ヨーロッパ北東部、バルト海に臨む独立国。ラトビアは1920年独立を達成したが、独ソ間の密約で1940年に旧ソ連に編入され、その一共和国として半世紀の時を刻んだ。1991年8月ソ連から離脱を宣言し、9月、ふたたび完全な主権国家となると同時に、国連に加盟した。西はバルト海に、北をエストニアに、東をロシア、南はリトアニアとべラルーシに接している。現在の正式国名はラトビア共和国Latvijas Republikaで、面積6万4600平方キロメートル、人口237万5339(2000)。人口密度は1平方キロメートル当り37人。首都はリガ(人口76万)。
ラトビア人はインド・ヨーロッパ語族に属するバルト語系東バルトの諸部族にさかのぼれる。これら諸部族は、ドイツ騎士団が北方十字軍としてバルト海東南岸地域に侵出してきた12世紀末は、いまだ、単一の民族的集合体ではなく、そのため帯剣騎士団とよばれるドイツ騎士団のバルト海東南岸地域への侵出は容易に進められた。さらにキリスト教布教のための伝道師と交易の拡大を求めたドイツ人商人も続いた。
ドイツ人は1198年にダウガーバ(西ドビナ)河口のリガを拠点に北東や南西へと進出、ドイツ人により征服された地域は、リボニア騎士団領(現エストニア南部と現ラトビア北部)とよばれ、騎士出身のドイツ人地主による封建制が発展した。彼らはバルト・ドイツ人地主貴族として政治的分権化を促し、20世紀に至るまでその影響力をもった。また、主要都市はハンザ都市として発展したが、15世紀末のハンザ同盟衰微後も、ドイツ人商人は独占的な繁栄を続けた。
バルト・ドイツ人によって征服された東バルト諸部族は、キリスト教化された農民となった。宗教改革による改宗は、リボニア騎士団領の存在意義を失わせ、16世紀のバルト海の覇権争いで騎士団領は解体した。バルト海の覇権争いに加わったのはロシア、ポーランド、スウェーデンで、リボニア戦争(1558~83)の結果、クルゼメ(クルランド)、ラトガレ(ラトガレン)はポーランド支配下に、ビドゼメ(南リブランド)はスウェーデン支配下となった。1721年、北方戦争後のニスタット条約で、ビドゼメはロシア支配下に移った。ポーランド領となったクルゼメ、ラトガレも、18世紀末のポーランド分割によってロシア支配下に移ったが、バルト・ドイツ人は地主貴族としての地位を維持した。
クルゼメでは1817年に、ビドゼメでは1819年に農奴制が廃止された。1865年には、バルト海諸県の総督がこれまでのバルト・ドイツ人からロシア人に置き換えられ、1860年代末には、バルト海諸県から沿バルト諸県へと呼称も変えられた。公用語のドイツ語がロシア語にかわるのは1885年である。
民族主義の萌芽(ほうが)は18世紀なかばにすでにみられた。民族文化の存在とその重要性を主唱したヘルダーJ. G. Herderのリガ滞在、その友人である牧師メルケルG. Merkelの啓蒙(けいもう)的書物、モラビア兄弟会による義務教育の普及運動があり、19世紀末の識字率は7割以上という高さを示した。農奴解放令とともに初等学校の設立義務、東ヨーロッパに広がっていた民族主義運動の影響も重要である。
民族主義の運動は、民話・民謡の収集、言語の文語化、民族的叙事詩の創作など文化的なものから始まった。1860年代になると、サンクト・ペテルブルグでのラトビア語新聞の発行、1880年代には、同一言語の農民が住む地域をさす「ラトビアLatvija」ということばが生み出された。ロシア帝国軍医プンプルスA. Pumpurs(1841―1902)は1888年に13世紀のドイツ人の侵略に対するラトビア人の抵抗を描いた民族的叙事詩『ラーツィプレイシス(熊(くま)を裂く人)』を描いた。しかし、1860年代以降厳しさを増したロシア化政策は、民族主義の政治的な発展を妨げた。1890年代になると、これまでの民族主義運動とは異なり、社会主義者もその一端を担った「新思潮」とよばれる運動も現れた。
同じく19世紀後半には、交通機関や産業の発展、都市での労働者人口が急増し、リガは1862年から1913年までに人口は5倍に、ラトビア人の人口比も23.6%から39.5%に増えている。
