川上操六(読み)カワカミソウロク

デジタル大辞泉 「川上操六」の意味・読み・例文・類語

かわかみ‐そうろく〔かはかみサウロク〕【川上操六】

[1848~1899]軍人陸軍大将鹿児島の生まれ。欧州視察後、陸軍の兵制をフランス式からドイツ式に転換させた。日清戦争の時、大本営参謀として作戦を指導した。

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精選版 日本国語大辞典 「川上操六」の意味・読み・例文・類語

かわかみ‐そうろく【川上操六】

  1. 陸軍大将。子爵薩摩藩鹿児島県)出身。ヨーロッパ視察後、軍制改革に従事。日清戦争を開戦に導き、大本営陸軍参謀として活躍。のち参謀総長嘉永元~明治三二年(一八四八‐九九

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朝日日本歴史人物事典 「川上操六」の解説

川上操六

没年:明治32.5.11(1899)
生年:嘉永1.11.11(1848.12.6)
明治期に活躍した陸軍軍人。薩摩(鹿児島)藩士川上伝左衛門の3男。慶応2(1866)年造士館の師員に選抜され,翌年藩に洋式兵制が施行された際に分隊長に任じられたのが軍人としての第一歩。戊辰戦争では鳥羽伏見,越後,出羽,箱館に転戦,功績をあげ武人賞典禄を受けた。明治4(1871)年最初の陸軍常備軍で近衛師団の起源でもある御親兵隊付の中尉となり,9年少佐に進んで近衛大隊長,次いで参謀局出仕,薩摩閥出身である故の駆け足昇進である。ところが10年西南戦争が勃発し,参謀本部を代表し征討の勅命を伝えるため熊本城に赴き,これを受けた鎮台司令官谷干城は籠城し薩軍と戦うことを決意,川上も残り歩兵第13連隊を指揮,断腸の思いで兄弟,同郷友人相手に戦った。14年仙台鎮台参謀長,15年大佐,近衛歩兵第1連隊長。17年には陸軍卿大山巌に従い,三浦梧楼,桂太郎らと共に渡欧,各国の兵制や軍備を視察,翌年帰国し間もなく少将に進み参謀本部次長となり,陸軍首脳のひとりになった。19年に次長職が一旦廃止されたが,20年1月から1年半,乃木希典と共にドイツに留学,モルトケ,ワルデーゼーから直接軍事思想を学ぶ機会を得たのは幸運であった。帰国後参謀本部条例の改正あり,22年3月から31年まで参謀次長に任じ,有栖川宮熾仁親王,小松宮彰仁親王のふたりの宮様参謀総長の下で参謀本部の独立と強化,日清戦争に備えた軍備の充実などに努めた。2度目の次長就任まで,参謀本部は陸軍省の1局に似た位置にあり,常設の定員さえなかったが,26年の条例改正により定員を確保し,所管事項および権限を大幅に拡張し陸軍省に並列する機関になった。日清戦争(1894~95)中は大本営上席参謀兼兵站総監に任じ,28年3月征清総督府が金州に置かれると参謀長となり,日本の勝利に貢献した。31年1月初めて参謀総長に就任,参謀本部に第1局,第2局を置き,これに次代を担う俊才を集め同本部の地位を確固不動のものとした。同9月大将。<参考文献>徳富猪一郎『陸軍大将川上操六』

(田中宏巳)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「川上操六」の意味・わかりやすい解説

川上操六
かわかみそうろく
(1848―1899)

