コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ルーベンス ルーベンス Rubens, Peter Paul

6件 の用語解説(ルーベンスの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ルーベンス
ルーベンス
Rubens, Peter Paul

[生]1577.6.28. ジーゲン
[没]1640.5.30. アントウェルペン
フランドルの画家,外交官。アントウェルペンの法律家の子。 A.ノールト,O.フェーンについて絵を学んだ。 1598年アントウェルペン画家組合員となり,2年後イタリアに留学,主としてベネチアローマに滞在し,ティントレットレオナルドダ・ビンチ,M.カラバッジオの作品を研究。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ルーベンス(Peter Paul Rubens)

[1577~1640]フランドルの画家。壮大華麗な画風でバロック絵画の代表画家。外交官としても活躍。リューベンス

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

ルーベンス

フランドルのバロックを代表する画家。フラマン語ではリュベンスドイツウェストファーレン地方ジーゲンに生まれ,おもにアントウェルペンで活動。1600年イタリアへ行き,ベネチアでティツィアーノの作品を研究,のちマントバ公の宮廷画家として活動した。
→関連項目アルテ・ピナコテークエルスハイマーカラバッジョカンペンジェリコードラクロアドレスデン国立絵画館プラド美術館フランドルフランドル美術ムリーリョヨルダーンスラルジリエールリールルーブル美術館レンブラント

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

世界大百科事典 第2版の解説

ルーベンス【Peter Paul Rubens】

1577‐1640
フランドルの画家。ドイツ,ウェストファーレン地方のジーゲンSiegen生れ。父はアントウェルペン(アントワープ)出身の法律家で,カルバン派を支持して同地に亡命中であった。父の没後,1589年一家はアントウェルペンに戻る。ルーベンスラテン語学校に学び,貴族の小姓となるが,画家を志して2人の師匠(その1人は後にヨルダーンスの師となるファン・ノールトAdam van Noort(1562‐1641))を経た後,アントウェルペン屈指のロマニスト,ファン・フェーンOtto Cornelisz.van Veen(1556‐1629)に師事,98年同地の画家組合に加入した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ルーベンス【Peter Paul Rubens】

1577~1640) フランドルの画家。豊麗な色彩、壮大な画風のバロック様式の代表的画家。さまざまな題材を描き、二千点に及ぶ作品を残した。宮廷外交にも活躍。代表作は、壁画「マリ=ド=メディシスの生涯」など。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ルーベンス
るーべんす
Peter Paul Rubens
(1577―1640)

フランドルの画家。17世紀バロック絵画の代表者。ルーベンスは英語、ドイツ語読みで、フランドルではリュベンス。資産家の父が政治上の理由からドイツに逃れていたため、ウェストファリアのジーゲンで1577年6月28日に生まれる。父の死後、10歳のとき母や兄とともに故郷アントウェルペンに戻り、ここでカトリック教徒としての教養を身につけるためラテン語学校に入ったが、3年在籍ののち、ラングレ伯未亡人の小姓となった。しかし、画家としての志向がようやく芽生えてきたのもこのころで、まず91年にウェルヘークトの門に、ついでアダム・ファン・ノールト(1562―1641)、さらにオットー・ファン・ウェーン(1556―1629)のアトリエに入った。独立の画家としてアントウェルペンの画家組合に登録されたのは98年、21歳のときである。
 とはいえ、彼もまた当時の青年画家の例に漏れず、イタリア留学に強い希望をもち、1600年ついに実現した。そして約8年間、おもにマントバやローマにおいて古代美術やルネサンスの巨匠たちを学び、あるいは当時のカラッチ派や新しい自然主義を打ち出したカラバッジョの影響も受けて成熟し、名声もしだいにあがって祭壇画などを描いている。一方、マントバ公の知遇を得て、その使節としてスペインに赴くなど、多彩に充実した生活であった。08年の秋、母の病気の知らせでイタリアを離れた。母の死にはまにあわなかったが、彼の力量はすでによく知られ、フランドル第一の画家として故国に迎えられた。翌年、総督アルベルト公の宮廷画家となり、同年秋、名門の娘イサベラ・ブラントと結婚。それ以後は日ごとに高まる名声と多くの弟子に囲まれて、ルーベンス独特の豊麗・壮大な芸術を展開させていった。
 彼は歴史画・宗教画をはじめ、あらゆるジャンルを題材としている。しかも、どのような主題を描こうと、そこに生の喜びがあふれ、豊潤と壮麗が一大シンフォニーを奏でている。そのような彼の最大のモニュメントは、1621~25年にパリのリュクサンブール宮殿大広間のために描いた21面の大壁画『マリ・ド・メディシスの生涯』(現ルーブル美術館)である。ここにはルーベンス芸術のすべての特質が、そしてバロック絵画の集大成がみいだされよう。その後、彼の多彩な芸術活動はいよいよ円熟し、一方、外交官としても活躍し、その芸術と人柄の豊かさ、温かさによって、ヨーロッパ各国の王侯から多大の尊敬と愛顧を得た。26年には妻に先だたれたが、30年末には若く健康で美しいエレーネ・フールマンとの再婚に恵まれ、晩年の10年間は痛風に悩まされたとはいえ、おそらく歴史上もっとも恵まれた画家として、幸福に満ち足りた生涯を送った。40年5月30日アントウェルペンに没。[嘉門安雄]
『ボードワン著、黒江光彦他訳『ルーベンス』(1978・岩波書店) ▽嘉門安雄解説『大系世界の美術16 フランドルの絵画』(1972・学習研究社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内のルーベンスの言及

