂、843年のベルダン条約によって、王国は、東フランク、西フランクおよび中部フランクに三分割された。このうち西フランク王国が今日のフランスにあたる地域を支配した。しかし、9世紀初めから集団的侵入を開始していた北方ノルマン人は、10世紀に入るとノルマンディーを占領し、こうした外患を受けつつ、西フランク王国内部で内紛が発生した。すなわち、成り上がりの戦士貴族ロベール家とカロリング王家との抗争が長期間続いたが、結局、ロベール家のユーグ・カペー(在位987~996)がカペー朝を樹立して、フランク王国は消滅した。[中木康夫]
封建社会の成立
カペー封建王政は、フランス最初の長期王朝(987~1328)となった。キリスト教会はカペー朝と結び付き、王の権威を支える精神的支柱とされた。また、カペー朝のもとで、初期封建国家の特徴である、諸侯および中小領主の分立割拠が進んだ。城を拠点とする領主権力の確立によって、領地ごとの小主権国家が分立した。こうした領主権力の自立を可能にしたものは、自足的な経済単位となった領主制である。それは、12世紀を中心とする目覚ましい農業技術革新によって支えられた。土地の大開墾が進み、北フランスを中心に三圃(さんぽ)制農法が普及し、それと結び付いて農村共同体組織が確立した。領主は、共同体を仲立ちとして農民を支配したが、古典荘園(しょうえん)期の農奴制はしだいに影を潜め、主として生産物での年貢(地代)によって領主経済が確保された。
 ところで、こうした領主権力の分散は、領主相互の対立、緊張を引き起こすから、無秩序を避けるために、上級領主と下級領主の間に保護忠誠の人格的主従関係が結ばれ、そうした全体の均衡を保つ権威として、神(キリスト教)に支えられたカペー朝の地位が固まったといえる。中世キリスト教は、こうして封建社会の秩序をますます強固に支える精神的権威となった。10~11世紀のクリュニー修道院の改革運動を口火として、世俗権力からの教会権威の分離が完成され、キリスト教はさらに発展した。11世紀末から13世紀にかけての十字軍遠征も、こうしたキリスト教拡大の現れである。それは、直接には聖地エルサレムをイスラムから確保する目的で行われたが、教皇の宗教的権威拡大や、イタリア諸都市の商業的利害、封建貴族の野心なども絡んでいた。とくにサン・ルイ(ルイ9世、在位1226~70)時代が最後の大規模な遠征となった。[中木康夫]
英仏百年戦争
王権の伸長にはなお多くの障害があった。ブルゴーニュ公やノルマンディー公などは王権に匹敵する巨大な領土と武力をもち、とくにノルマンディー公ウィリアム(征服公)は1066年イギリスを征服して王権に脅威を与えた。さらに12世紀中ごろ、王妃アリエノール(エレオノール)・ダキテーヌが国王ルイ7世(在位1137~80)と離婚して、アンジュー伯アンリ・プランタジュネと再婚したが、このアンリ(後のヘンリー2世)が2年後(1154)にイギリス王位を相続してプランタジネット朝を開き、その領土はイギリスからフランス西半に及んだ。これが後の百年戦争の一因となる。カペー王家の巻き返しは、フィリップ2世オーギュスト(尊厳王、在位1180~1223)によるイギリスのジョン欠地王との戦いでの勝利から始まり、これでプランタジネット朝のフランス領の大半を奪い返した。南部では、アルビジョア十字軍によって王領が拡大した。
 12、13世紀には、手工業生産力の発達に伴い、各地に中世都市(北フランスではコミューンとよばれる自治都市)が勃興(ぼっこう)し、そこに市民層が成長してきた。13世紀初めには、自治団体としてのパリ大学も成立した。フィリップ4世(美王、在位1285~1314)は、教皇や大諸侯を牽制(けんせい)しつつ権力拡大を進める手段として都市商人層を利用し、僧侶(そうりょ)、貴族、市民の三身分からなる全国三部会(または等族会議、エタ・ジェネロEtats Gnraux)を招集したが、ここにフランスは身分的君主制といわれる段階に入っていく。さらにフィリップ4世は、ガリカニズム(教会を国家の政治権力下に置こうとする国家教会主義)に立って教皇権と争い、教皇の座をアビニョンに移させて(1309~78)、フランス国家主権の至上性を誇示した。またこの時代から、パリ高等法院(パルルマン)も最高法院としての発展を始める。
