翻訳|Voltaire
フランスの啓蒙(けいもう)思想家、作家。本名はフランソア・マリ・アルエFrançois Marie Arouetで、筆名のボルテールは、アルエ・ジュニアArouet le jeuneの替え名(アナグラム)。彼は2月21日、公証人の息子としてパリに生まれ、イエズス会系の名門校ルイ・ル・グランに学んだ。在学中から文学の分野で早熟な才能を示したといわれる。父親は彼を後継ぎにするつもりだったが、息子のほうはますます文学への傾斜を深めていった。
1717年、時の摂政オルレアン公を揶揄(やゆ)する風刺文を書いたかどでバスチーユ刑務所に投獄される。獄中で完成させた悲劇『エディプ』Œdipe(1718)が大当りをとり、以後、ボルテールと名のるとともに、このころから劇作の成功で得た資金をもとに事業にも投機した。そのころ、市民階級出のボルテールの勇名が文壇にとどろくのを喜ばない一貴族といさかいをおこし、再度バスチーユに投獄された。このように特権階級だけが優遇されるフランス社会に見切りをつけ、1726年には、彼は自らの意志で「自由の」国イギリスに渡り、2年7か月滞在した。その間、シェークスピアをじかに観劇したり、同時代のイギリスの作家ボーリングブロークHenry St. John, 1st Viscount Bolingbroke(1678―1751)、ポープ、スウィフトらと交流したり、また渡英目的の一つでもあった叙事詩『アンリアド』(1728)を出版した。
[市川慎一 2015年6月17日]
1729年に帰仏すると、シェークスピア劇の影響下に、劇作『ザイール』(1732)などを発表する一方、イギリスの見聞記という装いのもとにフランス社会を痛烈に批判した『哲学書簡(イギリス書簡)』(英語版1733、フランス語版1734)を刊行した。イギリスを極端に礼賛したこの書の真意を見抜いた当局側が直ちに焚書(ふんしょ)に処したことから、身の危険を感じたボルテールは、愛人デュ・シャトレ夫人Émilie, Marquise du Châtelet-Laumont(1706―1749)を伴い夫人の邸(やしき)のあるシレーに逃亡し、約10年間滞在した。シレー滞在はボルテールと愛人にとって絶好の学究生活の10年(1734~1744)となった。彼はこの間、のちに執筆される歴史作品や哲学コントのための膨大な読書と資料収集に没頭した。シレー時代には、文学作品として、哲学詩『この世の人』(1736)、劇作『マホメット』(1741)、『メロープ』(1743)などが、また、哲学作品として、『人間論』(1738)、『ニュートン哲学入門』(1738)などが執筆された。
1745年の修史官任命に続いて、翌1746年、彼はアカデミー・フランセーズ会員として迎えられるが、舌禍事件のために再度パリを離れることとなる。このころ、名声と失意との間を行き来するわが身をテーマにした哲学コント『ザディーグ』(1747)を書いた。
愛人デュ・シャトレ夫人の死後、ボルテールは、プロシアのフリードリヒ2世の招きでポツダムに赴き、そこで史書『ルイ14世の世紀』(1751)や哲学コント『ミクロメガス』(1751)を発表するが、フリードリヒ2世との不和とベルリン翰林院(かんりんいん)(科学アカデミー)院長モーペルチュイとの反目からプロシアを去る。
ルイ15世との確執からパリに戻れないボルテールは、一時ジュネーブの近郊サン・ジャン(彼は悦楽荘Les Délices(レ・デリス)と命名)に居を構えるが、自作芝居の上演をめぐって、ジュネーブ宗務局と軋轢(あつれき)をおこす一方、1755年11月1日にリスボンを襲った大地震をめぐる詩で、J・J・ルソーと激しく論戦した。この大地震を契機に、1759年にライプニッツやポープの楽天主義を皮肉った哲学コントを匿名で出版し、大成功を収めることになるが、これがボルテールの最高傑作と目される『カンディード』(1759)である。彼は哲学的には深い思想を表明したわけではないけれども、このコントの名文句「われわれの庭(畑)を耕さねばならない」が示すように、人間が人知の及ぶところでない神の摂理や存在に深入りする愚を戒め、人間精神は権威や宗教から自由であらねばならないと主張した。この精神は文明史と考えられる大著『風俗史論』Essai sur les mœurs(1756)にも貫かれている。
[市川慎一 2015年6月17日]
