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ルートウィヒ[2世] ルートウィヒ

百科事典マイペディアの解説

ルートウィヒ[2世]【ルートウィヒ】

バイエルン王国第4代国王(在位1864年―1886年)。森鴎外《うたかたの記》やビスコンティ監督《ルートウィヒ――神々の黄昏(たそがれ)》の主人公。ワーグナーの熱狂的庇護者(バイロイト祝祭劇場建設は王の後援による),築城マニア(ノイシュバンシュタイン,リンダーホーフ,ヘレンキームゼーなど)として知られる。
→関連項目ノイシュバンシュタイン城

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世界大百科事典 第2版の解説

ルートウィヒ[2世]【Ludwig II】

806ころ‐876
東フランク王。在位843‐876年。ドイツ人王der Deutscheと呼ばれた。ルートウィヒ1世の三男。817年帝国計画令で付与されたバイエルンを本拠として,830年に始まる王族間の相続争いを戦い抜き,843年ベルダン条約により東フランク王国を確保した。その後も870年メルセン条約でロートリンゲン東半を加え,東方でボヘミアモラビアと戦うなど王国の保全と拡大に努め,のちのドイツ王国への発展を用意した。

ルートウィヒ[2世]【Ludwig II】

1845‐86
悲劇の生涯を送ったバイエルンの4代目の国王。在位1864‐86年。マクシミリアン2世プロイセンのホーエンツォレルン家出身の母との間に生まれ,幼時ホーエンシュワンガウ城のロマンティックな環境のもとで過ごした。早くから孤独癖が強く,中世ドイツの伝説に親しみ,幻想の世界に遊んだが,61年ミュンヘンで《ローエングリン》に感激してからR.ワーグナーに心酔するようになる。父の死により18歳で王位を継いだが,政務にはほとんど関心を示さず,もっぱら芸術に親しむ日々を送り,他方では近衛士官や俳優や馬丁と同性愛的関係におちいって,67年には王女ゾフィーとの婚約を解消してしまう。

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世界大百科事典内のルートウィヒ[2世]の言及

【シュトラスブルクの盟約】より

…840年のルートウィヒ1世の死後,その長子のロタール1世は皇帝位と同時にフランク王国全体に対する最高権を主張して,弟のルートウィヒ2世にはバイエルン1国に甘んずることを,また末弟のカール2世には相続領をアキテーヌ1国に縮小することを強要した。そのうえ彼は,恩貸地の大盤振舞によって,弟たちの家臣の多くを,自分の家臣に加えることに成功した。…

【フランクフルト・アム・マイン】より

…文書史料にこの名が最初に登場するのは794年のことで,この年カール大帝は,ヨーロッパ全土から聖俗高位者をこの地に呼び集め,その王宮広間で,バイエルン大公タッシロ3世の廃位,キリスト猶子説と聖画崇拝の禁止など重要問題を討議した。ルートウィヒ1世(在位814‐840)は,王宮を改築し,以後東フランク諸王の主要な宮廷所在地となった。852年ルートウィヒ2世ドイツ人王は,そのかたわらに救世主礼拝堂を建て,856年ロタール2世(在位855‐869),887年アルヌルフ(在位887‐899)が,堂内で玉座に推戴された。…

【バイエルン】より

…同市のビールは〈オクトーバーフェストOktoberfest〉とともに名高い。風光明媚のアルプス山地,中世都市の面影を濃く残すロマンティッシェ・シュトラーセルートウィヒ2世のノイシュワンシュタインNeuschwanstein城など,観光資源にも富む。
【歴史】

[バイエルン大公国の成立]
 アルプス以北の高原地帯には,紀元前1千年紀の半ば以降ケルト人が住み,ドナウ川流域の大都市マンヒングをはじめ,ここにもラ・テーヌ文化が栄えていた。…

※「ルートウィヒ[2世]」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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