日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベラルーシ」の意味・わかりやすい解説
ベラルーシ
べらるーし
Republic of Belarus 英語
Respublika Belarus ベラルーシ語
Республика Беларусь/Respublika Belarus' ロシア語
東ヨーロッパ東部の共和国。白(はく)ロシアともいう。かつてはソビエト連邦を構成した共和国であったが、ソ連崩壊過程にあった1991年8月ソ連から独立を宣言、国名をロシア語のベロルシア・ソビエト社会主義共和国Белорусская ССР/Belorusskaya SSRから自国語のベラルーシ共和国と改称した。西はポーランド、北はラトビアとリトアニア、東はロシア、南はウクライナにそれぞれ接している。面積20万7600平方キロメートル、人口1004万5237(1999センサス)、973万3000(2006推計)、938万(2020推計)。人口密度は1平方キロメートル当り45人(2020)。東スラブ族のベラルーシ人の国で、人口の81.2%を占める。ロシア人の比率は高く11.4%、次いでポーランド人が3.9%、ウクライナ人が2.4%、ユダヤ人その他1.1%などが住む。首都はミンスク(人口201万8281、2019センサス)、そのほかにゴメリ、ビテプスク、モギリョフ、ボブルイスク、グロドノ、ブレストなどの都市がある。
[山本 茂]
自然
東ヨーロッパ平野の西部に位置し、最大の河川ドニエプル川の諸盆地、西ドビナ川、ネマン川の上流域にある。地形は全体として大陸氷河の産物であり、低平で沼沢地や湖沼が多い。沼沢地は全面積の20%以上になる。北西部はバルト高地、ベラルーシ高地などモレーン(氷堆石(ひょうたいせき))による高地、中央部は平野、南部はポレシエ沼沢地となっている。最高地点はミンスク高地のジェルジンスキー山であるが、標高は345メートルにすぎない。気候はほぼ大陸性気候で、平均気温は1月零下4.4~零下8℃、7月17.0~18.8℃。年降水量は550~650ミリメートル。土壌はポドソル土(全土の約60%)が多く、森林面積は全土の約3分の1を占め、混交林が多い。地下資源は多種多様であるが、なかでもカリ塩(1949年発見)、岩塩、石油、褐炭の存在が知られ、とくにプリピャチ低地が注目されている。
[山本 茂]
歴史
スラブ人原住地に近いこの地方の全域に東スラブ人の祖先が住み着くようになったのはおそらく紀元後まもなくのことであった。彼らはやがてクリビチ人、ラジミチ人、ドレゴビチ人などの部族連合にまとめられていくが、9世紀にキエフ大公国が成立するとともに相次いでその支配に服することとなった。その後の社会・経済発展は目覚ましく、ポーロツク、トゥロフ、ピンスクなど古くからの都市に加えて、ベレスチェ(ブレスト)、ビテプスク、ミンスクなど多数の都市が成立する。キエフ国家瓦解(がかい)後の13世紀、この地方は北西方面から進出してきたリトアニア大公国の支配下に入る。西部ロシアをさして、白ロシアとよぶのはこのころからである。この場合の「白」は、この地方がリトアニアや、タタール・モンゴルの支配から自由であったことを意味すると考える学者が多い。だがほかにも、衣服や毛髪、虹彩(こうさい)また硬貨の色と関連させたり、古来の守護神、さらには雪と関係づける説もあって、定説はない。
リトアニアは14世紀末から16世紀にかけてポーランド王国と合体していくが、それとともにベラルーシもポーランドの支配下に入る。だが18世紀後半の三次にわたるポーランド分割の結果、今度はロシア帝国に合併される。第一次世界大戦後ベロルシア(ベラルーシ)社会主義共和国が成立し(1919)、1922年にはソ連邦に加盟するが、西半部はポーランドの支配下に入った(1921)。現在の国境線が確定したのは第二次世界大戦後のことである。第二次世界大戦中ベラルーシは独ソ両軍の主戦場となり、ドイツ軍による徹底した破壊を受けたが、戦後急速に復興した。国際連合の創設時(1945)以来の加盟国である。
[栗生沢猛夫]
政治