 1328年にカペー朝が断絶すると、イギリス国王エドワード3世はバロア朝を認めず、王位継承権を主張してフランスに侵入し、百年戦争が開始された。英仏抗争の背景には、フランドル毛織物地帯の争奪など経済的利害関係があった。フランス側は敗戦を重ねたが、さらに、1358年にはパリ市長エチエンヌ・マルセルの乱や北フランスの農民戦争(ジャクリーの乱)が起こって、国内は混乱した。一時的な安定はあったものの、王権のその後の衰退は争えず、とくにブルゴーニュ公は独立王国の形成に向かう。イギリス王ヘンリー5世は機に乗じて1415年フランスに侵入し、フランス軍を大敗させ、ブルゴーニュ公と結んで北フランスを支配して、フランス王位継承権を入手した。フランスは三分され、バロア朝は南フランスのブールジュに退いた。しかし、1429年ジャンヌ・ダルクがシャルル7世(在位1422~61)の救援に赴き、イギリス軍への総反撃を援助した。彼女の出現が民衆の士気を燃え上がらせたこともあって、結局イギリス軍追い落としは成功していき、1453年のボルドー攻略によってフランスは完勝し、百年戦争は終了した。[中木康夫]

絶対主義とアンシャン・レジーム


絶対王政の成立
その後、ルイ11世(在位1461~83)からフランソア1世(在位1515~47)にかけてバロア朝は王権の拡大に努め、1477年にはブルゴーニュ公国を併合、さらに1532年ブルターニュ公国をフランスに併合した。このころルネサンス文化が花開き、ロアール川流域には華麗な城が築かれ、ラブレーなどの文学も現れた。しかし政治体制の面では、なお有力諸侯の自立性は高く、中央集権にはほど遠かった。しかも経済の面では、地代の金納化が進み、農民の経済的上昇や自立化、下級領主の没落とその土地の新興商人への移行などによって「領主財産の危機」が深まった。こうした事情を背景に、16世紀中ごろには宗教改革運動、とくにカルビニズムが、まず都市、農村の手工業者や農民に広まり、ついで王権を左右する旧教系大貴族に不満をもつ貴族層(とくに下級貴族)に浸透した。フランスのカルバン派の新教徒はユグノーHuguenotとよばれ、ユグノー貴族の指導者はブルボン家のアンリ・ド・ナバル(ナバラともいう)であった。旧教徒側には名門ギーズ家など有力大貴族がたち、両派の抗争が激化した。バロア朝(幼王シャルル9世の摂政カトリーヌ・ド・メディシスやアンリ3世)は両派に対し均衡政策をとり、王権の再興を目ざした。しかし、両派の抗争は、1562年から98年までの数次の宗教戦争(ユグノー戦争。1572年の「サン・バルテルミーの虐殺」は有名)に発展した。やがて王国の統一と秩序安定を最優先とする中間派のポリティークPolitiques派(高等法院官僚や大商人など)が出現し、アンリ・ド・ナバルと提携するに至った。アンリ・ド・ナバルは下級貴族や農民の支持も得て、ギーズ家側に対ししだいに優勢となり、アンリ3世の暗殺(1589)によるバロア朝断絶を機として自ら旧教に改宗し、アンリ4世(在位1589~1610)として王位につき、ブルボン朝を開いた。そして、1598年のナントの王令(勅令ともいう)により両派の妥協を成立させ、王国の統一を完成した。[中木康夫]
絶対王政の展開と没落
これ以後フランスは、国王に全権が集中する絶対王政となり、この時期からフランス革命までをアンシャン・レジームAncien Rgime(旧制度)時代という。アンリ4世は、三部会を招集せず、権力集中と経済再建に努めたが、1610年暗殺された。次のルイ13世を補佐した宰相リシュリューは、反抗する貴族や新教徒を抑圧し、中央から任命される地方行政官(知事、アンタンダンIntendant)制度を確立して中央集権を強めるとともに、対外的には重商主義政策をとり、ハプスブルク家との三十年戦争を有利に進めた。リシュリューを継ぐ宰相マザランは三十年戦争に勝利し、1648年アルザスなどを獲得した。しかし国内では、財政危機や民衆の反乱を背景に、知事制などの中央集権に不満をもつ各地の高等法院や大貴族が「フロンドの乱」(1648~53)を起こし、王国は一時解体状態となった。乱の平定後、1661年にルイ14世(太陽王、在位1643~1715)が親政に乗り出した。この時代はフランス絶対王政の絶頂期である。芸術面でも、モリエール、ラシーヌなどの劇作家が活躍している。
