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ブラント Blunt, Wilfred Scawen

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ブラント
Blunt, Wilfred Scawen

[生]1840.8.17. サセックス,ペットワースハウス
[没]1922.9.12. サセックス,ニュービルディングズ
イギリスの詩人。外交官となったが結婚とともに辞職し,アラブ馬の育成に努めた。詩集『プロテウスの愛のソネット』 The Love Sonnets of Proteus (1880) で認められた。アイルランド,エジプト,インドなどの民族主義運動の弁護者としても知られる。

ブラント
Brand, Hennig

1670年頃ハンブルクに在世したドイツの化学者。「賢者の石」を捜していたために「最後の錬金術師」といわれることもある。 69年,尿の中から暗闇で光るものを発見し,これをリン phosphorus (発光物) と名づけた。

ブラント
Brandt, Georg

[生]1694.7.21. リッダリタン
[没]1768.4.29. ストックホルム
スウェーデンの化学者。 H.ブールハーフェのもとで医学と化学を学んだ。 1727年鉱山局の分析主任になり,その3年後造幣局長官になった。 30年にコバルトを発見・分離した。ヒ素化合物アンチモンビスマス,水銀,亜鉛の研究でも知られる。 50年にウプサラ大学の初代化学教授に就任,後進の育成に努めた。

ブラント
Brandt, Max August Scipio von

[生]1835.10.8. プロシア
[没]? ワイマール
幕末~明治初期の駐日プロシア公使。開国・通商条約締結のため極東諸国に派遣された F.A.オイレンブルク伯の使節随員として万延1 (1860) 年7月来日,日普修好通商条約の締結に尽力。文久2 (62) 年 11月 15日駐日総領事兼外交代表として横浜に着任。慶応3 (67) 年3月代理公使に昇任。戊辰戦争の終期には,局外中立を撤廃し新政府を承認することに難色を示した。明治3 (70) 年北ドイツ連邦代理公使,次いで同5年弁理公使。 1875年清国駐在公使に転じ,93年引退。著書"33 Jahre in Ost-Asien" (1901~02) 。

ブラント
Brandt, Willy

[生]1913.12.18. リューベック
[没]1992.10.8. ボン近郊
西ドイツの政治家。本名 Karl Herbert Frahm。 1930年社会民主党 SPDに入党,1933年第三帝国の成立とともにノルウェーに亡命,帰化して,ウィリー・ブラントと名のった。その後ノルウェー,スウェーデンでジャーナリストとして活躍。ベルリンでの地下活動やスペイン内乱に参加したが,ソ連での粛清,スペインでの共産党の活動などをみて共産主義に批判的となった。第2次世界大戦後ドイツに戻り,1948年社会民主党の再建に協力,ドイツ国籍に戻り,ソ連によるベルリン封鎖を契機として政治の表舞台に登場。 1949~57年連邦議会議員,1957~66年西ベルリン市長,1964年社会民主党党首。 1966年キリスト教民主同盟 CDUとの大連合内閣の副首相兼外相,1969年自由民主党との小連合内閣の首相に選ばれた。以後緊張緩和外交 (東方外交) を推進,東西ドイツ基本条約締結などの成果をあげ,1971年にノーベル平和賞受賞。 1974年5月ギヨーム事件の責任をとり,首相を辞任。その後,社会民主党党首の地位にとどまって社会主義インターナショナルの平和路線を推進し,ヨーロッパからの中距離核戦力全廃を求める「ゼロの選択」提案を行なうなど,国内政治,国際政治両面で陰然たる力を保ち続けた。

ブラント
Brant, Joseph

[生]1742. オハイオ川流域
[没]1807.11.24. オンタリオ,ブラントフォード付近
アメリカインディアン,モホーク族の族長。イギリスの北部アメリカインディアン監督官 W.ジョンソン卿の義兄弟。フレンチ・アンド・インディアン戦争 (1754~63) とアメリカ独立戦争 (75~83) では,イロコイ6民族連盟中4民族を率いてイギリス側に立って戦った。独立戦争後,平和的解決を望み,マイアミ族など西方の諸民族とアメリカとの仲介役をつとめた。晩年カナダのオンタリオ州グランド河畔に土地を得て移住。イギリス国教会伝道師として伝道に従事し,祈祷書や福音書をモホーク語に翻訳し教会を設立した。

