フランスの政治家、枢機卿(すうききょう)。西部フランスのポアトゥー地方に所領をもつ貴族の子として、パリに生まれる。1607年にポアトゥー地方のリュソン司教となる。1614年パリで開かれた全国三部会にポァトゥー聖職者代表として出席し、国王ルイ13世の母后で摂政(せっしょう)のマリ・ド・メディシスの目にとまって1616年国務卿に任命された。1617年母后の寵臣(ちょうしん)コンチニ(通称アンクル元帥)がルイ13世の手先に暗殺されると、母后がブロアに追放され、リシュリューは母后の後を追った。その後、国王と母后の和解の仲立ちとしてルイ13世に認められ、1622年枢機卿、1624年国務会議のメンバーとなり、同年宰相の地位についた。
リシュリューの政治理念は王国の隆盛と国王の尊厳の確立にあり、彼は「国家理法」Raison d'Etatの観念を明確に意識していた。彼が、国家のなかに独立したプロテスタント国家を建設しつつあったユグノー(新教徒)派の勢力打破に努めたのもこの観念に添ったものである。ルイ13世が1620年ベアルン地方に兵を進めて以来、ユグノー派はふたたび武力抵抗に突入し、リシュリューが登場したときには、国家の安全を脅かすほどの反乱を展開していた。彼は信仰の自由には寛容を示したが、ユグノー派が独自の政治勢力となることを認めず、彼らの最大の牙城(がじょう)ラ・ロシェル市を1627年攻略し、約1年に及ぶ海上封鎖ののち陥落させた。1629年「アレスの王令」によってユグノー派は信仰の自由は認められたが、いっさいの政治的・軍事的特権を剥奪(はくだつ)された。これと並行して反抗的な貴族は容赦なく抑圧された。リシュリューの政治目標がすべての臣民を国王に服従させることにあったからである。ルイ13世の親政(1617)後、母后マリ・ド・メディシスと王弟ガストン・ドルレアンは、反リシュリュー勢力として絶えず陰謀の中核を形成していた。リシュリュー失脚を画策して失敗した1630年の陰謀は「欺かれた者たちの日」(10月11日)とよばれ、その事件で中心的役割を果たした母后マリ・ド・メディシスはベルギーに亡命し、マリヤック兄弟は処罰された。1632年にロレーヌ公やモンモランシー公、1641年にソアッソン伯、1642年にはサンク・マルスやブイヨン公らの反乱が続いたが、いずれの陰謀にもガストン・ドルレアンが関与しており、これらは王権の手によって粉砕された。
リシュリューは、対外的にはフランス王国の国際的威信を高めるため、ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権確立の阻止に努めた。マントバ継承戦争を巧みに利用してピネロロとカザーレにフランス軍の駐屯地を確保し、スペインとオーストリアの動きを妨害するための戦略拠点の獲得を目ざした。1618年に始まった三十年戦争では、ドイツの新教派を支援していたが、1634年新教派のスウェーデン軍が皇帝軍に敗れて戦線から離脱すると、ハプスブルク家との対抗上、1635年この戦争に直接参戦することを余儀なくされた。リシュリューは、1642年国王のスペイン地中海岸の親征に同行して病を得、同年12月4日パリで死去した。
リシュリューが亡くなるころには、フランスの版図はほぼ自然国境に近づいていた。リシュリューの時代は、また租税の増徴に伴って農民一揆(いっき)が激発した時代で、ケルシー地方のクロカンの乱(1624)、ディジョンやルーアンの反王税民衆運動(1630)、南東部の農民一揆(1635)、ノルマンディー地方の「バ・ニュ・ピエ(裸足同盟)の乱」(1639)と相次いで起こった。政治面では、高等法院の建白権が制限され、アンタンダン(地方長官)制が設置されて、国王直轄行政の強化が図られた。経済面では、海外貿易への投資が奨励され、スペイン、オランダ、イギリスとの国際商業戦争に突入していった。
リシュリューは、フランスにおける新聞の始まりである『ラ・ガゼット』La Gazette誌を保護し、1635年にはアカデミー・フランセーズを創設してフランス語の改良や純化に尽力した。著書に『教理問答』L'Instruction du chrétien ou Catéchisme de Leçon(1619)などがある。
[志垣嘉夫]