 ルイ14世は、新興官僚コルベールを財政総監(首相格)に登用して重商主義による対外進出を進めさせ、1672年からのオランダ戦争でフランシュ・コンテなどを獲得した。また、コルベールは毛織物工業の育成に努め、輸出競争に力を入れた。政治面では、ルイ14世は、枢密院(コンセイユ・ダンオーConseil d'en haut)を王国統治の最高機関とし、知事制を中核とする中央行政機構を整えた。しかし、コルベールの死(1683)とともに重商主義は衰え、ナントの王令廃止(1685)によって多くの新教徒の中産的産業家がオランダ、イギリス、スイスなど国外に亡命して、工業力も低下した。さらに、ルイ14世晩年のスペイン王位継承戦争(1701~13)ではイギリスに敗れるなど、絶対王政の前途に陰りが現れた。次のルイ15世(在位1715~74)の時代から絶対王政は解体に向かう。農民経済の上昇や農村工業の発達を土台に、下から資本主義がしだいに成長し、封建経済は衰退していく。18世紀後半になると、産業革命前夜を迎えたイギリスの急速な発展に比べてフランスの後進性が際だつようになり、そのような現状を批判して、ルソー、ボルテール、モンテスキュー、ディドロらの啓蒙(けいもう)思想家が現れた。ルイ16世時代(在位1774~92)には、アメリカ独立戦争への介入もあって財政危機が深まった。王権は、チュルゴー、ネッケルら財政総監によって租税改革を目ざしたが、高等法院など特権身分の反抗によって成功せず、しかも農業の不作、工業の不況などの経済危機によって民衆の不満も急速に高まった。[中木康夫]

革命と帝制の時代


フランス革命とナポレオン(第一)帝政
絶対王政は、高等法院など貴族の反抗に押されて1787年名士会を、ついで1789年三部会を招集した。この三部会で改革派の自由主義貴族と第三身分(上層市民)が結んで多数派となり、三部会を国民議会に変えた。ルイ16世は、軍により抑圧を図ったが、同年7月14日のパリ民衆の蜂起(ほうき)(バスチーユ占拠など)によって国王側の企図は失敗した。1791年6月の国王亡命未遂事件をきっかけに王制廃止要求が高まったが、議会は王の権利を残した妥協的な憲法(立憲君主制)を定めた。しかし、オーストリアがフランス王室や亡命貴族と結んで軍事干渉を始め、1792年4月議会はオーストリアに宣戦布告した。戦況不利のなかで、同年8月10日、愛国主義にたつパリ民衆が蜂起し、議会は王制停止と男子普通選挙による国民公会の招集を決定した。国民公会では、自由主義貴族およびこれに妥協的な上層市民(大金融業者など)の連合によるそれまでの支配勢力は崩れ、中小ブルジョアや民衆に支えられたパリ市自治委員会(ジャコバン派Jacobins)の支持を受けた山岳派(モンタニャールMontagnards)が優勢となった。1793年1月の国王処刑に続く第一次対仏大同盟の圧力や、国内の貴族反乱の危機のなかで、6月初め国民公会からジロンド派が追放されて山岳派の独裁(広くはジャコバンの独裁)が成立した。さらに、同年10月、公安委員会を中心とする革命独裁政府が樹立され、ロベスピエールらが指導者となった。革命政府当局は、封建地代の無償廃止(農民解放)によって農民の支持を固め、恐怖政治によって国内反革命を抑え、対外的にはヨーロッパ干渉軍を駆逐して市民革命の課題を達成した。しかし、危機が遠のくと、ブルジョア階級と下層民衆との対立が深まって山岳派の支持勢力は分裂し、上層ブルジョアを背景とする勢力が94年7月クーデター(テルミドールの反動)を行ってロベスピエールを逮捕し、ジャコバンの独裁は解体した。そして、三権分立制にたつ政権、ディレクトアールDirectoire(総裁政府)が成立したが、王党派の反革命クーデター計画の頻発で動揺し、さらに1799年3月にはイギリスを盟主とする第二次対仏大同盟が結成されて、内外の危機は深まった。このとき、イギリスに打撃を与えるためエジプトに遠征していたナポレオンが帰国し、クーデターによって権力を握り、コンシュラConsulat(統領制あるいは執政制)、ついで帝制(1804)という独裁制を打ち立てた。
