1810年代、20年代にヨーロッパ全域にもっとも影響力のあったイタリアのオペラ作曲家。2月29日、アドリア海に面する小都市ペザロに生まれる。幼時から音楽的才能を発揮したが、両親がボローニャに定住した1804年ごろから正式に音楽を学んだ。06年、同市の音楽院に入学、積極的に作曲を試みた。10年に卒業、2年後にベネチア初演の『幸福な思いちがい』で成功、オペラ作曲家として知られるようになり、同年『試金石』をミラノのスカラ座で上演、大成功を収めた。翌13年ベネチアで『ブルスキーノ氏』、彼のオペラ・セリアとしては第一作にあたる『タンクレディ』、そして『アルジェのイタリア女』を上演、いずれも成功した。
1815年、彼はナポリでオペラ・セリア『イギリスの女王エリザベス』を上演、ここでも人気を集めたが、ナポリ王立音楽院院長で当時のオペラ・ブッファの大家パイジェッロはこれを快く思わず、その妨害により、翌16年の『セビーリャの理髪師』ローマ初演は失敗に終わった。しかし、この作品は上演を重ねるたびに人々を魅了し、ロッシーニの名を高めた。その後ナポリ、ローマ、ミラノ、ベネチアの歌劇場のために、22年ボローニャに帰るまでに20曲に近いオペラを作曲、そのなかには『オテロ』(1816)、『シンデレラ』(1817)、『湖上の美人』(1819)などがある。22年3月、彼はスペイン出身の歌手イサベラ・コルブランとIsabella Colbran結婚した。
1822年、ロッシーニはウィーンを訪れ、旧作を次々に上演、圧倒的な人気を集めた。ロッシーニの音楽に刺激され、シューベルトを含む多くの作曲家が、彼のスタイルを模倣した作品を書いた。一方、ロッシーニはベートーベンの音楽を知って感激、彼を訪問したりした。翌23年、ベネチアで『セミラーミデ』を発表したが、これはロッシーニがイタリアの歌劇場のために書いた最後の作品になった。
1824年に彼はパリに移り、同地のイタリア劇場の音楽監督に就任、旧作の上演および改訂上演のほか、フランス語による『オリー伯爵』(1828)と『ギョーム・テル(ウィリアム・テル)』(1829)を作曲した。とくにシラーの戯曲『ウィルヘルム・テル』による後者は大成功したが、その作曲で疲労し、一時ボローニャに帰った。帰郷中の30年、七月革命が起こると、自らの権利を守るためパリに戻り、係争が決着したのちは年金などにより悠々自適の生活を送った。彼はマイヤベーアのグランド・オペラが流行し始めるとその様式に反発を覚え、以後オペラの作曲はせず、おりに触れて書きためた各種の小品や、『スターバト・マーテル』(1842)などを発表しただけである。この間、健康や政情不安のためボローニャ、フィレンツェに住んだこともあったが、37年には前々から不仲になっていたイサベラと正式に離婚し、45年に彼女が死去すると、かねてから生活をともにしていたフランス女性オランプ・ペリシェOlympe Pélissierと46年に再婚した。そして、55年以後はパリに暮らし、『小荘厳ミサ曲』(1863)など少数の作品を書いた。68年11月13日、パリのパッシーで死去。
ロッシーニは1829年までの約20年間に改作を含めて39曲のオペラを作曲、その後の約40年は上述のようにオペラ界から引退した。オペラ作曲家としてのロッシーニは、第一に声楽様式の洗練を目ざし、アリアやカバティーナのなかで美しく磨き上げられた旋律美を追究した。それと同時に、声楽技巧を探究し、とくにベルカント唱法の再興に力を注いだ。その際、劇の展開と声楽表現の自然な一致を考え、技巧主体に陥ることを避けた。
彼は多くの独創的な表現方法を用いたが、オーケストラの扱いに卓抜な技巧を駆使、とくにクレッシェンド(音量を漸増する)を効果的に用いた。彼がオーケストラによるクレッシェンドをオペラで最初に用いたのは、『試金石』の終幕においてである。この技法は彼の代名詞となり、「クレッシェンド氏」というニックネームが彼に与えられもした。また『ウィリアム・テル』などのオペラ・セリアでは、色彩的、情景描写的な管弦楽法がしばしば優れた効果をあげている。これらは、彼のオペラの序曲にも表れており、現在オペラ自体は上演されなくても序曲は独立して演奏されている。
[美山良夫]
『フランシス・トイ著、加納泰訳『ロッシーニ――生涯と芸術』(1970・音楽之友社)』
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イタリアの作曲家。ベリーニ,ドニゼッティとともに19世紀初頭のイタリア・オペラ界に黄金時代を築いた。ボローニャの音楽学校で学び,1810年卒業。同年早くもベネチアでオペラを発表した。以後,29年にパリで初演されたシラーの戯曲による《ウィリアム・テル》に至るまで,38曲のオペラをベネチア,ミラノ,ナポリ,ローマ,パリなどで発表した。しかし,人生半ばでオペラ作曲の筆を絶ち,後半生はパリに住んで宗教曲やウィットに富んだ歌曲などを作曲した。
軽妙洒脱,躍動するリズムと旋律に加え,描き出される明快な音色は他に類をみず,その本領は《アルジェのイタリア女》(1813),《セビリャの理髪師》(1816),《シンデレラ》(1817)など,オペラ・ブッファに発揮されている。オペラ・セーリアは,《オテロ》(1816),《ウィリアム・テル》に代表されるが,重厚な管弦楽,劇的な盛上げに力量をみせる。ロッシーニは技巧に走り歌手の恣意に任されていたカデンツァの曲芸的唱法に終止符を打った。一方,多彩なコロラトゥーラ楽句を用いるなど,イタリア・ベルカント唱法の伝統を守った。またレチタティーボをセッコから管弦楽伴奏へと転換して多用した。独立して演奏されることも多い《ウィリアム・テル》序曲などでは,標題音楽的な試みもして,ロマン派音楽への橋渡し役となった。
執筆者:武石 英夫
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1792~1868
イタリアの作曲家。「セビリャの理髪師」「ウィリアム・テル」など38の歌劇のほか,管弦楽・室内楽などを作曲した。美しい旋律と軽快な気分によって愛されている。
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…イタリア語の台本による。(1)ロッシーニがベリオ伯の台本に作曲,1816年12月4日ナポリのフォンド劇場で初演した3幕のオペラ。全曲を通じて舞台はベネチアで進行,シェークスピアやベルディの作品にみられるキプロスやハンカチーフの場面は現れない。…
…D.O.ペトロセリーニの台本による。(2)ロッシーニがC.ステルビーニの台本に作曲,1816年ローマで初演した2幕4場のオペラ。パイジェロと競作するつもりもなかったロッシーニは,《アルマビバAlmaviva》または《無益な用心》という題で初演したが,パイジェロ一派の激しい妨害にあって初演は大混乱を招いた。…
…そして19世紀になっても大勢は依然オペラが第一であった。しかも,D.F.A.オーベールの《ポルティチの啞娘》,J.F.アレビーの《ユダヤの女》あたりを例外として,もっぱら外来者ケルビーニ,ロッシーニ,とりわけドイツ系ユダヤ人の折衷主義者マイヤーベーアの《鬼のロベール》以降の諸作が,オペラ・ロマンティックすなわちグラントペラgrand opéra(グランド・オペラ)に君臨していた。かたわら1780年代以降の〈ロマンス〉流行を反映してか,多くのフランス人作曲家(ボイエルデュー,オーベール,F.エロール)は,オペラ・コミックの作曲に励む。…
※「ロッシーニ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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