1760年にはスイスの国境に近いフェルネーに安住の地をみつけ、近郊の農民に呼びかけ農村の改革に着手するとともに、貧民救済のための時計工場もつくった。彼はこの地に君臨した約18年間、「フェルネーの長老」と称されながら、自作の劇作を上演したり、ヨーロッパ各地から文学者、知識人を迎えたりした。この期に書かれた作品としては、劇作『スコットランド人』(1760)、『ミノスの掟(おきて)』(1772)などがあり、哲学コント『ジャノとコラン』(1764)、『自然児』(1767)、『四十エキューの男』(1767)、『バビロンの女王』(1768)がある。
フェルネーの地にボルテールの名声を頼って到来した人のなかには、誤って処刑されたジャン・カラスJean Calas(1698―1762)の遺族らもいた。彼はそういう人たちの冤罪(えんざい)の汚名をすすぐべく独自の調査を行い、カラス事件L'Affaire Calas(1762)、シルバンSirven事件(1764)、シュバリエ・ド・ラ・バールchevalier de La Barre事件(1766)に鋭いメスを加え、その名誉回復に貢献した。こうして判明した諸事実にボルテール独自の宗教観を盛り込んで、いわゆる寛容の精神を説いた『寛容論』Traité sur la Tolérance(1763)も、このころ執筆している。
ディドロ、ダランベール編の『百科全書』(1751~1772)にも当初から並々ならぬ関心を示しただけではなく、自らも歴史を中心に数々の項目を執筆し協力した。のちに、それらの項目を自分で編集し直し、彼自身の理想とした『哲学辞典』(1764)という形で刊行した。
長らく対立関係にあったルイ15世の死後、パリ帰還を決意したボルテールは市民の熱狂的歓迎のなか1778年2月10日パリに凱旋(がいせん)し、自作の戯曲『イレーヌ』Irène(1778)はコメディ・フランセーズで上演された。けれども長旅の疲労と連日の大歓迎という極度の興奮のために、ボルテールはこの年の5月30日にパリで永眠した。
[市川慎一 2015年6月17日]
『池田薫訳『運命・ザディーグ他4篇』(1938・白水社)』▽『高橋安光訳『哲学辞典』(1988・法政大学出版局)』▽『池田薫訳『浮世のすがた他6篇』(岩波文庫)』▽『吉村正一郎訳『カンディード』(岩波文庫)』▽『林達夫訳『哲学書簡』(岩波文庫)』▽『丸山熊雄訳『ルイ十四世の世紀』全4冊(岩波文庫)』▽『中川信訳『カラス事件』(冨山房百科文庫)』▽『アンドレ・モロワ著、生島遼一訳『ヴォルテール』(1946・創元社)』▽『高橋安光著『ヴォルテールの世界』(1979・未来社)』▽『小笠原弘親・市川慎一編著『啓蒙政治思想の展開』(1984・成文堂)』
フランスの文学者,思想家。本名アルーFrançois-Marie Arouet。啓蒙思想の代表的存在で,生前の影響力は全ヨーロッパに及び,18世紀を〈ボルテールの世紀〉と呼ぶほどである。ことに文学者の社会参加の伝統を確立した,晩年の実践活動は特記されよう。パリの裕福なブルジョアの生れで,ルイ・ル・グラン学院で古典的教養を修得の後,一時は父親の希望で法律を学ぶが,まもなく文学を志す。早くから自由思想家の影響下にあった彼は,1717年摂政オルレアン公を風刺した詩を書いたかどで,バスティーユに約1年投獄される。翌18年処女作の悲劇《オイディプス》の大成功で社交界の注目を集め,この頃よりボルテールの筆名を名のる。アンリ4世をたたえた叙事詩《アンリアッド》(1723)によって,その文名を確固たるものにする。名門貴族ロアンとの口論がもとで,無法な侮辱を受けたばかりか,不当にも再度バスティーユに投獄される(1726)。海外亡命を条件に釈放され,イギリスに渡り,この国の政治,思想,言論の自由に深い感銘を受ける。また,シェークスピア劇のエネルギーに感嘆する反面,古典派作家として反発を覚える。帰国(1729)後その影響のうかがえる悲劇数編を著したが,そのなかには代表作《ザイール》(1732)がある。滞英中に構想された《シャルル12世伝Histoire de Charles ⅩⅡ》(1730)は歴史分野の最初の著作であるが,偉人とは戦場での勝利者ではなく,人類の進歩と幸福に貢献した人物であるという彼の史観の基本的立場が表明されている。続く《哲学書簡Lettres philosophiques》(英語版1733,フランス語版1734)は滞英見聞報告にことよせて,フランスの政治・宗教・哲学などをきびしく批判した,〈フランス旧政体に投ぜられた最初の爆弾〉である。本書は発禁処分となり,著者は投獄を免れるため,愛人シャトレ侯爵夫人の所領で,国境に近いシレーに逃れ,以後約10年間は悲劇《マホメット》《メロープ》などの著述,研究,科学実験などに費やされる。