ブラント
Brant, Sebastian

[生]1457. シュトラスブルク
[没]1521.5.10. シュトラスブルク
ドイツの詩人,法律家。バーゼル大学で法律,神学を学び,教鞭をとった。シュトラスブルクに戻ってからは市の官吏をつとめた。人文主義者たちと関係をもったが,その姿勢は依然として中世の伝統に結びついていた。法学上の著作やラテン語詩,翻訳があるが,最大の傑作は,韻文によるアレゴリー『愚者の船』 Das Narrenschiff (1494) である。「愚者の天国」へ船出する 100人余の馬鹿者を登場させて,あらゆる階層の愚行を風刺,人間の愚かさ,いたらなさを攻撃したもので,同時代の最も著名な作品となり,ラテン語をはじめ各国語に翻訳され,のちの愚者文学に大きな影響を与えた。

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百科事典マイペディアの解説

ブラント

英国の写真家。ロンドン生れ。病気療養のため,子ども時代のほとんどをドイツとスイスで過ごす。1925年より独学で写真を学ぶ。1929年パリに移住,1930年までマン・レイ助手を務める。

ブラント

西ドイツの政治家。早くから反ナチ運動に加わり,1933年ノルウェーに亡命。第2次大戦後帰国し,ドイツ社会民主党に属して1957年西ベルリン市長,1964年党首,1966年連立内閣で副首相兼外相,1969年連立内閣首相となり,東ドイツとの国交正常化を実現。
→関連項目シュミットドイツ独ソ武力不行使条約

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

ブラント Brandt, Max August Scipio von

1835-1920 ドイツの外交官。
1835年10月8日生まれ。万延元年(1860)日本-ドイツ通商条約締結のためオイレンブルク公使の随員として来日。文久2年初代駐日領事として横浜に着任。明治元年北ドイツ連邦総領事,5年駐日ドイツ全権公使となり,対日外交に活躍した。享年85歳。ベルリン出身。

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朝日日本歴史人物事典の解説

ブラント

没年:1920(1920)
生年:1835.10.8
幕末明治期に来日したドイツの外交官。プロイセンの著名な将軍で軍事著述家の子としてベルリンに生まれる。陸軍中尉で退役,東アジア遠征隊に全権使節オイレンブルクの随員として参加。帰国後日本プロイセン修好通商条約下初の駐日プロイセン領事に任じられ,条約の発効期日文久2年11月12日(1863.1.1)神奈川(横浜)に着任。慶応3(1867)年代理公使へ進み,駐日外交団の一員として外交活動を開始,列国共同の態勢で維新の激動に対処。後発国プロイセンの権益確保に腐心。北ドイツ連邦の成立(1867)に伴い明治1(1868)年その代理公使兼総領事となり,2年1月10日日本北ドイツ連邦修好通商航海条約を締結。ドイツ帝国成立の翌5年駐日ドイツ弁理公使に昇任。1875年駐清特命全権公使へ栄転し,1893年30年有余の極東勤務に終止符を打ちワイマールへ引退。なお,明治15年12月,壬午事変後の対清関係をおもんばかる日本政府により勲1等旭日大綬章を授与される。

(廣瀬靖子)

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世界大百科事典 第2版の解説

ブラント【Bill Brandt】

1905‐83
イギリスの写真家。ロンドンに生まれるが,子供のころはドイツで過ごす。スイスで病気療養中に写真に興味を持ち,本格的に写真を始めた。その後パリへ出て,1929‐30年の間M.レイアシスタントを勤め,そこでE.アッジェ,E.ウェストンブラッサイの写真に触れ,また親交のあったシュルレアリストたちの影響を受けた。31年ロンドンに戻り,フリーの写真家としての活動を始める。イギリス人の日常生活のドキュメントや第2次大戦中のロンドン空襲下の市民の生活を記録した写真は,ジャーナリズムの枠を越えた深い内面性をもつものであった。

