フランドルの画家。ドイツ,ウェストファーレン地方のジーゲンSiegen生れ。父はアントウェルペン(アントワープ)出身の法律家で,カルバン派を支持して同地に亡命中であった。父の没後,1589年一家はアントウェルペンに戻る。ルーベンスはラテン語学校に学び,貴族の小姓となるが,画家を志して2人の師匠(その1人は後にヨルダーンスの師となるファン・ノールトAdam van Noort(1562-1641))を経た後,アントウェルペン屈指のロマニスト,ファン・フェーンOtto Cornelisz. van Veen(1556-1629)に師事,98年同地の画家組合に加入した。修業時代から1600年にイタリアに赴くまでの最初期の作品はわずかしか知られておらず,しかも冷たくアカデミックな様式は,師匠ら16世紀フランドルのイタリア志向派と区別しがたい。しかし,マントバ公に仕えながら各地で見聞を広め制作活動を行った8年間のイタリア滞在中に,その芸術的個性は急速な開花を遂げる。ローマで古代彫刻やミケランジェロ,ラファエロにならって,古典様式の理想的形態美,調和的構図,記念碑性を身につけ,同世代のカラバッジョの芸術との接触により,生得の自然主義的傾向を自覚した。ベネチア派の華麗な色彩や大胆な構図にも親しむ。こうして,独自の奔放な構想力を核として,古典的規範性,生気あふれる現実感覚,豊かな色彩性を統合した様式が形成される。祭壇画,神話画に加え,ジェノバでは土地の貴族の儀容性と生命感を兼備した全身肖像画を描き,ファン・デイクに継承される貴族的肖像画の新類型を創始した。
08年の帰郷後は,スペイン領ネーデルラント総督アルブレヒト大公夫妻の宮廷画家となり,また富裕な市民たちの注文で多くの祭壇画,神話画,寓意画を制作する。10年代前半は彫刻的な硬質の人体表現を特色とするが,後半は筆触は自由さを,色彩は華麗さを増し,激しい運動をも緊密で均衡ある構図のうちに表現する力を確立。これはルーベンス個人を超えたバロック絵画の円熟でもあった。18-21年にはファン・デイクがルーベンスの助手を務めているが,そのファン・デイクら一門を動員してのアントウェルペンのイエズス会教会天井装飾(1620-21)以降,大規模な注文が続き,活動の舞台も国際的となる。フランス王ルイ13世の母マリー・ド・メディシスの宮殿(リュクサンブール宮殿)を飾る彼女の一代記(1622-25)やイサベラ大公妃のための〈聖体の秘跡の勝利〉タピスリー連作下絵(1627)は,その規模の壮大さのみならず,君主・教会の称揚を装飾性と結びつけた着想においても,きわめてバロック的である。20年代後半には,画業のかたわら主君の外交使節としても活動,スペインとイギリスを和平に導いた功により,両国王フェリペ4世とチャールズ1世から騎士に叙せられた。
この間最初の妻イサベラ・ブラントIsabella Brantと死別(1626)したルーベンスは,30年に16歳のエレーヌ・フールマンHélène Fourmentと再婚。それ以後,イギリス王室のホワイトホール迎賓館の天井画(1636完成),ネーデルラント新総督歓迎のアントウェルペン市中装飾(1634-35),スペイン王の狩猟館装飾(1636-38)など大企画の注文が依然相次いだ。他方,妻子の肖像画,別荘周辺の田園に取材した風景画など私的な作品がふえ,神話画も親密な雰囲気を増し,フランス・ロココ絵画を予告するような典雅な風俗画も描かれた。スケッチ風の伸びやかな筆致,豊潤な色彩,高貴な官能性には,ベネチア派ことにティツィアーノの最大の後継者としての真価が発揮されている。
ルーベンスには静物画を除く各画種の,大画面から小品に至る膨大な量の作品がある。油彩習作や素描も多数現存する。工房作も多く(工房の規模は不詳),とくに種々の大企画で有名無名の画家を協力者に起用し,静物画や風景画の専門家との共同制作も行った。自邸の設計,彫刻や書物挿絵の意匠も手がけ,専門家を用いた自作の構想の版画化にも熱心であった。その絶大な影響力は17世紀フランドルという一時代,一地方にとどまらない。また古典文学に通じ語学の才に恵まれた教養人でもあり,各国の学者,注文者と取り交わした多数の書簡が残されている。アントウェルペンで没。
執筆者:高橋 裕子
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フランドルの画家。17世紀バロック絵画の代表者。ルーベンスは英語、ドイツ語読みで、フランドルではリュベンス。資産家の父が政治上の理由からドイツに逃れていたため、ウェストファリアのジーゲンで1577年6月28日に生まれる。父の死後、10歳のとき母や兄とともに故郷アントウェルペンに戻り、ここでカトリック教徒としての教養を身につけるためラテン語学校に入ったが、3年在籍ののち、ラングレ伯未亡人の小姓となった。しかし、画家としての志向がようやく芽生えてきたのもこのころで、まず91年にウェルヘークトの門に、ついでアダム・ファン・ノールト(1562―1641)、さらにオットー・ファン・ウェーン(1556―1629)のアトリエに入った。独立の画家としてアントウェルペンの画家組合に登録されたのは98年、21歳のときである。
とはいえ、彼もまた当時の青年画家の例に漏れず、イタリア留学に強い希望をもち、1600年ついに実現した。そして約8年間、おもにマントバやローマにおいて古代美術やルネサンスの巨匠たちを学び、あるいは当時のカラッチ派や新しい自然主義を打ち出したカラバッジョの影響も受けて成熟し、名声もしだいにあがって祭壇画などを描いている。一方、マントバ公の知遇を得て、その使節としてスペインに赴くなど、多彩に充実した生活であった。08年の秋、母の病気の知らせでイタリアを離れた。母の死にはまにあわなかったが、彼の力量はすでによく知られ、フランドル第一の画家として故国に迎えられた。翌年、総督アルベルト公の宮廷画家となり、同年秋、名門の娘イサベラ・ブラントと結婚。それ以後は日ごとに高まる名声と多くの弟子に囲まれて、ルーベンス独特の豊麗・壮大な芸術を展開させていった。