 ナポレオン1世による第一帝政は、フランス革命の成果を内外の封建勢力から守るための非常体制として、農民や新興ブルジョア階級の支持を受けたが、国家権力は皇帝に集中し、官僚制が発達した。ナポレオンは、自由な独立農民を土台とする精強な軍事力によって封建ヨーロッパの攻勢を粉砕し、対仏大同盟を解体させ、ついに大陸の大部分を支配下に置いた。また、ナポレオン法典(1804公布)によって近代法の基礎をつくった。しかしナポレオンは、先進イギリス資本主義に対して幼弱なフランス資本主義を育成するというフランスの国益中心の政策を押し出し(1806年の大陸封鎖令など)、彼の大陸戦略はしだいに他国民に対して抑圧的な性格を強めた。このため、大陸諸民族の反抗を呼び起こし、1812年のモスクワ遠征の失敗をきっかけとして没落に向かい、1813年ライプツィヒにおいて対仏連合軍に敗北し、翌年エルバ島に流された。彼は、一時脱出して「百日天下」をとったものの、1815年ワーテルローの会戦で決定的に没落した。
 フランス革命とナポレオン(第一)帝政がフランス史に残した遺産は大きい。ジャコバン独裁は、フランス国民にジャコバン主義気質という伝統を与えた。ジャコバン主義とは愛国主義と平等主義の結び付いたもので、19世紀以後の諸革命にはつねにこの理念の再生がみられる。また、ボナパルティスムの原型とされるナポレオン帝政は、フランスの危機のたびに、国民的課題の解決を強力な指導者に期待する権威信仰を生み落とした(第二帝政やドゴールによる第五共和政の成立の例)。[中木康夫]
七月革命から二月革命へ
1814年ブルボン朝ルイ18世(在位1814~24)が復帰し、王権の優位をもつ立憲君主制を定めた。選挙権を高額納税者(とくに地主)に限ったため、議会は王党派で固められ、とくに初期にはフランス革命の原理の否定を目ざす、亡命貴族、大土地所有者、聖職者などからなる極端王党(ウルトラUltra)が進出した。1824年王位についたシャルル10世(在位1824~30)は、ウルトラと組んで反動政治に走って、既成事実を認める温和な立憲王党や野党(オルレアン派など)と対立した。1830年選挙で反対派が多数を占めると、王は議会を解散し、7月勅令によって弾圧したが、これが導火線となり、経済危機で苦しむパリの民衆が蜂起(ほうき)して七月革命となった。
 シャルル10世は退位、亡命し、立憲王党左派(ギゾーら)やオルレアン派が連合して、オルレアン王朝ルイ・フィリップ(在位1830~48)を王位につけ、王権の優位を否定した新憲法を制定した(七月王政)。しかし選挙権は多少拡大したものの、やはり高額納税者に限られ、とくに大金融貴族、高級官僚の進出が目だった。大ブルジョアが活躍するこの時代の世相は、大作家バルザックによって活写されている。七月王政を支える政治勢力は、抵抗党と名づけられ、ギゾーがその指導者であったが、それはとくに大金融貴族の利害に結び付いていた。このような大金融貴族は、諸国公債の引受け、投機など国際金融を中心とし、鉄道事業投機にも進出したが、その分だけ社会的資金を吸い上げて、産業革命を目ざす一般産業家の資金不足を引き起こした。このため、不満をもつ中小ブルジョアは、反抵抗党のオルレアン左派や共和派を支持し、また労働者、職人も共和派左翼(社会主義派)を支持した。1846年からの不作や不況を背景に政府への不満が高まり、1848年2月、共和派の計画した選挙権改革集会へのギゾー政府の弾圧をきっかけに、パリの民衆が蜂起して七月王政は倒れ、二月革命となった。
 ここに、ブルジョア共和派を中心にして急進共和派、社会主義派(ルイ・ブラン)を加えた共和制臨時政府が成立したが、国民作業場や労働委員会など社会政策の問題をめぐってブルジョア共和派と民衆との対立は深まり、ついに国民作業場の閉鎖をきっかけに同1848年6月のパリ民衆の蜂起(六月事件)となった。この鎮圧を主導した将軍カベニャックが共和派政府の中心となり、大統領制をもった1848年憲法が成立した。これに基づき12月に行われた大統領選挙で、ナポレオン1世の甥(おい)ルイ・ナポレオンが共和派カベニャックに圧勝して当選した。[中木康夫]
