マルクスアウレリウス(その他表記)Marcus Aurelius Antoninus

デジタル大辞泉 「マルクスアウレリウス」の意味・読み・例文・類語

マルクス‐アウレリウス(Marcus Aurelius Antoninus)

マルクス‐アウレリウス‐アントニヌス

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精選版 日本国語大辞典 「マルクスアウレリウス」の意味・読み・例文・類語

マルクス‐アウレリウス

  1. ( Marcus Aurelius Antoninus ━アントニヌス ) 古代ローマ皇帝在位一六一‐一八〇)。五賢帝の最後の皇帝。帝国東部およびドナウ川方面の辺境の防戦に努めた。ストア哲学に傾倒し、戦陣の中で「自省録」を著わした。後漢書の大秦国王安敦はこの帝をさすとみられる。(一二一‐一八〇

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改訂新版 世界大百科事典 「マルクスアウレリウス」の意味・わかりやすい解説

マルクス・アウレリウス
Marcus Aurelius Antoninus
生没年:121-180

ローマ皇帝。在位161-180年。五賢帝の最後。スペイン出の名門に生まれ,幼時にはマルクス・アンニウス・ウェルスMarcus Annius Verusといった。ハドリアヌスにかわいがられ8歳で神官に取り立てられ,彼の命令で138年にアントニヌス・ピウスの養子になり,のちの元首位を約束された。145年アントニヌス・ピウスの娘ファウスティナを妻とし,共治に等しい形でアントニヌス・ピウスの統治を助けた。この間ギリシア語教育を受け,146年ころからはフロントの勧めで哲学を深く学び,ストア学派に傾倒していった。帝位に就いてからは義弟ウェルスを正式に共治帝とした。真剣に統治に取り組み,しだいに激しくなるゲルマンの侵入,帝国内の経済危機に対応すべく東奔西走する。東方にはウェルスを派遣してパルティアを討たせ,アルメニアメソポタミアへの支配権を回復した。しかし東方遠征によって持ち込まれた疫病は帝国各地に蔓延し,無数の人命が失われた。166年にはライン方面からマルコマンニMarcomanniが北イタリアに侵入したので,これを押し戻し,マルコマンニ,サルマタエ(サルマート)を打ち破った。しかしこの間ウェルス,ファウスティナを失い,国庫も窮乏して宮廷の物品を競売に付さざるをえない状態となった。そして175年には東方軍団を握っていたアウィディウス・カッシウスが反乱を起こした。ろうばいした彼は実子コンモドゥスを後継者に定めてこの反乱を鎮圧し,翌年ローマで凱旋式を行うことができた。彼はコンモドゥスを自分と対等の共治帝とし,178年2度目の対マルコマンニ戦争に進発したが,そのさなか今のウィーン近郊の戦陣で病没した。

 彼は養子縁組によって継承されてきた五賢帝時代の最後に位置し,しだいに濃くなる帝国の衰退の兆しに直面せざるをえなかった。統治の大部分は対異民族戦争に費やされ,その著《自省録》は陣中で書きつづられた。行政においては先帝を受け継いで官僚化を進め,ことに財政役を増やした。兵士・市民への贈与を忘れず,ローマ市への穀物配給,貧窮子女への援助などに配慮したが,総じて彼の施策は創造性と先見の明に欠け,保守的であったといわれている。彼は書簡や《自省録》が現存することから知られるように,古代においても哲人皇帝と見なされ,ディオクレティアヌスやユリアヌスらの尊敬を受けている。彼はその著においてストア哲学者として,ローマ伝統の神々を尊ぶが,同時に宇宙の理性,超越的摂理を強調し,これに合致するための人間の敬虔・謙虚な生き方を強調する。しかし,すべてを摂理による運命に帰し,平静さを追求するところに,連戦とさまざまな難問に苦しむ皇帝の無常感が表明されている。彼はキリスト教には好意をもたず,その時代小アジアと,ことにガリアリヨンで大きな迫害が生じても放置した。現在ローマ市のカピトル丘には彼の騎馬像が,またピアッツァ・コロンナにはマルコマンニ戦争の図のレリーフをもつ記念柱が現存し,彼の面影を伝えてくれている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マルクスアウレリウス」の意味・わかりやすい解説

マルクス・アウレリウス
まるくすあうれりうす
Marcus Aurelius Antoninus
(121―180)

ローマ皇帝(在位161~180)。五賢帝の最後の皇帝。スペイン出身の家柄で、同郷のハドリアヌス帝に目をかけられ、その命令で次帝アントニヌス・ピウスの養子とされた。ピウス存命中から政治を補佐し、その死後帝位を継ぐ。義弟ルキウス・ウェルスLucius Verus(在位161~169)を共治帝とした。当初より東方のパルティア、北方のゲルマンと戦い、166年北イタリアにまで侵入したマルコマンニ人を迎え撃ち、170年に勝利を収めた。この間パルティア侵入を防戦したウェルスの軍隊が持ち帰った疫病が大流行し、無数の人命が失われ、また175年にはシリア、エジプトでアウィディウス・カッシウスGaius Avidius Cassius(130―175)が反乱を起こすなど、帝国の衰運が目だち始めた。彼は騎士の人材を抜擢(ばってき)したり、皇帝財産を競売に付して戦費に回すなどの策をとったが、総じて保守的で、果断な行政家ではなかった。カッシウスの乱に際し、急遽(きゅうきょ)まだ若い実子コンモドゥスを共治帝とし、それまでの慣例に反したことも失策に数えられる。なお、中国の『後漢書(ごかんじょ)』に、使者を中国に派遣したと伝えられる大秦(しん)王安敦(あんとん)とは、彼をさすとみられる。