フランスの政治家。大革命の初期に亡命し、ロシア軍隊に入る。その勇敢さと高潔な人格をロシア皇帝アレクサンドル1世に認められて1803年オデッサ(現、オデーサ)の知事に任ぜられ、この地の経済発展に尽くした。王政復古とともに帰国し、1815年首相となる。翌1816年の選挙で議会の多数を占めた立憲王党派に依拠して中道政策を進め、1818年までにナポレオン戦争の賠償金の支払いと外国軍隊の撤退を実現した。1820年王位継承者ベリー公暗殺後の反動化の時期にふたたび首相の任を帯びたが、ビレールら過激王党(ユルトラ)派の攻勢を支えきれず1821年末辞職した。
[服部春彦]
フランスの政治家。西部フランスのポアトゥー地方に領地を所有する小貴族の家に生まれた。生家が保有していた聖職禄の権利を維持するため1607年リュソンの司教になった。14年に全国三部会に聖職身分の代表として出席,国王ルイ13世の母后摂政マリー・ド・メディシスMarie de Médicisに認められて政界に進出した。17年に国王が親政を開始し母后との間に争いが生じると,両者の和解をとりもって政治的影響力を強めた。22年枢機卿,24年には国務会議に入り,ほどなく事実上の宰相の地位に就いた。政権を掌握した彼は,病身にもかかわらず精力的に職務を遂行した。内政に関しては,王権の政治的基盤を安定させるため,大貴族とユグノーの二大勢力と対決する。30年にリシュリューの罷免をたくらんだ母后マリーを逆に国外に追放したほか,元帥モンモラシー公(1632)や国王側近のサンマール(1642)などの相次ぐ陰謀,反乱を失敗に終わらせた。一方,ユグノーに対しては,1627年,ラ・ロシェル市を包囲戦の末落城させ,29年,アレスの王令でユグノーの政治的特権を剝奪した。また,地方長官の派遣による国王直轄官僚制度の拡充を通じて統治の中央集権化を推し進めた。対外政策の面では,重商主義政策をとり,新大陸との海上貿易に特権を与え,海軍や商船隊の増強に努めた。その目的は宿敵ハプスブルク家を凌駕する国力を育成することにあったが,35年からは三十年戦争に公然とフランスを参戦させ,ハプスブルク家に対抗した。彼が一貫して追求したのは国家利益の擁護であったが,それはあまりに急速かつ強圧的に行われざるをえなかったために,国内に強い不満がひろがった。とくに農民は租税の増徴に最も苦しめられたから,リムーザン地方のクロカンの乱(1635-37),ノルマンディー地方の裸足の乱(1639)などの一揆が多発した。彼の死後,その政策は協力者であったマザランに継承された。
執筆者:林田 伸一
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1585~1642
フランスの政治家。小地方貴族の次男。聖職につき,1614年の三部会で政治家としての才能を現した。摂政母后に登用されるが,17年ルイ13世のクーデタにより失脚。22年枢機卿となり,24年ルイ13世により宰相に任じられた。彼は激しやすく疑い深い王をよく導き,大貴族を押え,ラ・ロシェルの攻囲によりユグノーの政治的力をくだいた。また重商主義政策をとり国力の回復に努め,集権的な絶対王権の確立を図った。対外的にはハプスブルク家を押え,フランスの優位を築くことに主目標を置き,31年以来三十年戦争に介入した。
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…パリ南西郊ベルサイユにある,ルイ14世の造営になる宮殿。東端に位置する宮殿château,その背後に広がる庭園,離宮グラン・トリアノン,プチ・トリアノンなどからなる。 騒擾(そうじよう)事件が頻発し衛生状態のよくないパリの町を嫌ったルイ14世は,郊外の森に囲まれた田園地帯に,ルイ13世時代の狩りの館を大々的に作りかえる形で,まったく新しいタイプの宮殿,そしてそれに付属する都市を構想し,その意匠を王宮建築家たちにゆだねた。…
…フランス学士院Institut de Franceにある五つのアカデミーのうち最古のもの。1633年ごろ,詩人コンラールValentin Conrart(1603‐75)の家で文芸同好会のような集りがあるのを知った宰相リシュリューが,これを公的機関に制定し,フランス語の統一と純化という文化政策の一環に組み入れようとした。同会は〈アカデミー・フランセーズ〉の名で35年に正式に発足。72年,国王ルイ14世自身が庇護者となって以来,歴代の国家元首の管轄下に置かれている。…
