七間町
しちけんまち
[現在地名]糸魚川市
南寺町一丁目・同三丁目・
一の宮四丁目・
清崎・
中央一―
二丁目・
大町一丁目・
本町・
新鉄二丁目
東西に走る北陸道南側の町で、東は大町、西は横町に続き、向い側は新屋町である。もともとの町である大町・横町の間に成立したと考えられる。西端の四つ角から南へ信州街道が通り、その両側は新田町となる。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に「糸魚川分 七間町」とあり、高五二石二斗余、同所改出高六石九斗余で、「此所駅馬、船寄有之」と記される。
七間町
しちけんまち
[現在地名]富山市七軒町・丸の内一丁目
富山城の北西、東流する神通川の南岸に沿って東西に延びる。東端には北陸街道(巡見使道)の船橋が架けられ、神通川北岸の船頭町と結ばれた。田地方のうち。町方旧記抜書(前田家文書)所収の安永二年(一七七三)の書上は七間町と記載。その他江戸時代の城下絵図もおおむね「七間町」と表記し、七軒町とみえるのは少ない。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理によると、大川(神通川)淵であるため度々水害を受けて家数も少ないとし、町名も家が七軒しかなかったことによるという伝承がある。
七間町
しちけんちよう
[現在地名]静岡市七間町
駿府城の西にあたる大手門の正面から西に延びる城下横筋(横町)第五行の両側町。東から西へ一丁目から三丁目に区画される。東海道は東の札之辻町から当町に入り、三丁目の西端で北に折れ、縦筋(縦町)第六行の人宿町三丁目に続く(以上、町方絵図)。「武徳編年集成」は「梅屋町・人宿町・七間町辺りは古き町にて府の真中、上古阿倍市もここか、今宿もここか」と述べ、今川時代の今宿を当町付近と推定している。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は一丁目が丁頭家一・本家一一半・借家四、二丁目が丁頭家一・本家二〇半・借家六、三丁目が丁頭家一・本家二〇・借家二五。
七間町
しちけんちよう
[現在地名]滑川市七間町
北陸街道の南に位置し、西は川浦町、南は寺家村、北は大町・荒町。元禄三年(一六九〇)の大火後に荒町と寺家村の戸数が増え、明和年間(一七六四―七二)寺家村の称念寺の大門通に成立した町で、当初家数が七軒であったのが町名の由来と伝える(「滑川町誌」など)。
七間町
しちけんまち
[現在地名]大野市元町
七間通の両側町。通りは美濃街道で道幅五間。城下の中心で、大店が軒を並べ、西町・東町に分れていた。宝暦三年(一七五三)の酒造米石高人別帳(「大野町史」所収)によれば、酒造家は東町に五軒、西町に二軒あるが、なかでも東町の亀屋茂右衛門は酒造米六六七石で大野城下最高。西町の茶屋久右衛門五二二・五石、東町の牛首屋権兵衛三九三・二石がこれに次ぐ。
七間町
しちけんちよう
[現在地名]熱田区富江町
神戸町筋の先(南)、ツタ道筋の北にあり、町の長さは一八間であった(「名古屋市史」地理編)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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