1744年ころからルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人や友人のとりなしで,ベルサイユに宮廷詩人として迎えられ,修史官(1745),アカデミー会員(1746)となる。哲学小説《ザディーグ》(1747)にその一端がみられるように,国王にうとんじられ,そのうえ愛人の急死による精神的打撃もあり,プロイセン王の招きに応じ,ベルリンに向かう(1750)。フリードリヒ2世に文芸の師として仕えるかたわら,史書の代表作《ルイ14世の世紀》(1751)を書き終えたほか,哲学小説《ミクロメガス》(1752)などを公にする。国王との友情に破綻が生じ,啓蒙君主フリードリヒに失望し,53年ベルリンを退去。1年半各地を転々の末,54年暮ジュネーブに到着,翌55年郊外に求めた邸を〈レ・デリス(快楽荘)〉と命名する。ここで世界文明史《習俗論》(1756)や哲学小説の代表作《カンディド》(1759)を著す。宗教問題などの発言から,ジュネーブ市当局と気まずくなったのを機に,スイス国境のフランス領の寒村フェルネーに土地を買い求め,60年に移住する。両国に足場をもち,身の安全と自由を確保した〈フェルネーの長老〉は,ヨーロッパの知識人の指導者として,〈恥知らずをひねりつぶせ〉のスローガンをかかげ,旧政体・教会批判のさまざまな形式の戦闘的匿名文書をやつぎばやに発表する。また地域の産業振興や免税運動に尽力するほか,カラス事件(1762),ラ・バール事件(1766)などの狂信や偏見のために死刑判決を受けた人びとの名誉回復の再審活動に乗り出す。これらの実践活動の所産である《寛容論》(1763),しんらつな文明批評エッセー集《哲学辞典》(1764)はこの時期の代表作である。78年,自作の悲劇《イレーヌ》の上演に立ち会うため,28年ぶりにパリに戻った彼は市民の熱狂的歓迎を受けたが,疲労から死去した。
生前の悲劇詩人としての名声は今日色あせてしまったが,風刺に富んだ,明快な文体の哲学小説,合理的立場に立脚した歴史著作,啓蒙・批判を目的とする軽妙な文明批評などの散文の著書は,1万数千通にのぼる膨大な書簡(彼の最高傑作という評価もある)とともに,彼をフランス知性を代表する存在としている。そして彼の偉大さは,その思想的独創性よりは,人間の自由と幸福を阻むものへの激しい戦闘的精神活動にあるといえる。また,ディドロ,ルソーらとともに百科全書派(アンシクロペディスト)の一人として重要な役割を果たした。
執筆者:中川 信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…それは,18世紀宮廷文化における新奇なものへの憧れやナポレオンのエジプト遠征(1798‐99)に際して見られたような異文明の遺産の略奪という形態が,オリエント文化の本質的理解の妨げになっているのかもしれない。文学においては,ガランによる《千夜一夜物語》の翻訳(1704‐17),モンテスキューの《ペルシア人の手紙》(1721),ボルテールの《マホメット》(1741)などがその早い例で,啓蒙主義的文明批評のにおいが強かったが,しだいにエキゾティシズムに傾いてゆく。ユゴーの《東方詩集Orientales》(1829),ラマルティーヌの《東方紀行》(1835)などがロマン主義文学者による代表例である。…
…カトリック側の不寛容の狂信による迫害である。モントーバンのプロテスタント活動家リボットは,ルソーとボルテールに援助を求める。ルソーは拒否,ボルテールも当初は気のりうすだったが,しだいに判決を疑い,4月前後から無罪を確信してフェルネーにカラス擁護秘密委員会を組織,ダランベールらパリの知識人を動かして,激烈な運動を展開する。…
…この立場の裏づけをなすものが,教義といえどもその真理性の根拠は理性にもとづく,ないし理性を超えたものであってもすくなくとも理性に反しそれに矛盾したものであってはならぬとする理神論の考えにほかならない。理神論は,ロックからティンダル,トーランド,コリンズにかけて洗練され,また,フランスのボルテール,ドイツのレッシングらもこの立場による。レッシングらの場合,非キリスト教的宗教への一定の寛容がみられるのは注目に値しよう。…
… J.J.ルソーは《人間不平等起源論》で〈人間はオークの下でどんぐりを腹いっぱい食べ,食物を提供してくれたその同じ木の下を自分のねぐらとしていた。しかし小麦の出現とともに人類は堕落した〉と述べて原始生活を賛美したが,逆にボルテールは〈小麦を知ってしまっているわれわれを,再びどんぐりの時代へと連れもどすな〉ということわざを使って,時代に逆行する試みをいましめた(《哲学辞典》〈小麦〉の項)。また二宮尊徳は〈豊あしのふか野が原を田となして食をもとめて喰ふ楽しさ〉という歌を詠んで,葦原(あしはら)から稲田への移行をよしとした。…
