改訂新版 世界大百科事典 「ヘンリー8世」の意味・わかりやすい解説
ヘンリー[8世]
Henry Ⅷ
生没年:1491-1547
チューダー朝第2代のイングランド王。在位1509-47年。ヘンリー7世とヨーク家のエリザベスの次子。即位後まもなくローマ教皇の特免を得て亡兄の妻キャサリン・オブ・アラゴン(のちのメアリー1世の母)と結婚。対仏同盟に加わって大陸に出兵,スプールの戦で勝ち,北イギリスのフロッドンの戦(1513)ではスコットランド王ジェームズ4世を敗死させた。しかし岳父フェルナンドと結ぶこの反フランス・親スペイン外交路線はイギリスにとって必ずしも有益ではなかった。国内ではフェルナンドの娘キャサリンとの離婚問題を起こした。王妃との間には男子が育たず,アン・ブーリンとの恋愛によってキャサリンとの結婚解消の認可を教皇に求めたが,教皇クレメンス7世はキャサリンが神聖ローマ帝国皇帝カール5世の伯母に当たることから承認を引き延ばし,最終的に拒絶した。ここに責任者である大法官ウルジー枢機卿は失脚し,大法官職はトマス・モアによって引き継がれたが,政務はトマス・クロムウェルによって行われ,イギリスにおけるローマ教皇権のすべてを取り除くことによって離婚問題の決着が図られることになった。すなわち1533年の〈上訴禁止法〉によって主権国家の宣言と外国からの司法権独立の表明を行い,翌年の〈国王至上法〉によってイギリスの教会をローマ教皇の支配から解放し,イギリス国教会を成立させた(宗教改革)。これらの措置はクロムウェルの指導下いずれも議会法によって行われた。ヘンリー8世時代は絶対王政期とみなされるにもかかわらず,議会(貴族院,庶民院)が存続し,42年にはヘンリー自身議会とともにある国王の優位を謳歌したほどであった。常備陸軍と有給地方官僚制をもたなかった国王が議会を有効に利用して国政を進めたと考えられるが,同時に議会それ自体の発達の基礎をももたらすことになった。
国教会成立後,ヘンリーとクロムウェルは国家財政強化のため修道院を解散(1536以後)し,その土地・財産を国有化した。他方,クロムウェルと改革派主教たちは宗教改革の内的進展を図ったが,かつて《七秘跡論》を著して教皇レオ10世から〈信仰の擁護者〉の称号を受けた(1521)ほどの反ルター主義者ヘンリーは,改革を阻止すべく保守派と組んで1539年〈6ヵ条法〉を成立させ,国教会の教義・慣行を伝統主義で装い,翌年クロムウェルを処刑した。クロムウェル亡き後のヘンリーは無益な対仏戦争(1543-46)を図るなど政治的無能ぶりを発揮したにすぎない。ヘンリーの女性関係については,2番目の王妃アン・ブーリン(エリザベス1世の母)を姦通罪でもって処刑(1536),シーモア(エドワード6世の母)と結婚,その病死後ドイツのクレーフェのアンと結婚したが直ちに離婚(1540),キャサリン・ハワードを迎えたが,これも姦通罪でもって処刑(1542),43年6番目の王妃キャサリン・パーと結婚した。ほかにエリザベス・ブラント(庶子リッチモンド公ヘンリー・フィッツロイの母)やメアリー・ブーリン(アン・ブーリンの姉)もヘンリーの情婦であった。
執筆者:栗山 義信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報