明治時代の陸軍軍人。嘉永(かえい)元年11月11日薩摩(さつま)国(鹿児島県)に生まれる。1868年(明治1)戊辰戦争(ぼしんせんそう)に薩摩藩一〇番隊小頭(こがしら)として従軍。1871年御親兵として政府に出仕、陸軍中尉。1884年陸軍卿(りくぐんきょう)大山巌(おおやまいわお)の随員として欧米の兵制を視察。1885年陸軍少将、参謀次長。1886年ふたたび渡欧して、おもにドイツの参謀本部について研究。1888年帰国後、陸軍軍制をフランス式からドイツ式に改めるのに参画、参謀本部の地位を確立した。1889年ふたたび参謀次長。1890年陸軍中将。1894年日清(にっしん)開戦に主導的役割を果たし、大本営陸軍参謀として作戦指導にあたった。1895年子爵。1898年陸軍大将、参謀総長。明治32年5月11日死去。

[毛利敏彦]


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百科事典マイペディア 「川上操六」の意味・わかりやすい解説

川上操六【かわかみそうろく】

明治期の軍人,陸軍大将。薩摩(さつま)鹿児島藩の出だが西南戦争では鎮圧に参加。1884年大山巌陸軍卿に随行し桂太郎とともに渡欧。1885年参謀本部次長となり統帥・教育の充実を図る。清国・朝鮮を旅行,探偵網を整備,日清戦争開戦を主導,戦中大本営で作戦を指導。1898年参謀総長。
→関連項目乃木希典メッケル

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改訂新版 世界大百科事典 「川上操六」の意味・わかりやすい解説

川上操六 (かわかみそうろく)
生没年:1848-99(嘉永1-明治32)

明治期の陸軍軍人。日清戦争時の参謀次長として陸軍の作戦計画の中心人物。薩摩藩士川上伝左衛門の子で戊辰戦争に参加後,親兵として上京する。西南戦争で歩兵13連隊長心得として熊本城に籠城。1884年大山巌陸軍卿の渡欧に随行し,帰国後,少将,参謀本部次長となる。86年ドイツ留学で軍事研究をし,89年参謀次長,翌年中将。軍制改革にあたっては,軍政面の桂太郎陸軍次官と軍令面の川上と並び称せられ,軍令系統の機能と権限の充実に努めた。日清戦争をみずから築き上げた参謀本部をひきいて戦った。戦後子爵,98年参謀総長,大将,対ロシア戦争準備に従事中に病没。日清戦争の主戦派として有名。日本陸軍に初めて近代的な戦略を導入した指導者であった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川上操六」の意味・わかりやすい解説

川上操六
かわかみそうろく

[生]嘉永1(1848).11.11. 鹿児島
[没]1899.5.11.
陸軍軍人。近代的戦略を導入した。薩摩藩洋式兵分隊隊長として,鳥羽・伏見の戦い戊辰 (ぼしん) 戦争に従軍。明治4 (1871) 年陸軍中尉となり,1877年西南戦争に官軍側で従軍。 84年大山巌陸軍卿に随行してヨーロッパ,アメリカの兵制を視察し,87年にはドイツに留学。 89年参謀次長となり,95年に日清戦争に出征,子爵の称号を得た。 98年大将,参謀総長。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川上操六」の解説

川上操六 かわかみ-そうろく

1848-1899 明治時代の軍人。
嘉永(かえい)元年11月11日生まれ。明治4年陸軍中尉となる。陸軍卿大山巌(いわお)に随行してヨーロッパの兵制を視察。陸軍軍制のフランス式からドイツ式への改革に参加。日清戦争では大本営参謀として作戦の指導にあたった。31年参謀総長,大将。明治32年5月11日死去。52歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。

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旺文社日本史事典 三訂版 「川上操六」の解説

川上操六
かわかみそうろく

1848〜99
明治時代の軍人
陸軍大将。薩摩藩出身。佐賀の乱・西南戦争に従軍。1884年欧米の兵制を視察し,翌年参謀次長となる。'86年再度渡欧し,ドイツにならって参謀本部の拡充,陸軍の近代化に尽力した。日清戦争では大本営参謀をつとめ,'98年参謀総長となった。

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367日誕生日大事典 「川上操六」の解説

川上 操六 (かわかみ そうろく)

生年月日:1848年11月11日
明治時代の陸軍軍人。参謀次官;大将
1899年没

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