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ペリクレス ペリクレス Periklēs

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ペリクレス
ペリクレス
Periklēs

[生]前495頃
[没]前429
古代ギリシアアテネの政治家。アテネの民主政とアテネ帝国が最高度の発展をみた時期の指導者。民主派の名家の出で,父はクサンチッポス,母はクレイステネスの姪アガリステ。前 463年のキモン弾劾で名を揚げ,前 462/1年にキモンの不在中にエフィアルテスとともにアレオパゴス会議から実権を奪い,評議会 (ブーレ ) ,民衆法廷 (ヘーリアイア ) ,民会 (エクレシア ) に実権を与えた。

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デジタル大辞泉の解説

ペリクレス(Periklēs)

[前495ころ~前429]古代ギリシャ、アテネの政治家。諸改革を行って民主政治を完成し、ペリクレス時代とよばれる黄金時代を現出した。

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百科事典マイペディアの解説

ペリクレス

古代ギリシア,アテナイ(アテネ)の軍人,政治家。名門の出身で,前462年ころ保守勢力の牙城アレオパゴス会議の実権を奪い,民会,評議会,民衆裁判所に分権し,抽選で選出された役人に日当を支給するなど国制の民主化に努めた。
→関連項目アナクサゴラスクレオンフェイディアス

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世界大百科事典 第2版の解説

ペリクレス【Periklēs】

前490ころ‐前429
古代アテナイの著名な軍人,政治家。父はクサンティッポス,母は名門アルクメオン家出身のアガリステ。前472年ペリクレスは,サラミスの海戦に取材したアイスキュロスの悲劇《ペルシアの人々》の上演に際してその費用を賄う合唱隊奉仕者(コレゴス)となっている。前465年にはタソス島がアテナイから離反してキモンがその征討に当たったが,前464年の地震に際して反乱したヘイロータイに悩まされたスパルタがアテナイに救援を依頼したためキモンがタソスから兵を返すと,ペリクレスは大物キモンを相手どって収賄容疑の告発を行った。

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大辞林 第三版の解説

ペリクレス【Periklēs】

前495頃~前429) 古代アテネの政治家。貴族会議の権限を奪い民主的改革を断行、デロス同盟への支配力を高めアテネの黄金時代を築いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ペリクレス
ぺりくれす
Perikles
(前495ころ―前429)

古代ギリシアの盛期を代表するアテネの政治家。クレイステネスの姪(めい)を母にもつ名門の出身で、アテネ民主政の完成者。[伊藤貞夫]

事績

政界での活動は、紀元前463年、寡頭派の代表的政治家キモンに対する弾劾をもって始まるが、ペリクレスがアテネの歴史に大きな足跡を残した第一歩は、前462年のエフィアルテスの改革であった。彼は民主派の指導者エフィアルテスとともに、キモンのスパルタへの出陣の留守をねらい、寡頭派の牙城(がじょう)アレイオス・パゴス評議会の実権を奪って、これを民会、民衆法廷、五百人評議会といった民主的諸機関に移し、アテネにおける貴族政から民主政への長い移行過程に終止符を打った。その後、寡頭派によるエフィアルテスの暗殺と、キモンの陶片追放により、ペリクレスは政界の第一人者の地位にたつが、キモンの後継者トゥキディデス(同名の歴史家とは別人)の率いる寡頭派との対立が続き、そのなかで彼は民衆を味方につけるため数々の政策を実行し、そのことがアテネにおける徹底した民主政の実現につながった。彼は民衆法廷への出席手当、ディオニシア大祭の行事である悲劇・喜劇の観劇手当を創始し、またパルテノン神殿建立をはじめ大規模な公共建築をおこして市民たちに大量の工人手当を与える一方、下層市民に土地を供すべく、彼らを入植者としてトラキア地方、エーゲ海の島々などに次々と送り出した。アルコンへの就任資格がソロンによる四等級の第三級にまで引き下げられたのも、前458年のことであった。
 ペリクレスの事績としてもう一つ忘れることができないのは、前451年、彼の提案によりアテネ民会を通過した、いわゆる市民権法である。この法により、以後アテネでは、両親ともにアテネ人でなければ男子に市民権が与えられないこととなった。その立法意図は不明であるが、市民団の法制上の枠組みが出生を基準に厳密に定められ、以後ペロポネソス戦争末期を除き、前4世紀末に至るまでそれが守られて、アテネ国家の人的構成のあり方を基本的に規定した事実は否定できない。
 ペリクレスの活躍した時代はデロス同盟の全盛期にあたる。彼は大局観に優れた戦略家でもあって、ペルシアとスパルタとに同時に対抗し、また同盟諸市の離反を防いで結束を固めるなど対外政策にも敏腕を発揮した。この時期のアテネの繁栄はデロス同盟支配に負うところ多く、たとえばパルテノンほかの大規模な神殿建築も同盟資金の流用によるところすこぶる大きかった。[伊藤貞夫]