第二帝政とパリ・コミューン
ルイ・ナポレオンは、国民の失業と貧困の問題を解決するためには、イギリスに対抗できる農・工業生産力の増大が必要であり、それには鉄道網の建設や近代的銀行制度の完成が不可欠であると考え、そのための政治的条件として、国民の支持を受けた強力な独裁制が必要であると主張した。この構想に基づき、彼は1851年12月2日、秩序党(王党派)の支配する議会に対しクーデターを決行し、大統領に全権を集めた第一帝政型の独裁制を人民投票によって成立させ、翌年12月にナポレオン3世(在位1852~70)として帝位についた。彼は、強力な中央集権制のもとに、農業危機を解消して農民の支持を固め、信用改革と鉄道建設を土台に産業革命を完成させ、またスエズ運河の建設やパリの都市改造を行った。対外的にはナショナリズムにたって、クリミア戦争、イタリア戦争、メキシコ遠征を行った。しかし、彼の権威主義的、中央集権的独裁はしだいに大都市民衆の反発を招き、1870年9月、プロイセン・フランス戦争の敗北によって帝制は崩壊した。
 敗戦の直後、パリで共和制臨時政府が成立した。ドイツ軍のパリ包囲のなかで、ジャコバン的愛国主義に目覚めたパリの民衆は、徹底抗戦を要求したが、政府は1871年1月パリを開城、降服した。ビスマルクの要求に基づき、国民議会選挙が行われ、即時和平を掲げた王党派が圧勝した。行政長官となったチエールは、和平条約を結んだあと、パリ民衆の武装解除に乗り出したが、これに対しパリ全市に反乱が起こり、チエール政権はベルサイユに逃亡した。3月18日、コミューン選挙が行われ、三権分立制を採用せず、民衆の直接民主主義に支えられるパリ・コミューン評議会が成立した。ベルサイユ政府はドイツ軍の支持を得てコミューンを攻撃し、5月28日コミューンは壊滅した。[中木康夫]

帝国主義時代と現代


第三共和政の成立と展開
1875年、王制復活の困難を認めた王党派の分裂により、議会は大統領制、上下両院制をもつ共和制憲法を決定した。79年、王党派の大統領マクマオンの辞任によって、共和派は大統領、上下両院を支配した。初期の共和政を主導した勢力は、オポルチュニストOpportuniste(日和見(ひよりみ)派)と称せられ(中心人物はフェリー)、内政的には経済建設と反教権主義(政治や教育への教会の介入を排除する政策。具体的には、初等教育の世俗化、無償・義務化)を進め、対外的には、ドイツとの対決を避けつつ、敗戦で傷ついた愛国主義をいやすため海外植民地に進出した。これに対し、内政民主化徹底と対独復讐(ふくしゅう)を主張する急進派のクレマンソーが対立した。上層金融界と結んで議会を支配する日和見派の不人気は高まり、1887年の独仏国境紛争事件による対独復讐熱を利用した将軍ブーランジェの反議会主義運動、いわゆるブーランジェ事件はこうした大衆的不満の最初のはけ口となった。さらに、1894年に始まるドレフュス事件は、対独復讐熱を高めたほか、反ユダヤ主義や軍国主義、右翼の反議会主義を高揚させ、ついに日和見派は分裂してその支配は1899年に崩れた。これ以後政権は、地方農民、中小資本などを基盤とする急進派(のち急進社会党)中心の左翼共和派に移り、クレマンソーの支配力が増大し、社会党(ジョレスら)も進出した。しかし、すでに国際的にも帝国主義の時代に入っており、フランスも1894年のロシア・フランス同盟に続き、1904年イギリス・フランス協商を成立させ、対独戦争準備に入っていく。共和右派ポアンカレ政権の成立後、1914年に第一次世界大戦が始まった。当初、議会は全会一致して戦争協力のための「神聖連合(ユニオン・サクレ)」をつくり、労働総同盟も協力態勢に入った。しかし、戦争は長期消耗戦となり、国民の不満も高まって、1917年のロシア革命をきっかけに、社会党の離脱により神聖連合も崩れた。クレマンソー政権は、強権をもって反戦運動を抑圧し、1918年末のドイツ帝国の崩壊をも利して戦争を勝利に導いた。
