マクシミリアン

デジタル大辞泉 「マクシミリアン」の意味・読み・例文・類語

マクシミリアン(Maximilian)

(1世)[1459~1519]神聖ローマ皇帝。在位1493~1519。婚姻政策によってハプスブルク家領を広げ、同家興隆の基礎を築いた。スイス諸州の独立を承認。

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百科事典マイペディア 「マクシミリアン」の意味・わかりやすい解説

マクシミリアン[1世]【マクシミリアン】

神聖ローマ皇帝(1493年―1519年,戴冠は1508年)。ハプスブルク家出身。フリードリヒ3世の子。1477年ブルゴーニュ公女との婚姻によりネーデルラントを相続するが,フランスとの抗争に巻きこまれる。1495年以降,永久平和令の発布,帝国裁判所の設置などの一連の帝国改造計画を実施したが,保守派諸侯や都市の反対で失敗。ミラノナポリをめぐるフランスとのイタリア戦争ボヘミアハンガリーの継承権獲得に起因したトルコとの確執,スイスの独立承認など対外的にも多事だった。同時代の民衆,特に人文主義者たちに人気があり,〈最後の騎士〉と呼ばれた。
→関連項目イザークインスブルックウェルスカール[5世]シャルル[勇胆公]

マクシミリアン

メキシコ皇帝(在位1864年―1867年)。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの弟。ナポレオン3世によるメキシコ干渉の際に皇帝として送りこまれたが,フランス軍の撤退後,フアレスの政府軍に捕らえられて処刑。
→関連項目ディアス

マクシミリアン

ドイツの政治家。バーデン大公国世嗣公子で,マックス・フォン・バーデンMax von Badenと呼ばれた。自由主義者・平和主義者として名声があり,第1次大戦末期の1918年10月に宰相となり,無条件降伏を実現,民主化政策の推進による帝政維持を図ったが,ドイツ革命により11月辞職。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マクシミリアン」の意味・わかりやすい解説

マクシミリアン(1世)
まくしみりあん
Maximilian Ⅰ
(1459―1519)

神聖ローマ皇帝(在位1493~1519)、ドイツ王(在位1486~1519)。「最後の騎士」といわれ、人文主義の保護者。前帝フリードリヒ3世の子。1477年ブルゴーニュのシャルル豪胆公の継承者マリと結婚、ブルゴーニュの領有をフランス王ルイ11世と争い、妻の死後1492~93年に獲得した。90年オーストリアからハンガリー勢力を駆逐し、チロールシュタイアーマルクを家領に加え、91年ベーメン・ハンガリー王位継承権を獲得した。93年ミラノ公女ビアンカと再婚。娘とスペインの王位継承者、息子とスペイン王女の二組の結婚、孫たちとハンガリー王子、王女との結婚など巧妙な婚姻政策でハプスブルク家領を拡大し、同家の興隆の基礎を固めた。この政策のためにフランス王室との対立を深め、95年以来イタリア戦争を引き起こした。その結果メレニャーノの会戦で敗れ、カンブレーの和約でミラノ公国をフランスに譲った。またスイス盟約団体にも敗れ、事実上その独立を承認した。93年の皇帝即位はローマで戴冠(たいかん)せず、選帝侯の決定による最初の例である。当時盛んに論議されていた帝国改革について、95年の国会で次のように合意された。永久平和令の発布、帝国統治の改革、帝国議会の改組、帝国租税ゲマイネ・プフェニヒの徴収、帝国裁判所の設置。しかしこの改革計画は皇帝、諸侯、都市間の利害が一致せず実現しなかった。帝国改革が失敗した結果、ドイツにおける国制の近代化は領邦において実現することになった。

[諸田 實]


マクシミリアン(大公)
まくしみりあん
Maximilian I
(1573―1651)