ペリクレス時代

前443年、寡頭派の領袖(りょうしゅう)トゥキディデスの陶片追放に成功したペリクレスは、以後14年にわたって連年、将軍職について国政を自由に指導し、文字どおり「ペリクレス時代」を築いた。前449年にペルシアと、また前446年にはスパルタと和平を結んだアテネは、こののちペロポネソス戦争の勃発(ぼっぱつ)に至るまでつかのまの平和を享受し、政治、経済、文化の各分野にわたってその絶頂期にあった。歴史家トゥキディデスに従えば、この時期のアテネは事実上ペリクレスの支配の下にあり、彼はその人格と識見に寄せられた市民たちの絶大な信頼を背に、威厳をもって国政の指導にあたった。他面ペリクレスには、アナクサゴラス、フェイディアス、ソフォクレスといった当代一流の思想家や芸術家との間に交流があり、愛妾(あいしょう)アスパシアの周囲にもソクラテスはじめ多くの知識人からなるサロンが形成された。
 前431年のペロポネソス戦争の勃発は、ペリクレス自身の運命にも暗影を投じた。彼は市民たちを説得して、田園に住む農民とその家族を中心市の城壁内に移住させる籠城(ろうじょう)策を強行し、海上でスパルタ側と勝敗を決する作戦をとったが、前430年、外港ピレウスを経て疫病が城壁内に広がり、多数の市民がそのために病死する惨事が起こった。ペリクレスは一時、将軍職を追われ、また嫡出男子2人を相次いで失う悲運にみまわれた。家の後継者を失ったペリクレスは、ミレトス出身のアスパシアとの間に生まれた男子に、自らが先に提案した法に反して、アテネ市民権を賦与するよう民会に願い出、とくにそれを許されたが、まもなく自身、疫病の犠牲となって世を去った。死後、戦局の推移に伴い、彼の戦略の正しさが立証されるかにみえた。しかしアテネにはクレオンほかのデマゴゴスが輩出し、下層市民の意を迎える好戦主義に終始して、敗北への道を開くこととなった。[伊藤貞夫]
『トゥキュディデス著、久保正彰訳『戦史 上巻』(岩波文庫) ▽プルタルコス著、馬場恵二訳『ペリクレス』(『世界古典文学全集23 プルタルコス英雄伝』所収・1966・筑摩書房)』

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世界大百科事典内のペリクレスの言及

【アスパシア】より

…その才知によりソクラテスなど知識人をもひきつけた。ペリクレスは最初の妻を離縁して他に嫁がせ,彼女を内縁の妻とした。前432年ごろ,ペリクレスの政敵により瀆神罪で訴えられたが,ペリクレス自身の弁護により放免された。…

【アテネ】より

…現在,アテネ市の都心部はアクロポリスの北東に向け扇状をなして広がり,各種の公共施設もこの地域に集まっている。
【歴史】
 アテナイの名とともにだれしも思い浮かべるのは,ペリクレス,ソフォクレス,プラトン,デモステネスといった人々に代表される,この都市の古典期(前5~前4世紀)の歴史と文化であろう。この時代は総じて古代ギリシアの盛期にあたるが,中でもアテナイは数あるポリスの間でスパルタと並んで政治的・軍事的に最大の勢力を誇るばかりか,文化創造の面でもひとり群を抜く存在であった。…

【ギリシア】より

…このような気運の中でデロス同盟はアテナイに貢租を義務づけられる〈アテナイ帝国〉の服属国の観を呈し,一方アテナイ市民は国家財政に依存することが多くなっていった。ペリクレスの時代に徹底した民主化が実現され,アクロポリスが美化されえたのもこのような事情があったからであった。奴隷制もまたこの世紀には鉱工業を中心に大いに発展し,奴隷入手も比較的容易になり,小農民でも1~2人の奴隷をもつことができるようになった。…

【ストラテゴス】より

…前487年の抽選制導入によりアルコン職の地位が低下すると,挙手による選出のうえに重任が許されていたため,この職の比重は増大した。ペリクレスがアテナイの政界で長年指導的位置を占めたのも,彼が連年15回もこの職を務めたことが大きい。ストラテゴスは軍事に関連する広範な権能を有していたが,年に10回の職務審査が義務づけられていた。…

【テオリコン】より

…アテナイにおいて公共の諸祭典の折,国家によって貧窮市民に支払われた手当。前5世紀中ごろペリクレスによって導入された。前4世紀には専門の財務官団をもつ〈基金〉として,独立の財政部門を形成した。…

【ペロポネソス戦争】より

…前431年から前404年にかけて,アテナイを盟主とするデロス同盟と,スパルタを中心とするペロポネソス同盟とが,古代ギリシア世界を二分して戦った大戦争。
[原因と経過]
 前435年,ギリシア本土北西岸の植民市エピダムノスの党争をきっかけにコルキュラとコリントスが対立し,前433年,両市の戦いに際しアテナイがコルキュラ救援軍を送ったことにより,アテナイとペロポネソス同盟の有力市コリントスとが争うようになったのが戦争の直接の原因であるが,ペリクレスの指導の下にデロス同盟の盟主としてギリシア随一の勢いを示すアテナイに対し,スパルタが不安と反感を抱くにいたったところに,その遠因があったと考えられる。 前431年5月,ペロポネソス同盟軍のアッティカ侵入をもって戦いは始まった。…

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