改訂新版 世界大百科事典 「ホイサラ朝」の意味・わかりやすい解説
ホイサラ朝 (ホイサラちょう)
Hoysaḷa
南インド諸王国分立時代に約250年間マイソール地方に勢力を誇った王朝。1106-1342年。その出自は本来マイソール地方のガンガバーディGangavādi北西部の山岳地帯を拠点とする支配者であり,山賊行為を経済の基盤としていたといわれる。チャールキヤ,チョーラ両朝の対立に乗じて平原部へと進出し,チャールキヤ王国の封臣として台頭する。ホイサラ王朝を実質的に創始したのは1106年に即位したビッティガBiṭṭigaであり,首都をドーラサムドラDvārasamudra(現,マイソール近くのハレービード)に置き,自らビシュヌバルダーナと称した。ジャイナ教徒であった王をヒンドゥー教のビシュヌ派に改宗させたのは同派の哲学者ラーマーヌジャであったとされている。王国はバッラーラ2世Ballala Ⅱ(在位1173-1220)の時代に強化され,チャールキヤ,ヤーダバ両国を破って独立し,さらにチョーラ朝と同盟してパーンディヤ朝に対抗し,タミル地方支配への足がかりを築いた。しかし,1310年ハルジー朝のマリク・カーフールに敗れて以来衰退の道をたどり,ついに新興王国ビジャヤナガルに打ち破られた。同王朝の時代にはホイサラ寺院とよばれる,北インドの様式とも伝統的なドラビダ様式とも異なる独自の建築様式を生み出した。
執筆者:重松 伸司
美術
この王朝はヒンドゥー教寺院建築のうち中間型と呼ばれる形態を発展させた。その基本形は,列柱のある前殿とそのまわりの三つあるいはそれ以上の本殿からなり,本殿のプランは凹凸の多い星形である。建物の高さは比較的低く,外壁は水平の層が目だち,こみいった彫刻や複雑な格子窓で壁面がにぎやかに飾られ,太くずんぐりとした丸柱は回転させて削った形跡がある。目の細かい石に刻まれた彫刻は,象牙や白檀の彫刻を思わせるような工芸的な感じが強く,やや小ぶとりの肢体は硬く動きに乏しい。代表的な遺構は,ベルールのチェンナ・ケーシャバ寺(1117ころ),ハレービード(古名ドーラサムドラ)のホイサレーシュバラ寺(12世紀中期),ソームナートプルのケーシャバ寺(1268)などである。
執筆者:肥塚 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報