 マルクス・アウレリウスは、早くよりギリシア・ストア哲学に傾倒して雄弁家フロントらに学び、陣中で書き綴(つづ)った『自省録』は後期ストア哲学の代表作である。そのなかで彼は、宇宙の理性に従うことを旨とし、謙虚・寛容と神への敬虔(けいけん)、平静さを称揚しているが、その筆致はきわめてペシミスティックである。178年再度侵入したマルコマンニを討つべく遠征し、その最中ウィーンの近くで病没した。彼の「マルコマンニ戦争」を浮彫りで描いた記念柱と彼の騎馬像がローマ市内に現存している。

[松本宣郎 2015年2月17日]

『神谷美恵子訳『自省録』(岩波文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マルクスアウレリウス」の意味・わかりやすい解説

マルクス・アウレリウス
Marcus Aurelius Antoninus; Marcus Annius Verus

[生]121.4.26.
[没]180.3.17.
ローマ皇帝(在位 161~180)。ストア派の哲人皇帝で,五賢帝の一人。ヒスパニア系の名家の出身。祖父から厳格な教育を受け,フロントヘロデス・アッチコスらを師とした。ハドリアヌス帝の意向でアントニヌス・ピウス帝の養子となり,145年その娘ファウスチナを妻とした。146年からピウス帝と共同統治。その間の 140,145,161年と 3度執政官(コンスル)に就任。161年ピウスの死後その跡を継ぎ,161~169年はルキウス・ウェルスと共同統治。統治中は戦乱,疫病が相次ぎ東奔西走した。特に 165年のパルティアとの戦争で疫病が持ち込まれ,多数の死者を出した。さらにマルコマンニ,グァディ両族と戦い,175年全東方属州の総督格であったガイウス・アウィディウス・カッシウスがゲルマニアで反乱を起こすと,鎮圧の準備に取りかかった。しかしアウィディウス・カッシウスが部下に暗殺されたため,東方の平定と査察のためアンチオキア,アレクサンドリア,アテネを歴訪。その帰途妻に他界された。公正,潔癖な政治を行なったが,ストア的立場からキリスト教徒には迫害策をとった。また陣営で執筆した『独語録』Ta eis heautonはこの時代の文学・哲学作品のなかでも優れたものであり,そのなかで敬虔を説き,宇宙の理性に従うべきことを君主の理想としている。そこにはマルクス・アウレリウスの厳格,思索的な性格が示されている。戦争が続き,属州への負担が強化され,帝国に危機が忍び寄るなかで実子コンモドゥスに位を譲って陣中で病没。

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百科事典マイペディア 「マルクスアウレリウス」の意味・わかりやすい解説

マルクス・アウレリウス

ローマ皇帝(在位161年―180年)。五賢帝時代最後の皇帝でアントニヌス・ピウスの養子。初めパルティア,ドナウ川方面で戦ったが,後には終始ゲルマン人と戦った。ストア哲学者として知られ,戦いの間に著した《自省録》はストア派の代表的文献である。中国とも交流し,《後漢書》に〈大秦王安敦〉とあるのは彼のこととされる。
→関連項目エピクテトスコンモドゥスストア学派ローマの平和

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マルクスアウレリウス」の解説

マルクス・アウレリウス
Marcus Aurelius Antoninus

121~180(在位161~180)

ローマ皇帝。アントニヌス・ピウス帝の養子となり,帝位を継ぐ。五賢帝のうちの第5番目にあたる。まず帝国の東部でパルティア,ついでドナウ川方面でマルコマンニ,クァディなどの諸族の侵入を受け,防戦に努めた。その間,疫病が帝国の危機を深刻にした。帝のあげた戦果は,ローマ市に建てられた記念柱に浮き彫りにされた。のちにまたゲルマン諸族と戦い,ウィーンで病死し,帝の子コンモドゥスが帝位を継いだ。帝はストア学派の哲学者で,戦陣のなかで『自省録』を書いた。中国で後漢の桓帝のとき(166年),大秦王安敦(あんとん)の使節が入貢したと伝えられ,これは帝をさすとみられる。

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世界大百科事典(旧版)内のマルクスアウレリウスの言及

【アウィディウス・カッシウス】より

…172年エジプトにおける反乱を鎮圧。175年,マルクス・アウレリウス帝がドナウ川で死亡したという噂が広まると,自ら皇帝と称し,ビテュニアとカッパドキアを除くオリエント諸属州とエジプトを約3ヵ月間支配したが,マルクス・アウレリウス帝のローマ帰還により反乱は失敗し,自分の兵士により殺された。【市川 雅俊】。…