彼は歴史画・宗教画をはじめ、あらゆるジャンルを題材としている。しかも、どのような主題を描こうと、そこに生の喜びがあふれ、豊潤と壮麗が一大シンフォニーを奏でている。そのような彼の最大のモニュメントは、1621~25年にパリのリュクサンブール宮殿大広間のために描いた21面の大壁画『マリ・ド・メディシスの生涯』(現ルーブル美術館)である。ここにはルーベンス芸術のすべての特質が、そしてバロック絵画の集大成がみいだされよう。その後、彼の多彩な芸術活動はいよいよ円熟し、一方、外交官としても活躍し、その芸術と人柄の豊かさ、温かさによって、ヨーロッパ各国の王侯から多大の尊敬と愛顧を得た。26年には妻に先だたれたが、30年末には若く健康で美しいエレーネ・フールマンとの再婚に恵まれ、晩年の10年間は痛風に悩まされたとはいえ、おそらく歴史上もっとも恵まれた画家として、幸福に満ち足りた生涯を送った。40年5月30日アントウェルペンに没。
[嘉門安雄]
『ボードワン著、黒江光彦他訳『ルーベンス』(1978・岩波書店)』▽『嘉門安雄解説『大系世界の美術16 フランドルの絵画』(1972・学習研究社)』
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1577~1640
オランダのフランドル派の画家。バロック様式美術の第一人者。その作風は官能的な力と運動に満ち,雄大で,あらゆる題材の作品を生んだ。フランス,イングランドなどの宮廷画家として大作の委嘱を受け,また外交使節としても活躍した。
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…その結果,刻線は再現のためというよりビュランのアクロバティックな曲線そのものの動きや交錯のおもしろさを表現する場合があり,弟子のマタムJacob Matham(1571‐1631),ミュレルJan Müller(1570ころ‐1625ころ),P.J.サーンレダムらに引き継がれた。またルーベンスは優れた版画家群に自作を複製させ,彫刻銅版画の古典的技法形成に一役買った。 フランスでは16世紀に地方で黙示録に独自の幻想を深めたJ.デュベや17世紀では肖像版画にR.ナントゥイユのように優れた創作版画家もいたが,17,18世紀は複製版画が一般的になり,それにはより製作が容易な腐食法による版に,仕上げをビュランでするという複合技法が用いられた。…
…たとえば,公共建築などで中央にドームのある主屋,両脇に低い翼部を配するといった構成は,彼の手法そのままであり,〈異人館〉の開放的ベランダなども,もとは彼の手法から出ている。建築以外の分野でもパラディオの影響には無視しえないものがあり,絵画におけるN.プッサンやルーベンス,文学におけるゲーテなどは,いずれも熱心なパラディオ主義者であった。【福田 晴虔】。…
…彼らは,古典主義と対立し,かつこれと並ぶ第二の美の様態があることを主張し,バロックにルネサンスまたは古典主義と同等の価値を与えた。また,フランスでは,18世紀のルソーにすでにその思想の萌芽があり,ロマン派の支持者であったボードレールはルーベンスやレンブラントを称揚し反アカデミズムの美学を盛り上げた。さらには,なににもまして,印象主義からフォービスムにいたる現代芸術の革新的実践が芸術上の価値観を転倒させ,過去への文化に対する価値評価の転換を迫ったものと考えることができる。…
…アントウェルペン(アントワープ)に生まれ,ファン・バーレンH.van Balenに師事するが,異例にも画家組合加入以前に16,17歳で独立の工房を構えていたことが知られ,神童ぶりをうかがわせる。1618年正式に親方画家の資格を得,このころからルーベンスの助手となって,師匠の油彩習作に基づく本絵の制作(焼失したアントウェルペンのイエズス会教会の天井画等)やその作品の銅版画化のための模写素描の制作に従事し,独立の作品も手がけた。この時期の作品にはルーベンスの影響が顕著であるが,ルーベンスの形態把握と画面構成が動勢をはらみながらも堅固,充実,安定を示しているのに対し,彼の作品には実体感の希薄さと神経質な動揺が認められる。…
…しかし,カトリック教会とハプスブルク家の総督のもとにとどまったとはいえ,フランドルでも美術活動の直接の担い手はオランダと同様富裕な市民層で,教会の祭壇画も市民個人または団体の寄進である場合が多い。とはいうものの,商都アントウェルペンに住んで市民の注文にこたえつつ在ブリュッセルの総督の宮廷画家となり,さらに諸国の王侯のため大作を手がけたP.P.ルーベンスの活動が示すように,宮廷社会との結びつきも依然強く,これと関連して神話画や寓意画が宗教画と並ぶ重要性を有していた。このため風景画,風俗画,静物画などは周辺に押しやられ,オランダに比べ発展はとどこおりがちであった。…
…設計はS.deブロスで,彼はフランス・ルネサンスの城館の平面を適用してそこにルスティカ仕上げの3層の宮殿を計画し,1615年に礎石が打たれた。内部の装飾にはルーベンスらが加わっている。19世紀初頭より上院として用いられ,そのため1836‐41年に建築家アルフォンス・ド・ジゾールAlphonse de Gisors(1796‐1866)の手で庭園側ファサードが大きく造り替えられた。…
※「ルーベンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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