ドイツのバイエルン大公(1597~1651)。イエズス会のもとで教育を受け、ドイツでの反宗教改革の先頭にたったもっとも有力な諸侯の一人。しかし領内では法の整備、殖産にも努めた。新教派、旧教派の対立が激化して、1608年新教派諸侯が新教連合を結成すると、翌年旧教連盟をつくってそれに対抗した。三十年戦争勃発(ぼっぱつ)(1618)後、ティリー指揮下の軍を派遣し、皇帝軍とともに20年フリードリヒ5世のボヘミア軍をワイサーベルクに撃破、23年その功によって選帝侯位を与えられた。しかしデンマーク王クリスティアン4世の侵入撃退後、皇帝権が強大化するのを恐れて、30年皇帝に圧力を加えて皇帝軍総司令官ワレンシュタインを罷免させた。三十年戦争の後半は戦況不利となり、47年には一時フランスと単独講和を結んだ。ウェストファリア条約で選帝侯位と上プファルツの獲得を正式に承認された。

[中村賢二郎]


マクシミリアン(2世)
まくしみりあん
Maximilian Ⅱ
(1527―1576)

神聖ローマ皇帝(在位1564~76)。フェルディナント1世の子。1548年、カール5世(カルロス1世)の娘でスペイン人のマリアと結婚。同年から3年間スペイン総督となった。帰国後、新教のルター派に傾き、宗教紛争の激しくなるなかで、新旧両派の和解に努力したが、自らは父の皇帝にカトリックの信仰にとどまることを誓わされた。62年、ローマ王、ボヘミア王となり、64年父の死後、帝位を継いだ。帝国内の宗教的・政治的対立を除こうとし、トレント公会議の決議の布告を拒否したので、全ドイツにおける新教徒拡大の勢力は最高頂に達した。一方、オスマン帝国との戦争に敗れ、時代の紛争の解決には成功しなかった。

[中井晶夫]


マクシミリアン
まくしみりあん
Ferdinando Maximilian
(1832―1867)

メキシコ「皇帝」(在位1864~67)。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟で、メキシコを占領したフランスのナポレオン3世とメキシコ保守派に推され、1864年メキシコ「皇帝」に就任した。保守派の反対をおして自由主義的政策を実施するなどメキシコ人の懐柔に努めたが、民衆の支持を得ることができず、67年自由派のフアレス軍に敗れて捕虜となり処刑された。

[野田 隆]

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改訂新版 世界大百科事典 「マクシミリアン」の意味・わかりやすい解説

マクシミリアン
Ferdinand Maximilian Joseph
生没年:1832-67

メキシコ皇帝。在位1864-67年。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。ナポレオン3世のメキシコ干渉戦争に際し,こわれて皇帝となる。南北戦争後アメリカの抗議でフランス遠征軍の撤退を迫られると,1866年ナポレオンは受諾するが,皇帝マクシミリアンは残留し,革命派に捕らえられて処刑される。開明的君主を心がけていただけに,このハプスブルク家の悲劇はヨーロッパ知識人の間で同情を買った。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マクシミリアン」の意味・わかりやすい解説

マクシミリアン
Maximilian, Prinz Von Baden

[生]1867.7.10. バーデンバーデン
[没]1929.11.6. セイラム城
ドイツの政治家。バーデン大公フリードリヒ2世の従弟。1907~18年バーデン上院議長。第1次世界大戦末期の 1918年10月3日,軍部支配の崩壊とともに不利な戦況に終止符を打つために,その平和主義的・自由主義的傾向を認められてドイツ帝国の首相に就任。連合国との間に休戦交渉を開始した。当初は君主制の維持に尽力したが,軍隊の士気の低下,国内各地の反乱といった状況下に同 1918年11月9日皇帝ウィルヘルム2世の退位を宣言し,同時に首相の地位をフリードリヒ・エーベルトに譲って引退。『回想録』Erinnerungen und Dokumente(1927)がある。

マクシミリアン
Maximilian; Ferdinand Maximilian Joseph

[生]1832.7.6. ウィーン
[没]1867.6.17. ケレタロ
メキシコ皇帝 (在位 1864~67) 。オーストリア大公。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟で,1857年ベルギー王家のシャルロッテ (カルロタ ) と結婚,63年フランス軍のメキシコ占領後,メキシコ保守派およびナポレオン3世から帝位を与えられた。翌 64年これを受諾してメキシコに渡ったが,教会財産の返還拒否などでメキシコ保守派の支持を失い,他方 B.フアレスの率いる革命軍の抵抗にあい,66年フランス軍撤退後,67年革命軍の捕虜となり銃殺された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マクシミリアン」の解説

マクシミリアン
Maximilian

1832~67(在位1864~67)