… このように地球上にはかつて相対的に完結した複数の個別的世界が存在し,おのおの個別的世界史をなしたが,ルネサンス期の地理上の発見(大航海時代)によってヨーロッパ人は非ヨーロッパ世界のあることを発見し,その社会も文化もヨーロッパとちがうことに目を開いた。18世紀の啓蒙思想は神学からはなれて,人類や人間性の同一,その発展を信じてアジアからアメリカまで視野にとりこみ,ボルテールは一般史,チュルゴは普遍史,ヘルダーは人類史という名称を用い,理念的傾向が強かったとしても,世界史の本格的成立の基礎をつくった。ドイツ観念論哲学のなかでは,ヘーゲルは世界史は精神が自己の本質を知ろうとする表現で,精神の本性たる自由の発展を内容とすると考え,人間の自由という点からアジア世界,ギリシア世界,ローマ世界,ゲルマン世界をとりあげ,理念から歴史現実へ下降していった。…
…翌年にはオランダで縮刷版が出,続いてイギリスで英語版が出された。また本書で翻訳された唯一の文学作品たる元曲《趙氏孤児》は,まもなく中国びいきのボルテールによって翻案され,55年に《中国の孤児》と題してパリで上演されたのであった。 19世紀に入ると,フランスを最初として,ヨーロッパの主要大学に中国学の講座が設けられ,中国研究を専門とする学者が輩出するにいたった。…
…リュリのオペラ(P.キノー台本)などによるバレエ入りフランス・オペラの隆盛は,18世紀にはJ.P.ラモーへと引き継がれ,それに対する批判がルソーを理論家とする〈道化論争querelle des Bouffons〉となるが,これはすでに,のち1759年にサン・ジェルマンの市(いち)において初演される,モンシニーPierre Alexandre Monsigny(1729‐1817)の最初の〈オペラ・コミック〉(《軽はずみな告白》)を予告している。
【18世紀】
18世紀は,ボルテール,デュ・ボス師をはじめとする批評的言説によって,まずは17世紀の栄光を批判的に確立する〈ふるい〉の役を果たす。ボルテール自身は,シェークスピアに注目した最初の重要なフランス人であり,同時代人にとっては悲劇の神様であったが,その新古典主義的悲劇は後代には残らない。…
…ベルリン近郊ポツダムにロココ風のサンスーシ宮殿を築かせてここに住み,早朝から政務室に入って国務の万般をみずから決定・指導したこの独裁的君主も,夜は著名な文人や芸術家を集めて,機知に富む社交のひとときを楽しむ〈哲人王〉となった。1750年からおよそ3年間,フランスの啓蒙思想家ボルテールが,王の賓客としてこの宮殿に滞在している。ほとんどがフランス語で書かれた膨大な著作の面でも,ドイツ史上に比肩する者がない。…
…すなわち,国家的事件にのみ限定された歴史叙述に対し,風俗・習慣や精神生活の歴史叙述を意図した。そのような意味での文化史を創始したのは,通例,ボルテールの著作《諸国民の風習と精神についての試論》(1756)と目されている。しかし,彼はまだ〈文化史〉という用語を用いていない。…
… しかし当時依然として強固な絶対主義体制下にあったヨーロッパ大陸では,この理神論の神学は護教的イデオロギーに対抗する有力な武器となった。アンシャン・レジーム打倒の思想的武器である《百科全書》の編集者ディドロがシャフツベリーのさまざまな作品を翻訳したことは周知のことであり,ボルテールが《哲学書簡》(1734)でこれらイギリス理神論者の新しい合理的な自然宗教を紹介して社会的な偏見や非寛容迷信の打破のために奮闘し,この時代の思想に圧倒的な影響を与えたことも有名である。ボルテールの標語として広く知られる〈破廉恥漢を押しつぶせ〉と〈もしも神が存在しないならば是非ともそれを作り上げねばならない〉という二つの言葉は,一方では偏狭で抑圧的なカトリック教会の迷信と,そして他方では破廉恥な無神論に対して彼がとった両面作戦の立場を明快に表している。…
…啓蒙主義時代に入り,モンテスキューの《ローマ人盛衰原因論》は軍隊の力の増大と,元老院と衆愚に堕した人民の力の逆転に没落の主因を求めた。ボルテールはモンテスキューにも認められる反キリスト教立場をさらに強め,キリスト教公認に没落の原因をみた。これら啓蒙思想の影響の下で,ギボンは大著《ローマ帝国衰亡史》を著し,至福の五賢帝時代における野蛮と宗教の支配に帝国没落の責任を帰し,かつ文明の進歩と理性への信仰を吐露した。…
※「ボルテール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新