【アントニヌス朝】より

…2世紀のローマ皇帝アントニヌス・ピウス,マルクス・アウレリウス,コンモドゥスを輩出した帝室の家系(138‐192)。ピウス帝は先帝ネルウァ,トラヤヌス,ハドリアヌスの例にならってマルクスを養子に迎え帝位を継承させたが,マルクス帝は実子コンモドゥスを後継者に指名した。…

【インド洋】より

…特にインド南西部産コショウの輸入のために大量のローマ金銀貨が流出した。166年には大秦王安敦(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスを指す)の使者と称するローマ人が漢朝支配下のベトナムにやって来ている。一部の中国人もセイロン島辺まで行ったようである。…

【ウェルス】より

…ローマ皇帝。在位161‐169年,マルクス・アウレリウスと共治。前名はルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス。…

【カンピドリオ】より

…ローマ帝国崩壊後は廃墟となり,中世以来ローマ市会が境内のタブラリウム跡地に居を占める。16世紀に入ってミケランジェロの設計により,市会議事堂と公証人役場,そしてフォルム・ロマヌムなどからの出土品を収める博物館の三つの建物が広場をとり囲むかたちができ上がり,広場の中央には,それまでラテラノ広場に置かれていたローマ時代(2世紀)作のマルクス・アウレリウス帝騎馬像が据えられた。この広場には古代と違って西側から階段で登ってゆくようになっており,ふりかえるとバチカンが遠望できるようにつくられている。…

【五賢帝】より

…以後,皇帝は最善の人が統治者たるべきであるとするストア哲学の考えに従って後継者を選び,その者を養子とした。トラヤヌス,ハドリアヌス,アントニヌス・ピウス,マルクス・アウレリウスと続く治世には,元老院との協調を旨とし属州行政も整備されて,〈パクス・ローマーナ(ローマの平和)〉と呼ばれる繁栄期が訪れた。啓蒙主義時代の歴史家ギボンは,五賢帝の時代を人類史上最も幸福なる時代と語っているが,近年の歴史研究の教えるところでは,肥大化する官僚・軍事機構の財政的負担が,地方都市の有産者層の財力によってかろうじて支えられることのできた時期であり,しだいに政治,経済,社会の諸問題が顕在化してきた時代と言える。…

【コスモポリタニズム】より

…だがコスモポリタニズムが本格的に現れたのは,都市国家崩壊後のローマ帝国の成立により,ローマ的平和,世界国家の概念がつちかわれた後である。すなわちストア派に属するマルクス・アウレリウスは,世界は自己がその一市民である神の国であり,人間は理性と愛とによって結ばれるべきであると説いた。しかし,こうした主張は隠遁主義と結びつく一方,現実には帝国への忠誠の概念を包蔵していた。…

【自省録】より

…ローマ皇帝マルクス・アウレリウスが多忙な政務,軍務の中でギリシア語で書きつづった記録。その題名は〈タ・エイス・ヘアウトン〉と呼ばれているが,次に〈ヒュポムネマタhypomnēmata〉,あるいは〈パランゲルマタparangelmata〉という名詞を補充して,その題名の意味を〈おのれみずからについての“覚書”〉,あるいは〈おのれみずからへの“励告”〉と解するのが普通である。…

【東西交渉史】より

…一方,西方のギリシア人,ローマ人たちも,1世紀中ごろ以降,季節風を利用して盛んにインド洋に進出し,同じころには《エリュトラ海案内記》と題する,航海の実体験にもとづく南海地方の周航記も残されている。また2世紀後半には大秦王安敦,すなわちローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者と称する者がこのルートを利用してベトナムのフエ(順化)付近に到着したことが後漢の記録に見える。この〈海の道〉は,その後も東南アジア,インド,イランの商人たちによって盛んに利用されたが,特に8世紀以降,イスラム商人が海上貿易にも進出すると,その活躍によって,著しい発展を見せた。…

【ファウスティナ】より

…マルクス・アウレリウスの妃。アントニヌス・ピウスと大ファウスティナとの娘。…

【フロント】より

…北アフリカのキルタ出身。アントニヌス・ピウス帝の信を得て,養子マルクス・アウレリウスとウェルスの修辞学の教師に任ぜられた。143年にはコンスルに就任。…

【ローマ】より

…この登極の経緯から彼は軍隊の統制に難渋したため,後継帝として兵士出身のトラヤヌスを指名し,養子として採用した。トラヤヌスも,続く3人の皇帝も息子がなかったため,後継帝をあらかじめ指名して養子としたので,ネルウァ(在位96‐98),トラヤヌス(在位98‐117),ハドリアヌス(在位117‐138),アントニヌス・ピウス(在位138‐161),マルクス・アウレリウス(在位161‐180)の5代の養子皇帝時代が続いた。これをアントニヌス朝というが,彼らは〈五賢帝〉と名づけられ,E.ギボンによって〈人類の最も幸福な時代〉と褒めたたえられた。…

※「マルクスアウレリウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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