メキシコ皇帝。ハプスブルク家の生まれで,オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を兄に持つ大公であったが,自由主義派が政権を掌握したメキシコに軍事介入を行った第二帝政期のフランス皇帝ナポレオン3世に乞われて,メキシコ皇帝に就任した。南北戦争後のアメリカの圧力でフランス軍が撤退したが,その後も皇帝としてメキシコに留まり,ファレス指揮下の自由主義派の軍隊にケレタロで敗れ,銃殺された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マクシミリアン」の解説

マクシミリアン(1世)
MaximilianⅠ

1459〜1519
神聖ローマ帝国の皇帝(在位1493〜1519)
ハプスブルク家の出身。諸国との婚姻政策によって領土を拡大,のちのハプスブルク家飛躍の基礎を築いた。フランス王とイタリア戦争を行い,ミラノを失った。また帝国の行政改革をはかったが,大半は失敗。教養人,文芸の保護者としても知られ,「最後の騎士」と呼ばれた。

マクシミリアン(ジョセフ)
Ferdinand Maximilian Joseph

1832〜67
メキシコの皇帝(在位1864〜67)
オーストリア皇帝フランツ=ヨゼフ1世の弟。フランス皇帝ナポレオン3世のメキシコ遠征でメキシコ皇帝に擁立された。しかし民心を得ず,遠征軍が撤退すると,革命派に捕らえられて銃殺された。

マクシミリアン(プリンツ)
Prinz von Baden Maximilian

1867〜1929
ドイツのバーデン公国の公子・政治家。マックス公と称される
1918年,ドイツ帝国終末期に帝国宰相となって,議会改革などによる帝政の維持をはかったが,ドイツ革命で退陣。

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367日誕生日大事典 「マクシミリアン」の解説

マクシミリアン

生年月日:1867年7月10日
ドイツの政治家
1929年没

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世界大百科事典(旧版)内のマクシミリアンの言及

【バイエルン】より

…バイエルンが宗教改革の激動に際しカトリック国にとどまったのは,ひとえに,この成立途上の領邦絶対主義が,都市の市民や地方の貴族また農民の間の宗教改革への動きを,イエズス会と提携しつつ抑え込んだからであった。こうして反宗教改革の砦となったバイエルンは,三十年戦争におけるマクシミリアン1世の功績によって選帝侯の位を回復(1623),かつ上ファルツ地方(現,バイエルン州東北部)を獲得する。しかしバイエルンは,この戦争で繰返し戦場となり,その後もスペイン継承戦争,オーストリア継承戦争に力を傾けた結果,国力は疲弊した。…

【フアレス】より

…M.ミラモンが自由主義派の勢力に敗れると彼は大統領に就任(1861)したが,国会が2ヵ年の対外負債凍結を宣言するに至り,イギリス,フランス,スペイン3国軍隊がベラクルスに上陸し,フアレス打倒に加勢した。フランスがマクシミリアン大公をメキシコ皇帝として擁立(1864‐67)すると,臨時政府はパソ・デル・ノルテに移った。サラゴサIgnacio Zaragozaがフランス軍を破り君主政が壊滅すると,67年に大統領に再選され,共和政の勝利を確立する。…

【メキシコ】より

…61年内戦を終結させた自由主義派政府は財政窮乏から外債利子支払停止を宣言したため,フランスの武力干渉を招いた。フランスはオーストリア大公マクシミリアンを送ってメキシコを支配し,第2次帝政時代(1864‐67)を出現させた。自由主義派勢力はフアレス大統領の指揮下で戦い,67年にフランス軍を破った(メキシコ干渉)。…

【メキシコ干渉】より

…フランス軍は,63年5月プエブラでの激しい抵抗運動を制圧し,6月にはメキシコを占領した。メキシコの貴族グループは,ナポレオン3世の指示に従ってオーストリアの大公マクシミリアンFerdinand‐Joseph Maximilian(1832‐67)を皇帝にすえた。しかし,マクシミリアンはメキシコの自由主義者と民衆の支持を得ることはできず,またバゼーヌFrançois‐Achille Bazaine(1811‐88)の率いるフランス軍は,対仏抵抗ゲリラとアメリカ合衆国の圧力によって67年3月撤退した。…

※「マクシミリアン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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