ソ連においてペレストロイカ(改革)が進んでいたなか、1990年7月にベロルシア(ベラルーシ)最高会議は主権宣言を採択、1991年ソ連で発生した八月クーデター事件後ただちに独立を宣言した。同年12月ソ連解体後、独立国家共同体(CIS)の創設協定に調印、その一員となった。1994年1月には経済危機を解決できなかったとして、最高会議議長シュシケビチStanislav Stanislavovich Shushkevich(1934―2022)が解任され、3月に大統領制の導入を盛り込んだ新憲法の採択が行われた。6~7月の大統領選挙ではロシアとの関係強化を主張したルカシェンコAleksandr G. Lukashenko(1954― )が当選した。その後、ルカシェンコは1995年5月、ロシア語の公用語化、ロシアとの経済統合などについての国民投票を行い、圧倒的多数の支持を得た。さらに1996年11月には大統領の権限を強めるための憲法改正を実施、この国民投票でも70%の支持を得た。この改正により、大統領の任期は2001年まで延長、さらに二院制の新議会が創設された。2001年の大統領選挙でルカシェンコが再選され、また、2004年の議会選挙でも大統領の与党が勝利した。しかし、これらの選挙が公正に行われなかったとして、欧米諸国から批判がおこった。2006年の大統領選挙でルカシェンコが87.5%の得票率で三選を果たしたが、この選挙でもルカシェンコの得票に疑問がもたれ、国内で大規模な抗議行動がみられた。2008年9月の下院選挙では、野党が1議席も獲得できないという結果になった。ベラルーシの一連の選挙に対して、ヨーロッパ安全保障協力機構(OSCE)は選挙監視団を送っているが、毎回、選挙が民主的な国際基準を満たしていないと指摘している。
対外関係では、1996年2月、ロシアとの間に友好協力条約と国境警備に関する協力協定に調印した。ロシアとは、同年4月にさらに2国間で主権共和国共同体創設条約に調印したが、これは両国の主権を維持しながらも、共通の通貨などの経済制度の統一、外交・軍事などの協力、また合同議会の設立などを目ざすものである。1997年5月には、この共同体創設条約を進めるために、新たにつくる共同体の防衛・経済協力などのあり方を定めた規約文書に調印した。さらに、1997年4月にはロシアとの間に共同体より一歩進んだ「連邦条約」に調印、1999年12月に統合を推進するための「連邦国家創設条約」に調印した。しかし、ロシアはこの構想に消極的で、その後は具体的進展がみられていない。なお、1996年3月には、ロシア、カザフスタン、キルギスとの間で統合強化のための条約に調印、4国間での関税の撤廃、商品・資本・サービスなどの移動の自由化など単一経済圏の創設を掲げ、そのための政策調整機関として国家間評議会を創設、その議長にベラルーシ大統領のルカシェンコがつくなど、ソ連解体後の共和国の再結集に積極的な役割を演じている。1999年、この4国間の経済同盟にタジキスタンが参加、2000年にはユーラシア経済共同体となった。
日本はベラルーシがソ連から独立した直後の1991年12月に承認、1993年1月に大使館を開設した。一方、ベラルーシも1995年7月に在日大使館を開設している。1998年2月の長野オリンピックのときに、ルカシェンコ大統領が来日している。
[木村英亮]
産業・経済
この国はロシア、ウクライナ両国の工業地帯に近く、東欧とも国境を接しているため、第二次世界大戦後急速に工業が発展した。労働力にも恵まれ、旧ソ連時代には地域分業体制のもとで、高度に専門的な機械、電子、化学の各工業が発達してきた。とくに西部地域の発展が著しく、乗用車、トラクター生産は有力であるが、そのほかに食品、繊維工業なども盛んである。しかし天然原材料の少ないベラルーシは、ソ連解体に伴い経済的な苦境に陥っている。とくに石油はその9割をロシアに依存しており、この点でも対ロシア接近を図らざるをえない状況にある。
農業はこの国の伝統的基礎産業であり、オート麦、ライ麦、ジャガイモ、ビート(サトウダイコン)が栽培され、畜産では食肉生産と乳牛の飼育、養蜂と毛皮獣飼育が行われている。しかし1986年ウクライナで発生したチェルノブイリ原子力発電所事故によって、ベラルーシも大きな影響を受け、肥沃(ひよく)な耕地の5分の1が汚染され、耕作できなくなり、また国土の半分の地域で放射能の監視が行われることとなった。このため莫大(ばくだい)な資金が必要とされた。
1992年1月に価格自由化政策を導入、同年5月には独自の通貨ベラルーシ・ルーブルの流通を開始したが、一方、ロシアとの間で通貨統合を目ざして、経済協力関係を強めている。その後、ベラルーシの産業の発展が低調のうえ、1998年におきたロシアの経済危機が重なり、インフレが激化、2000年1月に1000分の1のデノミネーションが実施された。その後、ロシアの経済回復とともに、ベラルーシのインフレも低下している。
[木村英亮]