 戦後は、共和右派中心の「ブロック・ナショナル」Bloc National派が政権を支配し、対独強硬政策をとった。とくにポアンカレ政権は、賠償不履行を理由に1923年ルール占領を行った。しかし、経済危機の深まりを背景に、1924年選挙で急進社会党・社会党の左翼連合政権(エリオ内閣)が成立した。同政権は、対外的には賠償の緩和、ロカルノ条約による集団安全保障体制など平和外交(ブリアン外交)を進めたが、国内では財界の不協力もあってインフレ克服に失敗し、1926年崩壊した。これにかわる共和右派ポアンカレ政権は、財界の協力を得てフランの切下げと安定に成功し、インフレを収めた。1926~1929年は、自動車産業など新型重化学工業の目覚ましい成長期であり、フランスは戦前の農業国から離脱した。しかし、29年アメリカで始まった世界恐慌は、1931年フランスに波及し、農業不況と相まって深刻な経済危機に入る。1932年以後の急進社会党政権は、恐慌安定策に失敗し、また1933年のスタビスキー疑獄事件などもあって、国民の議会に対する不信が高まり、翌年2月のパリ右翼大暴動となった。その直後、前年ドイツでのナチス政権成立などでファシズムへの危機感をもっていた大衆は、2月ゼネストを成功させ、共和制擁護の意志を示した。さらに、コミンテルン(第三インターナショナル)の方針転換、仏ソ相互援助条約などの影響も受けて、1935年6月、急進社会党、社会党および共産党が連合し、反ファシズム、共和制擁護、恐慌解決を掲げて人民連合(人民戦線)を結成し、1936年選挙で勝利して、レオン・ブルム(社会党)による人民戦線内閣が成立した。しかし政府は、資本の海外逃避もあって経済政策に失敗し、危機を解消できず、また対外的にはスペイン内戦への介入をめぐって陣営内が分裂し、1938年11月急進社会党の離脱により人民戦線は崩壊した。共和右派レイノー内閣のもとで1939年9月、ナチスのポーランド侵入をきっかけに対独宣戦し、第二次世界大戦に入った。[中木康夫]
第四共和政
1940年5月、ナチス機甲部隊のフランス突入によってフランスは大敗し、6月降服した。北フランスはドイツ軍に占領され、元帥ペタンを首席として南フランスにビシー政権が成立した。第三共和政は消滅し、国家首席に全権が集中する独裁制が成立した。ペタンを継ぐラバルは、対独協力により積極的となった。これに対し、ロンドンに亡命した将軍ドゴールは亡命政権をつくり、国内では反ナチ・レジスタンス(抵抗)運動が高まって、両者の提携が成立した。1944年6月の連合軍のノルマンディー上陸作戦をきっかけにレジスタンス軍の総反撃が始まり、8月パリは解放され、ドゴールが帰還して臨時政府が樹立された。同年中にフランスは完全に解放された。1945年の総選挙では、レジスタンスに活動した共産党、人民共和運動(MRP)、社会党の三党が圧勝し、三党連合によるドゴール内閣が成立した。そのもとで、前年のルノー工場、炭坑に加えて、四大銀行、電力、ガスが国有化され、モネ・プランMonnet Planによる戦後経済計画が発足した。しかし、ドゴールは政党との対立によって1946年1月辞任し、そのあと、三党連立内閣によって、議会(とくに下院)に強い権限を与える新憲法が同年10月制定され、女性参政権も確立をみた。ただし、第四共和政下でも多党分立はついに克服されなかった。
 1947年に米ソ間の冷戦が開始されて国際緊張が高まったが、フランスでも同年、第一党の共産党閣僚が政府から排除されて、三党政治(トリパルティスム)は終了した。以後、社会党、MRP、急進社会党中心の中道政治時代(1947~58)に入るが、この中道勢力(第三勢力)は、アメリカの経済援助による戦後復興推進の立場もあって、対米協調を優先し、共産党、ドゴール派の反発を受けた。中道政治時代における最大の困難な問題は植民地問題であって、インドシナ(ベトナム)、アルジェリア、チュニジアなどで民族解放運動が高まり、政府は抑圧のため巨額の軍事費支出を強いられた。1954年5月、ベトナムのディエン・ビエン・フーにおけるフランス軍降服は、植民地政策の一大転換期となった。同年6月成立したマンデス・フランス(急進社会党左派)政権は、ベトナム、チュニジアの独立を認めるに至った。しかし、残るアルジェリアの戦争は泥沼となり、第四共和政政府に不満をもつ現地軍とコロン(入植者)は58年5月、MRPのフリムラン政権の成立を拒否して反乱を起こし、本国進撃の気配をみせた。将軍ドゴールは、現地ドゴール派を仲介に反乱軍を掌握し、この力を背景とする事実上のクーデターによって、6月議会から全権を獲得した。[中木康夫]