このような民族の覚醒(かくせい)はバルト・ドイツ人への敵対心を導き出し、1905年サンクト・ペテルブルグでの革命を引き金に、ラトビア人居住地域でもストライキや焼き討ち、打ち壊しが起こった。これにかかわったものは30万人を超え、活動家の多くは処刑または亡命することとなった。ロシア帝国政府は革命後、沿バルト諸県への抑圧政策を強化し、ラトビア人の民族意識や社会主義運動は水面下にもぐったが、これをふたたび表出させたのが第一次世界大戦である。ドイツ軍が1915年秋にクルゼメを占領下におくと、郷土防衛の義勇兵からなるラトビア人ライフル団が設立されたが、このような民族編成の軍隊が組織されたのは、ロシア帝国内でも珍しいことであった。
しかし、1917年のロシア革命は、ラトビア人を社会主義者グループと民族主義者グループとに分裂させ、ボリシェビキ勢力が圧倒的に優勢であったにもかかわらず、民族主義者グループが1918年11月18日に独立を宣言し、ウルマニスKarlis Ulmanisが臨時政府を率いた。臨時政府は、依然として居残るドイツ軍とラトビア人ボリシェビキのストゥチカPeteris Stuckaが率いる臨時ラトビア・ソビエト政府の存在に悩まされた。いったんはボリシェビキに追われたウルマニス政府はドイツ軍とともにリガを奪還したが、1919年にはドイツ軍司令官ゴルツ将軍Rudiger von der Goltzに支援されたニードラAndrievs Niedraの親ドイツ政府が成立した。ウルマニス政府はイギリス艦隊保護下に入ったが、エストニア軍の協力と連合軍の圧力によって1919年末までにゴルツ将軍のドイツ軍を撤退させ、1920年の春までにボリシェビキ軍をも撤退させ、4月ソビエトとの間に平和条約を調印した。この独立を特徴づけるのは、ウルマニス政府の国内支持基盤が脆弱(ぜいじゃく)であったこと、また、連合国がボリシェビズムの西漸に対する緩衝地帯として支援を与えたことである。
ラトビア共和国は議会制民主主義の国民国家として、農業改革をはじめとする内政の諸改革に着手し、1922年に憲法(サトバルスメSatversme)も制定された。ラトビア議会(セイマスSaeimas)にも、ドイツ人、ロシア人、ユダヤ人、ポーランド人の少数民族の代表が送られ、多党乱立の状態であった。このような政治的、経済的不安定要因を国内に多く抱えていた上に、世界恐慌による経済危機の影響にみまわれた。1934年5月、ウルマニスが国軍の支持でクーデターを起こして独裁的な体制を敷き「強いラトビア人のラトビア」を目ざした。1930年代になると不穏な国際環境から、1934年にエストニア、リトアニアと「バルト協商」を締結した。しかし、1939年のソ連とナチス・ドイツとの間で結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書には、ラトビアはエストニアとともにソ連圏に置かれることが約されており、10月にはソ連との相互援助条約締結を強いられた。1940年、ソ連軍の進駐下での選挙で選出された新議会はソ連邦への加盟を決議、8月にソ連最高会議によって承認された。
この結果、独立時代の指導者層を含む多くの人々が連行され、シベリアに送られた。1941年6月に独ソ戦が始まると、ラトビアはナチス・ドイツ軍占領下となった。1944年から1945年に、ソ連軍がふたたび当地域を奪還し始めると、多くの人々はドイツ、スウェーデンに脱出、さらに、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどへ移住した。
ソ連軍の再占領で、ラトビアはソ連の構成共和国として、中央集権的国家の一行政単位となった。ドイツ占領下に成立していたラトビア人によるパルチザン活動は「森の兄弟」のゲリラ活動として1950年代まで続いたが、農業集団化をはじめとする厳しいソビエト化の推進で、多くがシベリアへ追放された。
第二次世界大戦後、国内はソ連から戻った共産党員によるソ連中央政府直結の支配が進められた。強制追放や亡命による人口の激減、また、戦場となったことによる国土の荒廃からの復興のために、多くのロシア人労働者が流入してきた。さらに全ソ連邦的企業や工業化の推進によって、ソ連邦内の他共和国との依存関係ができあがり、産業のソビエト化、ロシア人人口比の増大に加えて、文化面でのソビエト化も進められた。スターリン死後の1958年には改革運動がおきたが、翌年には大粛清され、1960年代初めからふたたび厳しい中央集権的支配となった。これに対する抵抗運動は、地下活動や人権運動として続き、1970年代末には活発になっていた。1970年代ラトビアでも経済の停滞で党のスローガンと社会経済の実態との差は拡大し、党内でも批判がでてきた。ロシア人の流入で、1959年にリガのラトビア人の人口比は44.6%であったのが1989年には36.5%にまで低下し、総人口比でもラトビア人は52%、ロシア人は34%となった。