【銅版画】より

…その結果,刻線は再現のためというよりビュランのアクロバティックな曲線そのものの動きや交錯のおもしろさを表現する場合があり,弟子のマタムJacob Matham(1571‐1631),ミュレルJan Müller(1570ころ‐1625ころ),P.J.サーンレダムらに引き継がれた。またルーベンスは優れた版画家群に自作を複製させ,彫刻銅版画の古典的技法形成に一役買った。 フランスでは16世紀に地方で黙示録に独自の幻想を深めたJ.デュベや17世紀では肖像版画にR.ナントゥイユのように優れた創作版画家もいたが,17,18世紀は複製版画が一般的になり,それにはより製作が容易な腐食法による版に,仕上げをビュランでするという複合技法が用いられた。…

【パラディオ主義】より

…たとえば,公共建築などで中央にドームのある主屋,両脇に低い翼部を配するといった構成は,彼の手法そのままであり,〈異人館〉の開放的ベランダなども,もとは彼の手法から出ている。建築以外の分野でもパラディオの影響には無視しえないものがあり,絵画におけるN.プッサンやルーベンス,文学におけるゲーテなどは,いずれも熱心なパラディオ主義者であった。【福田 晴虔】。…

【バロック美術】より

…彼らは,古典主義と対立し,かつこれと並ぶ第二の美の様態があることを主張し,バロックにルネサンスまたは古典主義と同等の価値を与えた。また,フランスでは,18世紀のルソーにすでにその思想の萌芽があり,ロマン派の支持者であったボードレールはルーベンスやレンブラントを称揚し反アカデミズムの美学を盛り上げた。さらには,なににもまして,印象主義からフォービスムにいたる現代芸術の革新的実践が芸術上の価値観を転倒させ,過去への文化に対する価値評価の転換を迫ったものと考えることができる。…

【ファン・デイク】より

…アントウェルペン(アントワープ)に生まれ,ファン・バーレンH.van Balenに師事するが,異例にも画家組合加入以前に16,17歳で独立の工房を構えていたことが知られ,神童ぶりをうかがわせる。1618年正式に親方画家の資格を得,このころからルーベンスの助手となって,師匠の油彩習作に基づく本絵の制作(焼失したアントウェルペンのイエズス会教会の天井画等)やその作品の銅版画化のための模写素描の制作に従事し,独立の作品も手がけた。この時期の作品にはルーベンスの影響が顕著であるが,ルーベンスの形態把握と画面構成が動勢をはらみながらも堅固,充実,安定を示しているのに対し,彼の作品には実体感の希薄さと神経質な動揺が認められる。…

【フランドル美術】より

…しかし,カトリック教会とハプスブルク家の総督のもとにとどまったとはいえ,フランドルでも美術活動の直接の担い手はオランダと同様富裕な市民層で,教会の祭壇画も市民個人または団体の寄進である場合が多い。とはいうものの,商都アントウェルペンに住んで市民の注文にこたえつつ在ブリュッセルの総督の宮廷画家となり,さらに諸国の王侯のため大作を手がけたP.P.ルーベンスの活動が示すように,宮廷社会との結びつきも依然強く,これと関連して神話画や寓意画が宗教画と並ぶ重要性を有していた。このため風景画,風俗画,静物画などは周辺に押しやられ,オランダに比べ発展はとどこおりがちであった。…

【リュクサンブール宮殿】より

…設計はS.deブロスで,彼はフランス・ルネサンスの城館の平面を適用してそこにルスティカ仕上げの3層の宮殿を計画し,1615年に礎石が打たれた。内部の装飾にはルーベンスらが加わっている。19世紀初頭より上院として用いられ,そのため1836‐41年に建築家アルフォンス・ド・ジゾールAlphonse de Gisors(1796‐1866)の手で庭園側ファサードが大きく造り替えられた。…

※「ルーベンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

ルーベンスの関連キーワードウエストファリアウエストファリア条約ノルトラインウェストファーレンヴェストファール現象(臨床医学)ピルツ‐ヴェストファール現象ウェストファーレンライン・ウェストファーレン石炭シンジケートウェストファーレン,J.vonウェストファーレン条約ウェストランド種 (Westland)

今日のキーワード

ポケモンGO

2016年7月6日に米国・オーストラリア・ニュージーランドで配信開始となったスマートフォン用AR(仮想現実)モバイルゲーム。開発・発売元はNiantic,Inc.(ナイアンティック)で、株式会社ポケモ...

続きを読む

コトバンク for iPhone

ルーベンスの関連情報