第五共和政
ドゴールは、1958年9月、第五共和政憲法を作成し、同月国民投票で承認させ、12月自ら大統領に選出された。この憲法では大統領の権限がとくに強大で、議会はこれに対抗できない。さらに、62年の改革によって、大統領は直接国民から選挙されることになり、ドゴールはボナパルティズム型の政治体制を築くことができた。ドゴール体制が成立した背景としては、第四共和政以来の政治的、経済的対米依存からフランスを自立させ、米ソ間の谷間に転落したフランスの力を再興するというナショナリズムが作用しており、それが国民の支持を受けたとみられる。そして彼にとって、フランスの政治的、軍事的自立のためには、フランス経済の後進性を克服して、高度な重化学工業力に支えられた経済力を築くこと、そしてそのためにも、不生産的支出を強いる植民地を切り捨てることが必要となる。しかも植民地放棄は、フランスの自立外交を進めるうえで第三世界の支持を得るためにも必要であった。こうしてドゴールは、62年、アルジェリア独立を国民投票で決定させたほか、各植民地を独立させて、第三世界の共感を得た。また、58年EEC(ヨーロッパ経済共同体、のちEC)を発足させるとともに、農業の機械化と構造改革、重化学工業の発展を推し進めてフランスを高度工業国にし、この経済力を背景に、対米自主外交を展開した。60年のサハラ核実験をはじめとする独自の核武装計画、66年の北大西洋条約機構(NATO(ナトー))の軍事機構からの脱退通告、64年の中国承認、そして当時のソ連・東欧圏への接近、アジア・アラブ民族運動の支持などはその現れである。しかし、ドゴールの権威的政治姿勢と中央集権的官僚制の発達は、しだいに国民の不満を高まらせ、65年の大統領選挙で社会党のミッテラン候補に苦戦した。68年には、青年労働者・学生の大反乱による「五月危機」(「五月革命」ともいわれる)が起こって、彼は翌年辞任した。
 ドゴールにかわって、経済官僚出身のポンピドーが大統領となり、個人独裁方式を緩和し、強大なドゴール派与党に依拠する政治方式をとった。彼は対外政策ではドゴール路線を継承した。1974年ポンピドーの死後、独立共和派のジスカール・デスタンが、左翼統一候補ミッテランと大接戦のすえ当選し、同派とドゴール派、中道派の連合政権をつくった。対外政策では、従来の路線を貫いたが、経済危機とくに失業問題で国民の支持低下を招き、81年5月の大統領選挙で社会党ミッテランに敗れた。6月総選挙でも社会党大進出を中心に左翼が勝利し、ミッテラン政権は金融・基礎産業の国有化拡大、地方制度改革(分権化)など新政策を進めた。しかし経済政策の失敗などのため、次の86年3月の総選挙では保守が勝利した。この結果、大統領ミッテランのもと、ドゴール派首相シラクの保守内閣が成立し、「保革同居政権(コアビタシオン)」が発足した。
 首相シラクは、社会党政府時代の国有化路線を転換して国営企業の民営化を進め、さらに規制緩和など新自由主義政策を採用して経済の活性化を図ったが、失業対策や教育改革の失敗などで国民の支持離れを招き、1988年5月の大統領選挙でミッテランに敗れた。ここにフランス共和政史上最長不倒のミッテラン政権時代(14年)が成立した。さらに6月の議会選挙でも社会党が勝利し、ロカール、クレッソン、ベレゴボワと社会党首相時代が続く。しかし、歴代社会党内閣は不況・失業・治安悪化への対策で国民を失望させ、93年3月の議会選挙で社会党は記録的な大敗を喫して、ドゴール派首相バラデュールのもとでふたたび保革同居体制が成立する。そして95年5月の大統領選挙でミッテランは出馬せず、ドゴール派シラクが念願の当選を果たした(首相ジュペAlain Jupp(1945― ))。シラク保守政権は9月に核実験を再開するなど国威発揚に努める一方、移民制限を強化して極右支持層への食い込みを図った。しかし、欧州通貨統合の基準を満たすための緊縮財政によって失業と不況がさらに深刻となる状況のなか、97年5月に議会を解散した大統領シラクの賭けは裏目に出て社会党が勝利し、同党の首相ジョスパンLionel Jospin(1937― )のもとで新たな保革同居政権時代に入った。