[志摩園子]
1986年以降のゴルバチョフによるペレストロイカ(改革)を契機に、国内で環境保護運動が始まった。1986年10月に始まったダフガフピルスの水力発電所の拡張工事反対議論で建設中止という成果をあげたことから、バルト海の汚染に対する抗議活動、リガの地下鉄工事反対運動などが展開された。運動は、1987年になると、独ソ不可侵条約締結の日、大量のシベリア送りの日、独立記念日などのカレンダーデモに取り組むようになり、1988年には大規模化した。集会やデモではこれまで禁止されてきた古い歌を歌ったため「シンギング・レボリューション(歌とともに闘う革命)」とよばれた。
改革派が共和国の指導層につき、改革と民主化を求める声は、ゴルバチョフの改革を支持する人民戦線(Tautas fronte)運動としてエストニア、リトアニアと連帯して展開した。1988年に設立された人民戦線が当初目ざしたのは、ソ連邦内での自立であったが、翌1989年には独立を目ざすことを明らかにした。1990年3月18日に実施された共和国最高会議議員選挙で人民戦線系が圧勝し、新たに選出されたラトビア最高会議は、リトアニア、エストニアに倣って、5月独立への過程を宣言した。人民戦線以来、バルト3共和国の連帯は続き、分離独立対ソ政策をとっていたが、ゴルバチョフは3共和国の分断政策を図り、独立交渉は暗礁に乗り上げた。それは、1991年1月の「血の日曜日事件」で表面化したが、1991年8月のモスクワでの保守派のクーデターの失敗によってその膠着(こうちゃく)状態は溶けた。9月にソ連の国家評議会は独立を正式に承認した。
1993年6月5日に、独立回復後初めての議会選挙が実施され、セイマ(国会)が成立、ようやくソ連時代の制度から脱した。国内のロシア語住民の人権保護問題からロシア軍撤退交渉は長期にわたったが、1994年8月に撤退は完了し、このとき見送られたスクルンダ・レーダー基地の解体も1999年に完了した。ロシア語住民の問題は、国籍法の成立を難航させ、帰化申請手続の規定は1994年に制定され、翌1995年に旧ソ連国籍者に関する法律が制定された。
[志摩園子]
ラトビアは、ソ連内では発展した工業と集約的な機械化農業が特徴で、生活水準も相対的に高い地域であった。ソ連時代に集権的な経済管理の下で地域分業システムがとられ、重工業や食品加工業の育成強化に重点をおいた産業構造となっていた。電機・エレクトロニクス工業、化学工業、鉄道車両、食品機械、化学繊維、製紙、食肉、酪農製品などをほかの地域に移出していた。
ソ連解体後、エネルギー、工業原料などの連邦からの安定的な供給が止まり、広大な製品市場を失って工業生産も大きく低下し、1993年には失業率が20%台に達した。経済混乱が続き、インフレが高進したため、独自の通貨ラトを導入した。2000年現在の主要貿易相手国はドイツ、イギリス、ロシア、スウェーデン、リトアニアで、おもな輸出品は木材や木材加工品、繊維、金属、金属加工品、輸入品は工作機械、電気機械、鉱物、化学製品などである。農業では畜産と酪農が盛んで、農作物は大麦、ライ麦、エンバクなどのほか、ジャガイモ、野菜、亜麻などが栽培されている。リガ周辺の農業地域では、都市向けの野菜、飼料用のテンサイが栽培され、集約的な畜産が発展している。
[山本 茂]
ラトビアの国語は、インド・ヨーロッパ語族に含まれるバルト語派の一つ、ラトビア語であるが、長いソ連時代を経て、ラトビア人の3分の2がロシア語を話し、ロシア語の普及率が高い。民族構成は、ラトビア人の比率がわずかに過半数を越える57.6%で、ついでロシア人(29.6%)、ベラルーシ人(4.1%)などからなる。ソ連時代にロシア化が進められ、ロシア人の比率が高くなった。最大の都市は首都リガであるが、ほかに南東部に古都ダウガフピルス、バルト海に臨む港湾都市リエパヤ、夏の保養都市ユルマラなどの都市がある。都市人口の比率が高く(72.8%、1995)、首都リガへの一極集中がみられる。
[山本 茂]
『小森宏美・橋本伸也著『バルト諸国の歴史と現在』(2002・東洋書店)』