ブラント【Sebastian Brant】

1458‐1521
ドイツの作家。風刺文学《阿呆船(愚者の船)Das Narrenschiff》(1494)の作者。シュトラスブルク(現,ストラスブール)に生まれ育ち,長じてバーゼル大学に学生としてさらに法学部教授として25年間席を暖めたが,シュワーベン戦争の結果スイスが神聖ローマ帝国から事実上独立しバーゼルもこれに加盟の勢いとなるに及んで,国王マクシミリアン1世(のちの神聖ローマ皇帝)を信奉するブラントは,職を辞しシュトラスブルクに帰郷(1500)した。

ブラント【Willy Brandt】

1913‐92
西ドイツの政治家。社会主義青年運動に参加。1933年亡命,ジャーナリズム活動に従事しつつ反ファシズム運動に参加。47年西ドイツに戻り,西ベルリンのドイツ社会民主党指導者となり,49‐57年連邦議会議員,57‐66年西ベルリン市長,1964年社会民主党党首,66年キリスト教民主同盟との大連合政府で副首相兼外相,69‐74年自由民主党との連立政権の首相を務める。彼のもとで東ドイツ,ソ連など社会主義諸国との関係改善を目ざす東方政策が進展した。

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大辞林 第三版の解説

ブラント【Brandt】

〔Bill B.〕 (1904~1983) イギリスの写真家。1920年代にパリでマン=レイの助手として写真を学び、幻想とリアリズムを結合させた独自のスタイルを完成。力強いヌード写真でも知られる。
〔Willy B.〕 (1913~1992) ドイツの政治家。西ベルリン市長。1964年社会民主党党首となり、69年旧西ドイツで連立内閣を組閣。74年まで首相として東側諸国との融和に努めた。

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367日誕生日大事典の解説

ブラント

生年月日:1835年10月8日
ドイツの外交官
没年不詳年没

出典|日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について | 情報

世界大百科事典内のブラントの言及

【デタント】より

…とすれば,デタントの意味が,東西間のみか,西側内部でも異なり,それが原因でデタントが崩れるのも不思議ではない。
[戦術的概念として]
 たとえば,東方政策で東側とのデタントに成功を収めた西ドイツのブラント首相の場合には,目的‐手段のこの二重性が濃厚であった。すなわち,デタントは,武力の否認と現状維持(ステータス・クオstatus quo)の相互尊重に立脚し,和解,理解,協力という継続的段階をもつ長期的な過程として認識されて,その目標は,まずNATO(ナトー)とワルシャワ条約機構間の軍事的対決を軍備管理と政治的・経済的協力の増大によって緩和し,もってヨーロッパの安全保障システムの安定化をはかり,それをさらに東西の政治的・社会的体制の漸進的融合を含むヨーロッパ平和構造へと発展させるという遠大な構想であった。…

【ドイツ社会民主党】より

…政策転換の効果は60年代になって現れた。63年オレンハウアーの死後,翌64年西ベルリン市長のブラントが党首となり,66年にはCDU/CSUと大連立政権を構成する。立役者は後に院内総務として実力をふるったウェーナーHerbert Wehner(1906‐90)であった。…

【ドイツ連邦共和国】より

…連邦首相は,1949‐63年のアデナウアー,1963‐66年のエアハルトLudwig Erhard(1897‐1977),1966‐69年のキージンガーKurt Georg Kiesinger(1904‐88。いずれもCDU),1969‐74年のブラント,1974‐82年のシュミットHelmut Schmidt(1918‐ 。いずれもSPD),1982年以降のコール(CDU)の6人であり,そのうちアデナウアーは14年間も首相として,初期の旧西ドイツ政界に絶大な影響を及ぼしたが,コールは14年間の記録を破った。…

※「ブラント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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