2002年5月大統領選挙が行われ、シラクとの一騎打ちが予想されていた首相ジョスパンが第1回投票で国民戦線(FN)のルペンに敗れ3位となり、ルペンとシラクの決選投票となった。結果はシラクが再選を決めたが、ジョスパンは第1回投票の敗退をうけて辞表を提出。シラクは新たな首相に自由民主党(DL)副党首ラファランJean-Pierre Raffarinを任命。6月の総選挙では保守連合が単独過半数を獲得して圧勝。これによりシラクとジョスパンの下で5年間続いたコアビタシオンに終止符が打たれた。
 なお、現在のフランス社会の大問題は、不況や失業増大、治安悪化の主因を外国人労働者の流入に求め、その国外排除を主張する極右「国民戦線」の勢力が90年代以降さらに増大し続けていることである(大統領選挙では15%前後の高得票率)。いくつかの地方都市では、このFNが選挙によって首長の地位を獲得し、あるいは議会の多数派を占めるにいたっている。この極右勢力への対応について世論は分裂し、とくに保守勢力の内部ではFNとの選挙協力をめぐって深刻な亀裂が生じている。ただし、人種差別の拒否や異なった価値観への寛容などを大きな誇りとしてきた国民の大多数は、フランス民主主義の伝統を破壊するものとして、こうした排外主義運動に強く反発している。[中木康夫]

フランス史の研究史


 わが国におけるフランス史研究の初期(明治・大正時代)には、先進文化の吸収という視点からの紹介的な面が強かったが、昭和期に入ると、厳しい学問的制約のなかで、日本の国家、社会への批判的反省にたつ独自の視角から、封建制度やフランス革命などへの先駆的研究が進められた。第二次世界大戦後、研究上の制約から解放され、日本近代化への問題意識にたって、絶対王政時代やフランス革命の研究が急速に進められた。また、分野別では、経済史研究(とくに農業史)が中心的地位を占めていた。1960年代になって日本が高度成長期に入ると、産業革命の研究がとくに関心を集めた。
 しかし、1970年代から研究動向に大きな変化が現れた。第一に、研究テーマの拡散と細分化の傾向があげられる。中世から現代まで多くの時代にわたって、実証的で細密な研究が進み始めた。しかしそのなかでも、68年の「五月危機」や現代社会主義国の問題点などを背景に、パリ・コミューン史など社会・労働運動史、人民戦線史、ボナパルティズム論、帝国主義などの研究が重要な地位を占めるようになった。また最近では、中世の再発見という関心が高まり、中世史研究も盛んになっている。第二に、分野別では、経済史研究中心から、政治史、社会史、民衆生活史研究への関心の移動、拡散がみられ、多彩な研究が進んでいる。なかには、国際水準をしのぐものも現れている。[中木康夫]
『井上幸治編『フランス史』新版(1968・山川出版社) ▽中木康夫著『フランス政治史』全3巻(1975~76・未来社) ▽横山信著『フランス政治史』(1968・福村出版) ▽河野健二著『フランス現代史』(1977・山川出版社) ▽海原峻著『フランス現代史』(1974・平凡社) ▽西海太郎著『現代フランス政治史』(1960・学芸書房) ▽ガクソット著、内海利朗・下野義朗・林田遼右訳『フランス人の歴史』全3巻(1975・みすず書房) ▽デュヴィ、マンドルー著、前川貞次郎他訳『フランス文化史』全3巻(1970・人文書院) ▽デュプー著、井上幸治監訳『フランス社会史(1789~1960)』(1968・東洋経済新報社) ▽服部春彦・谷川稔編『フランス近代史』(1993・ミネルヴァ書房) ▽柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『フランス史』3巻(1995~96・山川出版社) ▽渡辺和行・南充彦・森本哲郎著『現代フランス政治史』(1997・ナカニシヤ出版社) ▽渡邊啓貴著『フランス現代史』(中公新書)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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