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【文学】
文学の上で,ロマン主義に対立する表現形態を指すものとして,19世紀初頭のヨーロッパで定着して用いられるようになった言葉。古代ギリシア・ローマの優れた作品を古典(クラシック)すなわち規範としてそれにならおうとする態度であり,その最も豊饒な成果は17世紀後半のフランスに見いだされる。しかし後代が〈古典主義〉の作家とみなす作家が,みずから古典主義を標榜したわけではない。文学史上の時代区分では,古典主義はロマン主義と対立するだけではなく,みずからに先行するものとしてバロックとも対比される。…
…フランスの首都。行政上は1市1県で,面積105km2,人口213万(1994)。フランス北部,イギリス海峡に注ぐセーヌ川の河口から直線距離で約170km,イル・ド・フランス地方のパリ盆地の中央,セーヌ川とマルヌ川の合流点の西に広がる。パリ盆地は東西400km,南北350kmで,セーヌ川とその支流が蛇行しながら流れ,古くから水上交通路として利用されてきた。年平均気温は10.9℃,最寒月の1月の平均気温は3.1℃,最暖月の7月は19.0℃である。…
…ヒトでは大便と呼ばれる。動物の消化管の末端から排出される不用物で,主として食物中の不消化部分からなるが,ほかに腸内細菌,消化管の粘膜や消化腺からの分泌物,例えば胆汁色素なども含まれる。消化管の末端が肛門として独立せず,尿管および生殖輸管と合流して体外に開口する総排出腔となっている動物では糞と尿の区別は明確でない。なおウサギ類には硬軟2種の糞があり,軟らかい糞は肛門から再度摂食されて,盲腸内で寄生細菌によってセルロース消化を受けてのち,固い糞として最終的に排出される。…
…パリ南西郊ベルサイユにある,ルイ14世の造営になる宮殿。東端に位置する宮殿château,その背後に広がる庭園,離宮グラン・トリアノン,プチ・トリアノンなどからなる。 騒擾(そうじよう)事件が頻発し衛生状態のよくないパリの町を嫌ったルイ14世は,郊外の森に囲まれた田園地帯に,ルイ13世時代の狩りの館を大々的に作りかえる形で,まったく新しいタイプの宮殿,そしてそれに付属する都市を構想し,その意匠を王宮建築家たちにゆだねた。…
…フランス国王。在位1610‐43年。アンリ4世とマリー・ド・メディシスの長子として生まれ,1610年アンリ4世が暗殺されるとともに9歳で即位した。政治の実権は摂政であった母后とそのお気に入りのイタリア人コンチーニ夫妻が握っていたが,国王は成年に達するとこれを不満とし,17年寵臣リュイヌの手をかりてコンチーニを暗殺し,母后もブロアに追放した。こうして親政が開始されたものの,王国は,国王の未成年時代からこれを幸いとして不穏な動きを示し始めていた大貴族とユグノーの反抗のために,危機的な状況にあった。…
…フランス最初の新聞《ガゼットGazette》の創刊者。ルーダンに生まれる。1605年,古い歴史と自由な空気を誇るモンペリエ大学医学部卒業後,故郷で外科を開業。失脚中のリシュリューの知遇を得,その政界復帰(1624年にルイ13世の宰相となる)とともにルノードもパリに移住した。王や宰相を後ろだてに,かねて関心のあった貧民救済やさまざまな事業に手をつけた。なかでも後世への影響が最大だったのが,31年5月30日の週刊紙《ガゼット》の創刊である。…
…フランスの建築家。ポントアーズの建築家一家の出身。作風は古典主義的傾向を示す。イタリアで修業した後,パリで数々の大造営事業にかかわるようになる。ルイ13世の命によりルーブル宮殿の増築を手がけ,カリアティード(女人柱)で名高い時計の楼館(1641)などを実現した。またリシュリュー枢機卿との関係が深く,彼の館パレ・ロアイヤル(1624‐36),彼の寄進になるソルボンヌの礼拝堂(1626‐42)などを設計し,さらにトゥール南西方のリシュリューRichelieuに彼のための城館と都市を建設。…
※「リシュリュー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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